第16話 微熱
「……37・8度。ちょっと高いね」
保健師である美奈子にそう言われて、心理的なものだけで熱って出せるんだ、と、國弘は妙なところに感心してしまった。
朝、ひどく身体が重かった。
昨夜は一晩中、四方とのことが頭から離れず、一睡もできなかった。
結果的に、二日連続の睡眠不足だ。
起床点呼と土曜日の清掃だけは意地で出たものの、朝食をとる気力がまったくなくて、そのまま自室のベッドに倒れ込んだ。
國弘の様子に伊波は、「保健室にとっとと行け」と言ってきかなかった。
心配してくれているのかと思いきや、「風邪だったら移されたくないから」という理由だった。
確かにダルくて、回転しすぎる頭は熱が籠もっているような気がしたが、原因は明らかだ。
病気じゃない、となれば、どうせ保健師に追い返されるだろうと思っていた。
そんなことを考えながら、しぶしぶ一人で保健室を訪れた。
そうして実際に熱を測ってみると、意外にも微熱があった、というわけだった。
「風邪の症状は? 咳、鼻水、喉が痛いとかない?」
「ないです。とにかく、その、ダルくて……」
美奈子は「そっか」と短く相づちを打って、パソコンに何かを打ち込みはじめた。
「今日は土曜日だから、普通の病院はやってないし、救急ってほどでもないと思う。とりあえず今日は療養室で様子見で、先生方と親御さんには私から連絡しておく。それでいい?」
その口調は徹底的に事務的だった。
本当に具合が悪いときならもう少し優しくして欲しいところだが、今はそのさっぱりした距離感が、むしろありがたかった。
美奈子はわりと整った顔立ちをしているのに、女性らしさを感じさせる要素を意識的に排除している雰囲気がある。
化粧はしているのかわからないし、長めの黒髪は黒いゴムできっちりひとつに結ばれている。
唯一、白衣の胸ポケットに刺さった黄色いボールペンは、ノックボタンのところに黄色い犬を模したキャラクターがついていて、小さな茶色い目と目が合った。
美奈子の後について、トボトボと奥の部屋に向かう。
療養室は大きな部屋を、簡易な壁で小さな部屋に区切っていて、國弘はそのうちの一つに案内された。
中はベッドと、小さなサイドテーブル、空気清浄機がひとつ。
換気用の小さな窓もあって、ベージュのカーテン越しに、薄い昼の光が差し込んでいる。
生徒のあいだでは冗談まじりに『独房』と呼ばれている場所だが、実際はそこまで大げさなものではない。
熱や体調不良の生徒は、念のため寮の自室ではなく、ここで休む。
感染症だった場合、寮内に広がらないように、という配慮らしい。
必要に応じて病院に連れて行ってもらえたり、食事を運んでもらうこともできるが、娯楽はなく、好んで来る場所でもない。
美奈子は空気清浄機の電源を入れた後、枕元の壁に取りつけられた小さなボタンを指さした。
「なにか必要なものがあったら、それで呼んで。水も置いとくね」
そう言って、持っていたペットボトルをサイドテーブルに置くと、彼女は特に余計な声かけもなく、静かに部屋を出て行った。
扉が閉まると、急に世界がしんと静かになった。
國弘は、ベッドの整えられた白い布団をめくり、身体を滑り込ませる。
寝具は自室のものより硬く、清潔すぎるシーツはカサカサとして肌なじみが悪い。
お世辞にも寝心地が良いとは言えなかった。
こんなところに閉じ込められて、どうしたものか、と思う。
仰向けに横たわり、天井を見つめる。
耳に届くのは、空気清浄機のかすかな風音と、外から時々響いてくる生徒達の話し声。
もう幾度となく繰り返された、四方が自分を見つめる暗い眼差しが、脳裏に蘇る。
必死に意識を逸らそうとしたけれど、無理だった。
観念した瞬間、心の蓋が外れるように、昨夜の感触や体温、羞恥、恐怖――そんなものが一気にぶり返してきた。
思い返すたびに、恥ずかしさと情けなさで、悶えるしかなかった。
そうして次に来るのは、どうしようもない後悔だ。
告白したことを。
好きなどと言ったことを。
――好きだなんて、簡単に言うことじゃないよ。
簡単になど、言ったつもりはなかった。
でも、あの後の展開を考えれば、自分はやっぱり、簡単にしか考えていなかったのかもしれない。
