第四章「戦後の設計者」 ――嵐の果てに、何を建てるか――
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ロンドン、英国外務省。1944年11月。
霧の街だった。
ロンドンはいつも霧だったが、この季節の霧は特に深かった。テムズ川から湿気が上がり、街全体が灰色の綿に包まれる。
その霧の中を、一台の車が走っていた。
ナンバープレートはなかった。
外務省の裏口から入り、地下の会議室に通された人物は——
イングリッド・ファルク少佐だった。
三ヶ月前、レーヴェンが「英国との非公式チャンネルを開けるか」と言った夜から、彼女は動いていた。
対面に座っていたのは、英国秘密情報部(MI6)のスチュアート・メンジーズ長官だった。六十歳。白髪。穏やかな目をした男だった。だが——その目の奥に、何十年もの情報戦が積み重なっていた。
「ファルク少佐」メンジーズは言った。「お会いできて光栄です」
「長官」ファルクは言った。「率直に話させていただきます」
「それが——一番好きなやり方です」
ファルクは書類を一枚、テーブルに置いた。
「スウェーデンは、英国及び米国との同盟関係を求めています」
メンジーズは書類を見た。見たまま、動かなかった。
「バルト三国の件は——拝見しました」メンジーズはゆっくり言った。「見事でした。三十万のソ連軍を包囲した国が——今、我々に同盟を求めている」
「勝った側が弱者のように振る舞う必要はありません」ファルクは言った。「対等な同盟です」
「条件は」
「三つ」ファルクは言った。「一、スウェーデンの安全保障を、英米が保証する。二、戦後のヨーロッパ秩序において、スウェーデンの北欧における地位を認める。三、バルト三国の管理権を、国際的に承認する」
メンジーズは書類を裏返した。
「我々が得るものは」
「バルト海へのアクセス。対ソ連の最前線における、信頼できる同盟国。そして——」ファルクは少し間を置いた。「スウェーデンの情報網です」
メンジーズの目が、わずかに変わった。
「……情報網、とは」
「スウェーデンはこの五年間、ドイツとソ連の両方に情報チャンネルを持ってきました。その全てを——共有します」
部屋が静まった。
メンジーズは長い沈黙の後、言った。
「チャーチル首相に——報告します」
「一週間、待ちます」ファルクは立ち上がった。「それ以上は——待てません」
ロンドン、チャーチル首相執務室。三日後。
ウィンストン・チャーチルは書類を読んでいた。
シガーを口に咥えたまま、動かなかった。
メンジーズが横に立っていた。
「スウェーデンか」チャーチルは言った。
「はい、首相」
「ソ連軍三十万を——包囲した国か」
「はい」
「その国が、我々と同盟を結びたいと」チャーチルはシガーを口から離した。「ルーズベルトは知っているか」
「まだです。スウェーデン側は——英国を最初の窓口にしたいと」
「なぜ」
「おそらく——」メンジーズは言った。「米国より、英国の方が、ヨーロッパの微妙な力学を理解していると、判断したのではないかと」
「賢い」チャーチルは言った。
「参謀総長のレーヴェンという男が——」
「知っている」チャーチルは遮った。「バルバロッサが始まった時から、注目していた。ドイツとソ連の両方を手玉に取りながら、北欧を統一した。そして——ソ連の侵攻を逆包囲で撃退した」チャーチルはシガーを置いた。「英国が同盟を断る理由が——ない」
「では——」
「条件を、一つ加えろ」チャーチルは言った。「戦後のドイツ処理において——スウェーデンの協力を求める。北欧からの圧力が、ドイツの早期降伏を促すかもしれない」
メンジーズはうなずいた。
「ファルク少佐に——伝えます」
チャーチルは窓の外を見た。
ロンドンの霧が、少し晴れていた。
「奇妙な同盟だ」チャーチルは呟いた。「だが——戦争は奇妙さを愛する」
ストックホルム、参謀総長室。1944年12月。
「英国が、条件を受け入れました」
ファルクの報告を聞いて、レーヴェンは地図から目を離した。
珍しいことだった。
「チャーチルの追加条件は」
「ドイツの早期降伏への協力、です」
「それは——もともと、するつもりだった」レーヴェンは言った。
「承知しています。そう伝えました」
「ファルク」
「はい」
「ロンドンでの交渉は——よくやった」
ファルクは一瞬だけ、動きが止まった。
レーヴェンが部下を直接褒めることは——極めて稀だった。
「……御意」
ファルクは無表情のまま、だが——背筋が、わずかに伸びた気がした。
英瑞同盟条約。1944年12月25日。
クリスマスの日に、署名された。
ロンドンとストックホルム、同時に。
表向きは——「北欧の安全保障に関する相互協力協定」という地味な名称だった。
だが内容は——冷戦の枠組みを、十年早く設計したものだった。
東部戦線。1945年1月。
