エピローグ「氷海の彼方」 ――力を持つ者の、責任――
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サンフランシスコ、国連設立会議。1945年6月。
戦争が終わった世界は——まだ、形を持っていなかった。
灰の上に、何かを建てなければならなかった。
サンフランシスコの空は青かった。
太平洋の光が、会議場の窓から差し込んでいた。
五十カ国の代表が集まっていた。
戦勝国。敗戦国。中立国。大国。小国。
全員が——新しい世界の形を、この場で決めようとしていた。
その会議場の一角に、スウェーデンの代表団がいた。
首席代表はアクセル・ローゼン外務大臣だった。
だが——誰もが知っていた。
本当の意味での代表は、その隣に座っている男だということを。
カール・レーヴェン少将。
軍人が外交会議に出席することは、異例だった。
だがスウェーデンの場合——誰も異議を唱えなかった。
この男が来た、ということ自体が、一つのメッセージだった。
米国代表のエドワード・ステティニアス国務長官が、レーヴェンに歩み寄った。
「将軍」
「閣下」
「スウェーデンの常任理事国入りは——決まったも同然です」ステティニアスは言った。「英国が強く推薦している。ソ連は——複雑な顔をしていますが、拒否はしないでしょう」
「感謝します」
「ただ——」ステティニアスは少し声を落とした。「常任理事国には、拒否権が付与されます。五大国と同じ権限です。スウェーデンにとって、非常に有利な——」
「拒否権は、要りません」
ステティニアスは止まった。
「……今、何と」
「拒否権を付与しないよう、要請します」レーヴェンは言った。
ステティニアスは長い沈黙の後、言った。
「理由を——聞かせていただけますか」
「会議室を、借りていただけますか」
会議場の小部屋。
集まったのは——米国、英国、ソ連、中国、フランスの代表だった。
そしてレーヴェン。
スターリンの代理人、アンドレイ・グロムイコが座っていた。英国のアンソニー・イーデンが座っていた。
全員が、このスウェーデンの軍人を見ていた。
レーヴェンは立ったまま、話した。
「拒否権は——使う側の国を、腐らせます」
部屋が静まった。
「拒否権を持つ国は、自国の利益のためだけに、それを使います。国際社会の決定を、一国が覆せる。それは——安全保障のための制度ではなく、大国の既得権益を守るための制度です」
グロムイコの目が細くなった。
「スウェーデンは——常任理事国の特権を、批判するのですか」
「批判ではありません」レーヴェンは言った。「スウェーデンが、その特権を必要としない、と申し上げています」
「なぜ」
「スウェーデンが国連で果たすべき役割は——大国の論理を通すことではありません」レーヴェンは全員を見渡した。「大国が対立するとき、その間に立てる国が必要です。どちらの側にも属さず、どちらからも信頼される国が」
「理想論では」イーデンが言った。
「現実論です」レーヴェンは言った。「米国とソ連は——これから長い間、対立します。その対立の中で、国連が機能するためには——どちらにも拒否権で潰されない、中立的な常任理事国が必要です」
部屋に、沈黙があった。
「スウェーデンは——拒否権なしの常任理事国として、機能します。いかなる議案にも、賛否を明確に表明します。大国の圧力に屈せず、小国の声を代弁します」
「それは——危険ではないですか」ステティニアスが言った。「拒否権がなければ、多数決で押し切られる。スウェーデンの意志が——」
「多数決で押し切られるなら——それが正しい結論です」レーヴェンは静かに言った。「一国が覆せる決定に、国際的な正当性はありません」
グロムイコは長い間、レーヴェンを見ていた。
「……スターリン書記長は、この提案を——不愉快に思うかもしれません」
「知っています」レーヴェンは言った。「だからこそ、ソ連代表に最初に伝えました」
「なぜ」
「拒否権を放棄することは——ソ連への敵対ではありません」レーヴェンは言った。「スウェーデンが拒否権を持てば、米国の圧力で、ソ連に不利な決議を通すために使われる可能性があります。スウェーデンが拒否権を持たなければ——そのような道具にはなりません」
グロムイコは動かなかった。
「……続けてください」
「スウェーデンは、東西どちらの道具にもなりません」レーヴェンは言った。「その代わり——どちらからも、話を聞いてもらえる国になります。それが——スウェーデンの安全保障に、拒否権より確実に機能します」
部屋の空気が、変わった。
イーデンがステティニアスを見た。ステティニアスがイーデンを見た。
グロムイコは——窓の外を見ていた。
休憩時間、廊下で。
グロムイコはレーヴェンに近づいた。
周囲に人がいないことを確認して、低い声で言った。
「将軍」
「グロムイコ閣下」
「スターリン書記長は——あなたを、評価しています」
「光栄です」
「同時に——恐れています」グロムイコは言った。「あなたのような人間が、国際舞台に出てくることを」
「なぜですか」