何より、せっかく少しずつ築いてきた四方との距離を、告白なんかで壊してしまったことが悲しかった。
全部、全部、無駄になった。
城青に来たことも、寮会に入ったことも。
「……っ」
叫びたくなって、寸前のところで必死で声を押し殺す。
代わりに、目元からじわりと涙が吐き出される。
自分はなんてカッコ悪いんだ、と思う。
何が『好きです』だ。
自分は結局、子供のままだ。
もっと大人だったら、もっと落ち着いていたら、あんな状況も冷静に受け止められたのだろうか。
でも、無理だった。
怖かった。
女の子とさえ、付き合ったことはなかった。
男同士なんて――なおさらだ。
一通り自分を責め尽くした頃――ふと、胸の奥に別の感情が浮かぶ。
四方に対する怒りだった。
あんなふうに乱暴にするなんて――あんなの、違うじゃないですか。
酷いじゃないですか。
先輩なら。
高三なら。
世間知らずな後輩を軽くいなすくらい、できてもよかったんじゃないか――。
仰向けのまま流れ続けた涙が、耳の中にたまっていくようで、不快な感覚が強くなる。
耐えられずに身体を横に向けると、上側の耳に入り込んだ涙が、さらに奥へ落ちていってゾッとした。
上半身を起こし、そのまま膝を抱え込む。
ここでならいくら泣いてもいい、と、涙腺を許してやった。
その時、ドアがコンコンとノックされた。
國弘の返事を待たず、保健師の美奈子が部屋に入ってきたので、ごまかすことができなかった。
「昼食についてなんだけど、食欲は? 消化の良いものつくってもらう?」
泣いてボロボロの國弘が目に入っているはずなのに、美奈子は平然としていた。
薄暗いこともあって、彼女は気づいていないのかもしれない、とも思った。
「それで、お願いします」
國弘はなるべく、普通っぽい声を意識して言った。
少し鼻声なことを除けば、自分でも満足いくほどの『普通さ』だった。
美奈子は「了解」とだけ言って、また部屋を出ていった。
だが、開いたままのドアが閉まらない。閉め忘れか、と思ったところで、美奈子が戻ってきた。
手に持っていたのは、ティッシュを丸ごと一パック。
業務用のビニールの無地のパッケージだ。
「全部使っていいから」
「……ありがとうございます」
國弘は受け取ると、ティッシュを二枚引き抜いて涙を拭い、鼻を噛んだ。
鼻水をシーツで拭うのは抵抗があったから、助かった。
美奈子は部屋の外からゴミ箱もベッドサイドに置いてくれた。
「話、聞こうか?」
変な気遣いは感じられない。ただ、必要なら聞く、という姿勢。
その素っ気なさが逆に、彼女にならどんなことも話せそうな気がした。
「あーっと……」
でも。言えるはずがなかった。
昨夜のことは、誰にも説明できない。
大人になんて、なおさら。
性的なことが絡む以上、言った瞬間に『事件』になる。そんなことは、望んでいない。
「……大丈夫です」
美奈子がゆっくりと一度、瞬きをした。
けれど彼女はそれ以上踏み込まず、やっぱり淡々と、「そう。また見に来るね」と言って扉を閉めた。
彼女が行ってしまうと、体が一層重くなるのを感じた。
昨夜のことも、今抱えている気持ちも、どこにも置き場がない。
誰かと共有することもできない。
この先、ずっと一人で抱えていくんだな――そんな絶望が静かにのしかかってきた。
國弘はそれから何時間も、昨夜のことを、嫌というほど考え続けた。
けれど、自分の感情を何度も何度も反芻しているうちに――ふっと、ところどころ思考が空白になり、時折そこに、昔の友達の馬鹿げた冗談とか、受験のこととか、そういった関係ないものが割り込んでくるようになった。
やがて、「退屈だ」という気持ちさえ芽生えてくる。
それは心が少しずつ回復しはじめている証拠だった。
ああ、一つのことで傷つき続けるのも、限界があるのだな、と思い知る。
たった半日で持ちなおす自分に、もうちょい傷ついとけよ、とツッコミを入れたくなるが、惰性で傷心を引きずり続けるのは馬鹿げている。
健康な自分にちょっと腹が立つが、しょうがない。
夕方には体温も平熱まで戻っていたが、念のためその夜は療養室でそのまま眠るよう言われた。
その夜、國弘は驚くほど深く眠った。




