02 朝の挨拶、おはようございます。
地面が、光った――。
腕で目をかばう。身体が勝手に強張る。
アニメや漫画、ラノベじゃよくあるパターンだけど、日常生活でこんなのがよくあったら異常だ。
非日常だからこそファンタジーの分野があるんだろうけど。
ともかく、いきなり異世界、いきなり魔物発生、いきなり魔法発生、などなどなど、いきなり魔方陣が出てきて発光したなら、ぱっと思いつくだけでもそれくらいの問題は発生しそうなものだ。強張るのもしかたがないと思う。
瞼ごしに感じる光が少しずつ弱くなる。そろり、薄く右目だけを開けた。白くて明るすぎてまだよく見えない、何が――。
そう思った、その瞬間。
「ぐふっ!?」
上から激しい衝撃が降ってきて、俺は地面に押しつぶされた。
か、肩が。あばらが。腰がッ……!
「だ、大丈夫ですか!?」
硬い足音があわただしく駆け寄ってくる。俺は頬の下に感じる冷たい石の感触に気づいた。さっきまでの土の地面じゃない。
「あ、あの……、ど、どこか痛い……とか」
声は男のものだった。人を心配することに慣れていない、心配してもどう対処していいかわからない、……そうだな、たとえば育児も家事も奥さんに任せきりだった旦那が、突然家事と子供を残して奥さんがいなくなった、みたいなドラマの男優がこんな途方に暮れた声をしていたかもしれない。
どうなってるんだ、と声を出そうとして、圧迫された肺のために咳き込む。身体が痛い。
「あ、あああ、ええと、どければいいの……か……」
おろおろと歩き回る足音。汗が流れる。冷や汗だ。床に打ち付けたんだろう、肩や額が痛い。床に面していない背中や腰も痛いってどういうことだ――。ついでになんか、重いような。
「ぁぐうっ!」
ぐい、と肩に誰かが手をついて、体重をかけた。
「い、いだっ、い、つ、うっ……」
「んー?」
生理的な涙が滲む。どこか間延びした、寝ぼけたようなハイトーンの声がした。透き通っていて苦味も渋みもまったくない、綺麗な声だった。
唐突に俺は思い当たる。
「ど、け、ろっ……!!」
この痛みもこの重さの大元は――。
「ふあ……、おはよ?」
あの、枝の上の女の子が犯人だ、と。
「……あれ」
「あの……その、とても痛がっているようです、から……。どけてあげてくださいません……、か」
もっと言ってやれ、おじさん。とりあえず俺はまともに喋れる余裕がない。
「えーと……、あ、うん」
無造作に俺の上から立ち上がる。とはいえ気を配りはしたのか、全身の筋肉を使って俺の身体にいっさい体重をかけずに立ち上がったようだった。空気を肺に取り込む。上手くいかずに咳き込み、四肢に激痛が奔った。
「あー……、ごめん、重かった?」
「立て……なさそう、です、よね……?」
なんとか空気を取り込み、呼吸を整える。そのまま身を硬くして痛みに耐え、どこが痛むのか、ゆっくりと把握していく。
指。これは両手両足問題はなさそうだ。腕や足の痛みで痺れるような感覚はあるが、指そのものは痛んでいない。手首。右の手首は動かすと激痛が奔る。右の肘も同じだ。肩はなんともない。逆に左の肩は――だめだ。左手をすこし動かそうとしただけで痛む。
次に首、筋は痛むが、骨には影響なさそうだ。額――これはわからないけど、せいぜい擦り剥けているか、たんこぶ程度だろう。あばら。呼吸のたびに痛む。……ひびでも入ったかもしれない。腰、は打ち付けて痛いだけ、あっても内出血で済むだろう。左足は平気だけど、右の膝が妙に痛い。
骨折、ひび、合計で四、五箇所は覚悟する必要があるか。ゆっくりと左足を縮めて体の下に持ってきて、つま先を地面につける。
「あ、ぐ、い、つっ、ぐ、うっ」