赤軍が、ポーランドを突破していた。
ヴィスワ川を越え、ワルシャワを解放し、西へ、西へ。
ドイツは——崩れていた。
西では英米連合軍がライン川を渡りつつあった。
東では赤軍がオーデル川に迫っていた。
ベルリンが——挟まれていた。
ベルリン、総統地下壕。1945年4月。
世界が縮んでいた。
アドルフ・ヒトラーにとって、世界はこの地下室だけになっていた。
地下十メートル。コンクリートの壁。外では砲声が響き続けていた。ソ連軍はベルリン市街に入っていた。
「スウェーデンは——」
側近のマルティン・ボルマンが言いかけた。
「スウェーデンのことは——もういい」
ヒトラーは地図を見た。
地図に意味はなかった。ドイツ軍はもう存在しなかった。命令を出しても、実行できる部隊がなかった。
「マンシュタインは」
「解任されています、総統」
「カイテルは」
「こちらに向かっています」
ヒトラーは椅子に座った。
老いていた。五十六歳だったが——七十歳に見えた。
手が震えていた。
壁に、地図が貼ってあった。北欧の地図。
スウェーデンの色が——デンマーク、フィンランド、バルト三国まで広がっていた。
「レーヴェン」
ヒトラーは呟いた。
「……あの男に、最初から気づくべきだった」
砲声が、近かった。
同日、別室。
カイテル元帥が入ってきた。直立。だが——目が死んでいた。
「総統、ベルリン防衛は——」
「もういい」ヒトラーは言った。
「……総統」
「カイテル」ヒトラーは言った。「お前は——長い間、よくやってくれた」
カイテルは何も言えなかった。
「北欧を——取れなかったな」ヒトラーは呟いた。「スウェーデンを——甘く見た。あの参謀総長を——甘く見た」
「総統——」
「いい」ヒトラーは立ち上がった。「行け、カイテル。お前には——まだ、やることがある」
カイテルは一礼して、出て行った。
ドアが閉まった。
地下壕に、砲声が響いた。
ヒトラーは窓のない部屋で、しばらく立っていた。
それから——机の引き出しを開けた。
1945年4月30日、午後三時半。
総統地下壕で、一発の銃声が響いた。
外では、ソ連軍がベルリンを燃やしていた。
ストックホルム、参謀総長室。同日。
「ヒトラー、死亡確認」
ノルドストロームの声が、静かな部屋に落ちた。
レーヴェンは地図の前にいた。
誰も、何も言わなかった。
しばらく、沈黙が続いた。
「ドイツの降伏は——一週間以内だ」レーヴェンは言った。
「はい」
「戦後処理の準備を始める」
「……はい」
ベルイマンが口を開いた。
「閣下——一つだけ、聞いてもいいですか」
「何だ」
「ヒトラーが死んで——何か、感じましたか」
部屋が静まった。
レーヴェンは少し間を置いた。
「感じることが——仕事ではない」
「では——」
「だが」レーヴェンは続けた。「あの男が始めた戦争で、何千万の人間が死んだ。その事実は——感じる感じないに関わらず、ある」
「……はい」
「それだけだ」
レーヴェンは地図に目を戻した。
ベルリン郊外、カールスホルスト。1945年5月8日。
ドイツ国防軍最高司令部のヴィルヘルム・カイテル元帥が、無条件降伏文書に署名した。
ヨーロッパの戦争が——終わった。
その知らせがストックホルムに届いた夜。
街は騒いでいた。
人々が広場に出て、叫んでいた。
戦争が終わった。
ヨーロッパが、平和になった。
参謀総長室。その夜。
レーヴェンは一人だった。
全員に、今夜は帰れと言った。
珍しいことだった。
リンドは「一緒に飲まないのか」と言った。レーヴェンは首を振った。
ノルドストロームは「閣下も、少しは休んでください」と言った。レーヴェンは答えなかった。
ファルクは——何も言わずに出て行った。だがドアを閉める前に、一瞬だけ振り返った。レーヴェンはそれに気づいていたかもしれなかった。
一人になった部屋で、レーヴェンは窓の前に立った。
ストックホルムの街が、明るかった。
人々が笑っていた。
戦争が終わったから。
窓の外の明るさの中に——レーヴェンは、死んだ者たちの顔を見ていた。
北欧電撃戦の二百十七人。
訓練中に死んだ二人のパイロット。
ソ連侵攻を退けた戦いで死んだ者たち。
名前を、全員、覚えていた。
「終わった」
声に出して、言ってみた。
奇妙な言葉だった。
本当に——終わったのか。
レーヴェンは机に戻った。
白紙が、一枚あった。
彼はペンを取った。
そして——書き始めた。
今夜は、燃やさなかった。
翌朝。
ノルドストロームが出勤すると、レーヴェンは地図の前にいた。
だが——今日の地図は、違った。
戦況図ではなかった。
ヨーロッパの経済地図だった。
貿易ルート。資源分布。人口。産業。
「閣下」ノルドストロームは言った。「戦争が終わりましたが」
「次が始まる」レーヴェンは言った。
「次、とは」
「米国とソ連の間の——見えない戦争だ」
ノルドストロームは地図を見た。
