05 召還物の面倒は、最後まできちんと見ましょう。
結局、マルガリータが泣き止むことはなかった。いや、泣き止むには泣き止んだが、眠っただけだった。
謎はさらに謎を呼び、既に推測とか憶測のできる状況じゃない。ぜんぜんピースが足りていない。
「起きませんね……」
他の部屋に放っておくのも気が引けるし、この非常時に生きている人間で離れ離れになるのは遠慮したい。そんなわけで、マルガリータはリビング……というか、応接室? から引きずってきたソファに寝かせていた。ロココっぽい金で縁取られた、豪奢すぎるソファに毛布。温暖な気候と、まだ子供なのですっぽりソファにおさまってしまうサイズが幸いした。心配そうに大石さんはマルガリータをちらちらと見つつ、パンを千切ってスープに浸し、俺の口に運んでいた。イミさんは椅子の上で膝を抱え、パンをかじったままうつらうつらとしている。
ちなみに、このパンは固くてあばらのイッてる俺は噛み切るのがつらい。なわけでスープなのだ。このスープもパンも台所にあったのをそのまま持ってきただけ。どうも残り物らしく、材料はいくらでもあるのに調理済みのものは今日食べ尽くせばなくなってしまうだろう。
食物も見る限りはヨーロッパとそう変わりはしないらしい。変な色や形はしていない、とのこと。それでも奇妙ににんじんが苦かったりするのは、品種改良されていないせいだろう。日本のスーパーに売られているもののほとんどは品種改良した食べやすいものだ。なるほど、このにんじんを食べると、昔子供が野菜嫌いだった理由がよくわかる。俺はもう味覚が大人に近いからたいして苦ではないが、独特の苦味というか……、薬草食ってるような味なんだよな。これ。
時間をかけて俺が食い終わると、大石さんは食器を片付けはじめた。イミさんとマルガリータの分を残して大きな銀の盆にのせる。
「今日はどうしますか?」
俺が問いかけると、困ったように眉尻を下げる。えらの張った顔立ちは奇妙に神経質に見えるのに、そうして困った顔をしているとずいぶん印象が緩和されていた。
「マルガリータさんを放ってはおけませんし……、しばらく目覚めるまで、待っていたいんですけど……」
「わかりました。今のところ、唯一の手がかりでもあります。賛成します」
ほっとしたように大石さんは肩の力を抜く。だから、なんでそうたかが高校生をそんな対等に扱えるんだ。俺なら絶対見下しているところだぞ、ふたまわり以上離れた子供なんて。
それは大石さんの美点でもあるけど、なめられそう、って意味でもあるんだよな。人間がどこにもいない、とは限らないから、不用意に甘く見られる態度はしないほうがいい、と俺は思うんだが……、無理して倒れられても困るし。ふてぶてしく振舞うのは苦手じゃないから、そのへんは俺が出張ればいいか。
――なんでオマエ、そんなにかわいくねぇんだよ。物言いキツすぎるんだって。
ふと記憶が蘇ったのを、無理やりに蓋をする。今そんなものにかかずっている場合じゃない。
「イミさん」
「ん……」
「寝るなら寝る、起きるなら起きる。しっかり分けたほうがいい」
「んー……」
「パンかじったままだし……、もういっそ寝たらどうだ」
「ねる」
起き上がって三つほど椅子を連結したかと思うと、白雪姫よろしくその上に寝転がった。
……寝にくくないのか、それ。
「宇田さん、器用ですね。
マルガリータさんも起きる気配はないですし……、私、ちょっと本でもとってきますね」
「あ、はい」
苦笑しつつ大石さんは出て行く。まったく律儀な……。
……ん?
本……って、読めるのか? あのおじさん。
結果を言おう。
持ち込んだ、おそらく城の書籍を普通に読んでいた。
「あの、大石さん……?」
「あ、はい。何か? お手洗いですか?」
声をかけると、普通に紐を挟んで本を閉じる。
「いやその……、読めるんですか?」
「読めない本を眺める趣味はないですよ?」
……何か、根本的なところ食い違っちゃいないか……?