「あなたは——力を持ちながら、力を使わない選択をする」グロムイコは言った。「それが——最も危険な種類の力です」
レーヴェンは少し間を置いた。
「スターリン書記長に伝えてください」
「何を」
「スウェーデンは——ソ連の敵ではありません。だが友人でもありません」レーヴェンは言った。「対等な隣人です。対等な隣人として、長く付き合いたいと思っています」
グロムイコは何も言わなかった。
だが——うなずいた。
わずかに。
会議場。翌日。
採決が行われた。
スウェーデンの常任理事国入りが——承認された。
賛成四十七。反対一。棄権二。
反対したのは——ソ連だった。
だが拒否権を行使しなかった。
会議場に、拍手が広がった。
ローゼン外務大臣が立ち上がって、一礼した。
レーヴェンは座ったままだった。
隣のローゼンが囁いた。
「立たなくていいのですか」
「私が立つ場面ではない」
「しかし——今日の結果は、あなたの——」
「スウェーデンの結果です」レーヴェンは言った。「私個人の結果ではない」
ローゼンは何も言えなかった。
サンフランシスコ、夜。
太平洋に面したホテルの部屋。
レーヴェンは窓の外を見ていた。
太平洋が、暗かった。
ノックがあった。
「どうぞ」
ファルクが入ってきた。
「本日の結果について——ベルリン、モスクワ、ロンドン、ワシントンの反応をまとめました」
「要点だけ言え」
「ベルリンは——もうありません」ファルクは言った。「モスクワは、複雑な反応。ロンドンは、満足。ワシントンは——驚いています。拒否権を自ら放棄した国が、初めて現れたことに」
「ワシントンは何と言っている」
「理解できない、と」ファルクは言った。「なぜ自ら弱い立場を選ぶのか、と」
「弱くはない」レーヴェンは言った。
「わかっています」ファルクは言った。「しかし——わからない人間には、説明が難しい」
「説明しなくていい」レーヴェンは窓の外を見た。「十年後に——わかる」
「十年後、ですか」
「拒否権を持つ国が、それをどう使うか。そして——拒否権を持たない国が、どれだけ信頼を積み重ねるか。十年後に——どちらが正しかったか、見えてくる」
ファルクは手帳を閉じた。
「閣下」
「何だ」
「一つ、個人的なことを聞いてもいいですか」
「珍しいな」
「……はい」ファルクは言った。「閣下は——この五年間、常にこの結果を目指していたのですか。最初から、国連常任理事国まで、設計していたのですか」
レーヴェンは少し間を置いた。
「設計していた部分もある」
「どこまでが設計で、どこからが——」
「わからない」レーヴェンは言った。「設計通りに動く世界はない。毎日、修正している。毎日、作り直している」
「では——」
「だが」レーヴェンは続けた。「最初から変わらなかったことが、一つある」
「何ですか」
「スウェーデンを——生かすこと」
ファルクは黙った。
「国でも、軍隊でも、個人でも——生きていれば、やり直せる。死んだら終わりだ。だから——どんな状況でも、生き残ることを、最優先にした」
「それが——全ての判断の基準だったのですか」
「そうだ」
ファルクは窓の外を見た。
太平洋の暗い海が広がっていた。
「……それは」ファルクは静かに言った。「冷たい基準のように聞こえますが」
「冷たいか」
「はい」
「そうかもしれない」レーヴェンは言った。「だが——生きていなければ、温かいことも、できない」
ファルクは答えなかった。
だが——何かが、胸の中で動いた気がした。
感情を持たない女だと、思われていた。自分でも、そう思っていた。
だがこの五年間——
死んだ者たちの名前を覚えている男の隣で——
何かが、確かに動いていた。
「ファルク」
「はい」
「明日の会議の準備を、頼む」
「……御意」
ファルクはドアに向かった。
ドアを開ける前に——振り返った。
「閣下」
「何だ」
「スウェーデンは——生きています」
レーヴェンは窓の外を見たまま、答えなかった。
だが——
ファルクには、見えた気がした。
窓ガラスに映った男の顔に——ほんの一瞬だけ。
何かが——あった気がした。
ドアを閉めた。
廊下に出た。
太平洋から来た夜風が、窓の隙間から入っていた。
ストックホルム。1945年秋。
スウェーデンが帰ってきた。
サンフランシスコから、レーヴェンたちが帰ってきた。
街は静かだった。
凱旋パレードなどなかった。
レーヴェンが望まなかった。
ただ——街の人々は知っていた。
この国が、どれだけのことをやり遂げたかを。
小さな国が——大国の狭間で、生き残った。
戦い、守り、交渉し、設計した。
そして——国際社会の場で、力を持ちながら力を振りかざさなかった。
参謀総長室。帰国の翌日。
レーヴェンは地図の前にいた。
ノルドストロームが出勤すると——いつも通りの光景があった。
だが今日の地図は違った。
世界地図だった。
国連加盟国が色分けされた、世界地図。
その中心に——小さなスウェーデンがあった。
「閣下」ノルドストロームは言った。「おかえりなさい」
「ああ」
「今日の予定は——」
「その前に」レーヴェンは言った。