「冷戦、ですか」
「名前は何でもいい」レーヴェンは言った。「だが——熱い戦争よりも、長く続く。そしてスウェーデンは——その中心に、いる」
「バルト海が——」
「東西の境界線になる」レーヴェンは言った。「その境界線の上に——スウェーデンがいる。英国と同盟し、バルト三国を管理し、強力な海軍を持つスウェーデンが」
「……それは、有利なのですか。それとも」
「危険だ」レーヴェンは静かに言った。「常に、危険だ」
「では——」
「だから——準備する」レーヴェンは地図を指さした。「次の戦争は、銃で戦わない。経済で戦う。情報で戦う。外交で戦う。そのための準備を——今日から始める」
ノルドストロームは手帳を開いた。
「何から始めますか」
「バルト三国の復興だ」レーヴェンは言った。「ソ連支配で荒廃したバルト三国を——スウェーデンが建て直す。それが、この地域における我々の正当性になる」
「軍事的な制圧を、民心で補う、と」
「征服者は——いずれ追い出される」レーヴェンは言った。「だが必要とされる者は——残る」
マンシュタインの回想録より。(後年執筆)
私は生涯を通じて、多くの優れた軍人に出会った。
だがカール・レーヴェンという男は——軍人というより、設計者だった。
彼は戦争を戦っていなかった。戦争の形を、事前に設計していた。
戦いが始まる前に、戦いの結果が——彼の頭の中では、既に決まっていた。
私が彼から学んだことが、一つある。
戦争は速度で決まる。だが速度の先には——必ず、設計が必要だ。
速く動ける者が勝つ。だが——どこへ向かうかを知っている者だけが、最後に立っている。
レーヴェンは——常に、最後に立っていた。
ジューコフの回想録より。(後年執筆)
スターリングラードで私は言った。時間を稼げ、冬が代わりに戦う、と。
だがレーヴェンは——冬すら、使わなかった。
夏に、我々を包囲した。
私は長い間、あの敗北を分析した。
結論は——単純だった。
我々は前を見ていた。レーヴェンは、全方向を見ていた。
それだけの違いが——三十万の差になった。
ストックホルム。1945年5月。
街は春だった。
バルト海に、光が降りていた。
ヨーテボリの造船所では——ヴァルキューレが、進水を待っていた。
戦争は終わった。
だが——船は作り続ける。
リンドクヴィスト少佐の潜水艦隊は、訓練を続けていた。
シェルベリの航空部隊は、新型機の配備を進めていた。
エークの要塞線は、さらに強固になっていた。
「戦争が終わっても——軍は必要だ」リンドが言った。訓練場で、若い兵士たちに向かって。「平和は、守るものだ。待っていれば来るものじゃない」
若い兵士たちが、うなずいていた。
参謀総長室。1945年5月。ある夕方。
珍しいことが起きた。
全員が、呼ばれてもいないのに集まっていた。
リンドが酒を持ってきた。スンドベリが珍しく早く帰ってきた。シェルベリが笑っていた。エークが前の方に座っていた。ベルイマンが——窓の外を見ていた。ファルクが——部屋の隅に立っていた。ノルドストロームが——何かを準備していた。
レーヴェンが部屋に入ると、全員が揃っていた。
「何だ」
「閣下」ノルドストロームが言った。「今日は——一つ、お願いがあります」
「何だ」
「地図から、離れてください。今夜だけ」
レーヴェンは全員を見た。
リンドが酒のグラスを差し出した。
「難しい話はいい」リンドは言った。「今夜は——飲もう」
レーヴェンは少し間を置いた。
それから——グラスを受け取った。
「一時間だけだ」
「二時間にしましょう」ベルイマンが言った。
「一時間だ」
「一時間半で——」
「一時間だ」
ベルイマンは肩をすくめた。
「……では、密度の濃い一時間を」
誰かが笑った。
それが広がった。
部屋に、笑いが満ちた。
窓の外、ストックホルムの春の夜が広がっていた。
バルト海が——静かだった。
スウェーデンは——生きていた。
翌朝。
レーヴェンは地図の前にいた。
いつも通り。
ノルドストロームが出勤すると、参謀総長は地図の前に立っていた。
だが——今日は、少し違った。
窓が、開いていた。
春の風が入っていた。
地図の端が、風でわずかに揺れていた。
「閣下」ノルドストロームは言った。「昨夜は——少し、休めましたか」
レーヴェンは答えなかった。
だが——
ノルドストロームは気づいた。
この男の背中が——いつもより、わずかに——
ほんの少しだけ、柔らかかった。
「今日の予定を」レーヴェンは言った。
「バルト三国復興計画の第一回会議。英国大使との定期協議。それから——」
「わかった」
「閣下」
「何だ」
ノルドストロームは少し間を置いた。
「……スウェーデンは、生きています」
レーヴェンは地図を見たまま、答えなかった。
だが——
窓から入った風が、地図を揺らした。
バルト海の方角から来た風が。
それで——十分だった。
次回もお楽しみに