うめき声が漏れるのはしかたがない、支えようとしてくれたサラリーマンのおじさんの手を遠慮して(どこもかしこも痛くて触ってほしくない)、右の肩で身体を支えながら、ゆっくりと身を起こした。
「あ、ふ、うっ……」
冷や汗がどっと噴出す。それでもなんとか立ち上がり、周囲を見回した。白い床。薄く光を放ち続ける、大きな魔方陣。太い柱には細かな装飾がびっしりと施され、――なんていうんだ、マリー・アントワネットとか、エリザベス女王とかを彷彿とさせるホールだった。神経質なほどどこもかしこも装飾で覆いつくしている。
思わずげ、と顔をしかめた。正直、俺はこの手のごてごてした――過密な装飾は好きじゃない。まるで平らで模様もでこぼこもない面が、ほんのすこしでもあるのは悪いことだ、と言わんばかりに、強迫観念に駆られたかのように装飾だらけ。女子の花柄のスカートとかも、色がひしめき合いすぎてかわいいとか思えないんだよな。とまあ、それは俺の趣味であって、それがかわいい、と思うのが悪いことだとは思わないけど。
ただこうもあたり一面徹底して装飾だらけ、とかをやられた部屋にいつのまにかいる、なんて……気分のいいことじゃない。自分の意思でここに来たわけじゃないから、なおさらだ。修学旅行で強制的に連れて行かれるのも勘弁願いたいが、予告も了承もなしに連れてこられるのはもっと嫌だ。
「なんか……ごめん。重かった、みたい」
声をかけられて振り向くと、眠たそうな顔のあの子がいた。ゆるくウェーブのかかった黒髪に、とろんとした目。くたびれたジャージなのもあって全体的にまるでぱっとしないけど、まともな顔してまともな格好すれば、かなりの美少女じゃないかと思う。顔は小さいし、睫も長い。ただ、ジャージから覗く手首なんかは細すぎるし、胸も腰も薄いようだ。
でも、とりあえず。
「ああ。重かった」
「……だよ、ね」
ぼーっとしたまま、相槌を打つ。どこまで本気で謝っているのかわからなくて、いまいちいい気分はしない。次に、その一歩後ろに立っていたサラリーマンに視線を移した。ところどころ跳ねている、七三分けにした髪。四角くてえらの張った顔立ち。細い目がどことなく神経質そうな印象がある。体つきは、太っているわけではない。中肉、といったところだろうか。こちらも濃紺の背広に、ああ、通勤用の鞄を持っている。つま先の色の剥げた革靴は合皮なんだろう、白い地の色が出ていた。
鞄。そういえば、と思ったら、地面に俺の分も転がっていた。視線で確認すると、サラリーマンのおじさんが拾い上げてくれる。
「持て、る、……わけないの、かな」
気遣う、ということがものすごく苦手そうに、途切れがちにぎこちなく気遣ってくれた。
「すみません、が……、持っていただいても」
おじさんは頷いた。一度は緩んでいた痛みが、また強く主張し始める。手当てしないと、まずい。
「誰か……誰かいないか、探してきますよ。君たちはここで待っていてください」
おじさんはあわただしく、俺の鞄を持ったまま大きな扉から出て行った。
「……いればいいけど。誰か」
女の子がさめたような口調で言う。見下ろすと、眠たげな目がおじさんの背中から離れて俺を見上げる。ばたん、と大きな音を立てて扉が閉まった。それから、その視線は床の上を滑って自分の周囲をぐるりと見回した。
俺もつられて、視線だけで追える範囲を追ってみる。思わず息を呑んだ。
床が光っていたから、そして、柱や壁の装飾に気を取られていたから気づかなかった。
魔方陣は円を描いている。その外側にぐるりと――、白い服と白い靴が無数に散らばっていた。まるで中身の人間だけ消えた、とでも言うように。
「これ……は……」
「お約束的展開なら、勇者召喚か魔王召喚か、それとも召喚獣でも呼ぼうとしてお陀仏。……じゃないかな」