俺はすこしばかり黙った。頭を整理するためだ。
大石さんも黙った。俺の言葉を待つように。
「……大石さん、それはどこの言葉で書かれた本ですか?」
「ええと……、たしか、クルベルア語だったと思います。クルベリア語のコーナーから取ってきましたから」
「……そんな言語、地球に存在してましたっけ」
「いえ、ないはずですが?」
……ふむ。
地球にない言語。大石さんはそれが読める。そして大石さんにとって、それは少しも問題ではない。むしろ俺が疑問に思っている理由がわからない。
となると……。
「大石さん、俺、何人に見えますか」
「一人にしか見えませんが」
そりゃそうか。人間がダブるくらい視界がおかしけりゃ、本なんて読めないよな。
「俺にはそのタイトルすら読めませんよ。なんだってそんなの読めるんです?」
そう言うと、大石さんは目を見開いた。
「読めないんですか? これが?」
「少なくとも俺が人生この方習ったのは、英語と日本語のみ。日常会話に不自由せず読み書きできるのは、日本語くらいのものです」
「いえ、私も英語は苦手ですが……、私の目にも習った覚えのない文字に見えますよ、これは。でも、なんでか文字を追いかけると、しぜんと意味がわかるんです。そうですね、脳内にいつのまにか、クルベリア語の読み書きについてインストールされている感じ、でしょうか。
独特のことわざや言い回し、慣用句になると意味がわかりませんが……、日本語に類似するものなら脳が勝手に認識しているようですね」
ぞっとした。
まさか脳みそをいじられたんじゃないだろうな。なんでそんなに平然としてるんだ、このおじさん。
「すっかりお二人も同じことになっているのかと思いましたよ」
はは、と笑う。空元気には見えない。特に気にしていないんだろう。神経質そうなのに。イミさんだって自分の身体を不気味がったみたいなのに、なんで若者二人より順応早いんだ。
唖然としているとその理由を察したようで、大石さんはすこし困ったように笑う。
「この歳になると、いろいろ、諦めが早くなるんです」
それにしても異常なくらいおおらかだぞ。それは。
「納得できなさそうですね。……そうですね、私も平時なら納得できなかったと思います。正直、自分でも驚くほど混乱がない。
……混乱がない、というより、現実逃避の一種なんだと思いますがね」
ふと自嘲めいた色が瞳に浮かんだ。
「リストラされたんですよ。……妻になんと言っていいかわからなくて、日曜出勤だ、なんて嘘をついてね。あの公園でぼうっとしていたんです。だから、私にとって『これ』は……言い方は悪いですが、夢の中にいるようなものでしてね。現実味もあまりありません。
私としては、君や宇田さんが落ち着き払っているのも奇妙に見えますがね。私のようではないみたいだし」
「よしてください。俺も……、引きこもりなんですよ。一応高校の卒業資格だけ、取っておかないとヤバいかと思って通信制に通っています。スクーリングだったんですよ、日曜。
だから、俺の日常なんてゲーム三昧です。夢と現実の区別ついてないのは俺のほうですよ」
現実逃避な二人、ってわけだ。俺たちは顔を見合わせて少し笑いあった。大丈夫、笑えるうちは……、なんとかなる。そう思いたい。
少し空元気だった。少し、無理をして強がった。それはたぶん、大石さんも同じだと思う。
でも今はそうする以外にどうしたらいいのかもわからない。
「あっ……、それじゃあ、勇者についてとか、すみませんが調べられますか?」
「ええ、ちょうどその記述を探してるんですが……、どうも普通の御伽噺しか見つけられなくて。今は歴史書を読んでいたんです。しかし、私は昔から歴史が苦手でして……、こう、次々と名前や年号や地名が出てくるでしょう? もう、正直なにがなんだか」
「検索が使えればいいんですけどね」
「はは、私が子供のころには、パソコンもインターネットも普及していませんでしたから。昔に戻ったと思って、気長にやりますよ」
そう言って大石さんはまた本のページをめくった。
俺はこの手だし、まあ、手が大丈夫でも本なんて読めないわけだから、えらく暇になった。
ぼーっとしていると、もぞもぞとソファの上の物体が動く。ややあって、ごろん、と床に落ちた。
「……」
大石さんは気づいていない。真剣に本にのめり込んでいる。マルガリータはもぞもぞと毛布の下でもがき、ややあってもそりと顔を出した。腫れぼったい目が丸っこい顔をことさらにコミカルに演出している。……冷やしてあげればよかったな。
「おはよう、マルガリータ」
「お、おはよう、ございます」
おろおろとマルガリータが挨拶をすると、大石さんがはっと顔を上げた。慌てて本を置いてマルガリータの手を取る。
「おはようございます、マルガリータさん。
朝ごはんはどうですか?」
「……たべ、ます」
大石さんはマルガリータを膝に乗せて、冷めたスープとパンを食べさせ始めた。膝の上、というのにマルガリータはずいぶん戸惑っていて、しまいには降りてしまったけど。
それから顔を洗わせて、イミさんを起こす。
「マルガリータさん、私たちは昨日、ここに来ました。けれど、どうしてここにいるのかわかりません。
このお城にも街にも人はいないようですが、どうなっているのかわかりませんか?」
マルガリータはぎゅっとドレスのスカートを握り締め、しばらく俯いていた。けれど、青ざめた顔を上げて俺たちを見回す。
「ゆうべは……失礼、いたしました。