「はい」
「全員を、呼んでくれ」
「全員、ですか」
「全員だ」
三十分後。
作戦室に全員が集まった。
リンド。エーク。スンドベリ。シェルベリ。ベルイマン。ファルク。ノルドストローム。
レーヴェンは地図の前に立っていた。
「報告する」
全員が黙った。
「スウェーデンは——国連安全保障理事会の常任理事国になった。拒否権なしで」
部屋が静まった。
「拒否権なし、とは——どういう意味ですか」ベルイマンが言った。
「文字通りの意味だ」レーヴェンは言った。「スウェーデンは、常任理事国の中で唯一、拒否権を持たない」
「……それは」ベルイマンは少し考えた。「弱い立場では」
「逆だ」
「逆、とは」
「拒否権を持つ国は——常に、自国利益のためにそれを使うと疑われる。疑われる国は、信頼されない。信頼されない国は——長期的に、孤立する」レーヴェンは言った。「拒否権を持たない国は——決定を覆せない代わりに、常に誠実だと見られる。誠実だと見られる国は——信頼される。信頼される国は——求められる」
「求められる、とは」
「米国とソ連が対立するとき——どちらも、スウェーデンに話を持ち込む。なぜなら、スウェーデンはどちらの側でもないから」レーヴェンは言った。「それが——最強の外交カードだ」
部屋が、静かになった。
リンドが腕を組んだ。
「……俺には、難しい話だが」リンドは言った。「一つだけわかった」
「何だ」
「あなたは——戦争を終わらせた後も、戦っている」
レーヴェンは答えなかった。
「形が違うだけで——戦い続けている」リンドは言った。「俺たちも——戦い続けるということだな」
「そうだ」
「では——」リンドは立ち上がった。「俺には、どこをぶち抜けばいい」
部屋に、笑いが広がった。
レーヴェンも——今日は、口の端を動かした。
「それを、これから考える」
「任せる」リンドは言った。「あなたが考えた場所なら——必ず、抜ける」
その夜。
全員が帰った後、レーヴェンは一人だった。
机の上に、白紙があった。
今夜は——すぐにペンを取った。
書いた。
長い時間、書き続けた。
夜が更けた。
ストックホルムが眠った。
バルト海が静かになった。
書き終えた時、外が白み始めていた。
レーヴェンは立ち上がり、窓を開けた。
秋の朝の空気が入ってきた。
手に、書いたものを持っていた。
燃やさなかった。
封筒に入れた。
引き出しにしまった。
後年、スウェーデン国立文書館。
研究者が、一通の封筒を発見した。
カール・レーヴェン少将の遺品の中に、あった。
開封すると——便箋が十数枚あった。
最初の一行に、こう書かれていた。
「この戦争で死んだ者たちへ。名前を、ここに記す」
そして——名前が続いていた。
北欧電撃戦の二百十七人。
訓練中のパイロット二人。
ソ連との戦いで死んだ者たち。
全員の、名前が。
最後のページに、一行だけ書かれていた。
「あなたたちが死んだから、スウェーデンは生きている。私はそれを、忘れない」
ストックホルム。朝。
レーヴェンは地図の前にいた。
新しい地図だった。
国連加盟国の地図。
これから——戦場は、この地図の上だ。
銃ではなく、言葉で。
戦車ではなく、信頼で。
「閣下」
ノルドストロームが入ってきた。
「今日の予定は——バルト三国復興委員会、英国大使との定期協議、それから——国連事務局からの連絡が三件」
「わかった」
「閣下」ノルドストロームは言った。「一つ、聞いていいですか」
「何だ」
「……満足していますか」
レーヴェンは少し間を置いた。
窓の外、バルト海の方角に光が見えた。
朝の光が、海の上に広がっていた。
「まだ、やることがある」
「それは——満足していない、ということですか」
「いいや」レーヴェンは窓の外を見た。「やることがある、ということは——まだ、進める、ということだ」
ノルドストロームは黙った。
「スウェーデンは——生きている」レーヴェンは言った。「生きている間は——進む」
窓から入った光が、地図を照らした。
世界地図の上に——朝の光が、広がった。
小さなスウェーデンの上にも。
確かに。
――了――
後記
カール・レーヴェン少将は、その後二十年間、スウェーデンの外交・安全保障政策の中心にあり続けた。
拒否権なしの常任理事国という前例のない立場は、当初「弱さ」と批評されたが——冷戦が深まるにつれ、東西両陣営が対立を仲介させるために、スウェーデンに頼る場面が増えていった。
彼が設計した「どちらの側にも属さない、信頼される国」という戦略は——小国が大国の狭間で生き残るための、一つの答えになった。
北欧電撃戦から始まり、ソ連の逆包囲撃退、バルト三国の解放、英国との同盟、そして国連常任理事国入り——
それらは全て、一人の男の頭の中で、最初から——設計されていたのか。
それとも——毎日、修正され、作り直され、積み重ねられた結果だったのか。
答えを知る者は——一人しかいない。
そしてその男は——最後まで、地図の前に立ち続けた。
『北欧電撃戦 ―氷海の参謀総長―』 完
最終話までありがとうございました