改めまして、あたしはアシュベル王家第十八王女、マルガリータ・トゥル・ト・アシュベル。今代の、召喚の巫女の役目を仰せつかいました。
父及びすべての王族、臣下にかわり、勇者様のご来訪を心より歓迎いたします」
無理した言葉ではあったが、意味もわからないものを丸暗記した、わけではないようだ。しかし……。
この、ちっちゃくて丸顔でそばかすだらけの、ドレスを着ているのに奇妙にみすぼらしい子が王女で召喚の巫女……? 厄介ごとの臭いしかしないぞ、俺には。
俺は大石さんと視線を交わした。向こうも苦い顔をしている。イミさんは……、いいからパン齧るのやめようよ。空気読めよ。いや、無理は言わない。もう動くな喋るな黙ってろ。それが一番安全のような気がする。
「マルガリータさん、どうして君だけ残ったんだい?」
「勇者様をお出迎えして、道をお示しするのが役目です」
「君以外に誰もいないのはどうしてでしょうか」
「勇者様をここに招くため、皆の肉体と魂は世界のハザマというところに、いきます。……と、聞きました」
世界のハザマ……狭間、か。
大石さんは質問を続ける。
「どうしてそこに行かなければいけないんだろう」
「ええと、魔術師のかたが言うには……、いなくなる理由は『シチに入れるようなもの』で、もうひとつ、『集めたすべたの力を勇者に渡す』ためだそうです」
シチ……、質、か。勇者がここに来ている間、俺たちの命……魂の担保としてこの国の人間が根こそぎいなくなった、ってことか? んな無防備な。
そうだとしても、城も街も……、話を聞く限りじゃ、長時間自分たちがいなくなる準備なんて、なにひとつしてなかったようだし。
「集めた力を……?」
大石さんが反応したのは、そっちのほうだった。こくりとマルガリータが頷く。
「わがアシュベル王国ひとつぶんの、体力と戦闘能力、魔力や知力。すべてを勇者様に与えるため……です」
「ふーん……」
イミさんが納得したように頷いた。……そうか。大石さんが本を読めたのも、イミさんが無尽蔵な体力を誇ったのも……、待て。俺はじゃあなんだ?
魔力だと気分的に嬉しいが。
「そうか……。では、マルガリータさん。どうしてあなたが巫女だったのでしょう」
大石さんの言葉に、マルガリータは肩を跳ねさせた。
「あなたはまだこんなに小さいし、お父さんもお母さんもいないところに一人ぼっちで……知らない人を出迎える。それは、あんまりにもひどいことだと私は思うのですが……」
ぎゅう、とスカートを握り締め、マルガリータは沈黙した。寝起きのままでぼさぼさの金髪がうつむく。
そして、だいぶ待った後にようやく小さな声で言った。
「あたし、が……、いらない子、だから、です」
ああ、やっぱり厄介ごとだった。
たぶん彼女は、普段は省みられることのない子だ。第十八王女、つまり他に十七人王女がいる。既に嫁いだ人もいるかもしれないが、召喚の巫女なんて大層な役職につく人間は他にいくらでもいていいはずだ。
なのに彼女が残された。能力でもなく、外見でもなく、性格でもない。
きっと側室かなにかの子だ。地位の低い、女性の。
誰もいない国にたった一人で、どこの誰かも分からない、そのくせ力と知能が強力な「勇者」の出迎え。
年頃のきれいな女の子を残すんじゃどうなるかもわからないし、地位の高い子を残すのも危ない。どうなったって構わないような子が残された、……そういうことだろう。
ひどく苦々しい心地になる。
「私たちは、帰ることができる?」
「はい。魔王を倒していただければ、必ず」
だろうな。国王はじめとした全員が質にとられる召喚なんだから、帰れる、と考えるのが自然だ。
「帰ったとき、私たちの世界はどうなっているだろう? たとえば、御伽噺で百年後に帰ってしまった……といった話なんかは、私たちの世界にもあるのですが」
「あ……、すみません。お帰りになられた勇者様が再びおいでになったことはないので、その」
わからない、と。
「いいよ。気にしないでください、君の責任ではないですから。
私たちのやることは、その魔王さんを倒すことで間違いありませんか?」
「はい」
「魔王さんは私たちの世界にはいなかったので、いると世界はどんなふうに困るのか、簡単に説明してもらえますか?」
「あ、はい。
魔王、というのは、人の心の闇だと聞きます」
「心の……闇、ですか」
「御伽噺なので、どこまで本当かはわからないと聞きます。
ええと、それで……、魔王がいると、それだけで周囲を毒がとりまき、土地も水も腐ってどんどん人の住めるところがなくなっていきます。
そうすると、その土地の植物も動物も人も、腐って死んでいきます。けど、時々死なないで、変に順応してしまうのがいて……。
それを魔物、と呼んでいます」
……なるほど。まあ、国民が根こそぎいなくなっている以外は、比較的ありきたりな勇者召喚物、と。
そういうわけで、俺たちの召還された経緯は(どのくらいが真実なのかはさておき)判明した。
しかし、なんと言うか……。
呼んだなら、そのあとのアフターケアもちゃんとしろよ。ちっこい女の子ひとりポツンと置き去りにして何やってんだよこの国は。
「魔王はどこにいますか?」
おそらく、この話の中では最後になるだろう質問を大石さんは投げかけた。
マルガリータは窓の外をキッと睨み(丸顔で腫れぼったい目の子供なので迫力はない)、きっぱりと言う。
「西の果てに」
……お嬢さん、今朝顔を出した太陽の方向を鑑みるに、そっちは南だ。