第三章「氷海の逆襲」 ――包囲する者が、包囲される――
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モスクワ、クレムリン。1944年6月。
スターリンは地図を見ていた。
ノルマンディー上陸作戦——オーバーロード——の報告が届いていた。連合軍がフランス北部に上陸した。ドイツの西壁が、崩れ始めている。
東では、赤軍が西へ進んでいた。
ドイツは——挟まれていた。
「同志スターリン」
ジューコフが入室した。
「バグラチオン作戦、順調です。ベラルーシのドイツ軍集団が——崩壊しつつあります」
「知っている」スターリンはパイプを置いた。「ジューコフ、北を見ろ」
「北、とは」
「スウェーデンだ」
ジューコフは黙った。
スターリンは地図の上に指を置いた。スウェーデンの細長い輪郭。バルト海に面した海岸線。北はノルウェーまで続く山岳地帯。
「ドイツが片付く前に——北欧を押さえる」
「それは——時期尚早では」ジューコフは慎重に言った。「現在、西部戦線でも戦力を」
「時期尚早ではない」スターリンは静かに言った。「スウェーデンは空母を作っている。潜水艦を三十隻持つ。英国と密かに接触している」
ジューコフは止まった。
「英国との接触を——知っていたのですか」
「三ヶ月前から」スターリンは言った。「スウェーデンは戦後の世界で、西側につくつもりだ。バルト海を——我々から切り離すつもりだ」
「しかしレーヴェンは——」
「レーヴェンだから、危険なのだ」スターリンは地図を叩いた。「あの男が生きている限り、スウェーデンは厄介な存在であり続ける。今ならまだ——ドイツとの戦争を口実にできる。北欧への進出を、正当化できる」
ジューコフは長い沈黙の後、言った。
「兵力は」
「三個軍。フィンランド経由で南下する。バルト海からの水陸両用作戦と同時に」スターリンは言った。「二週間で——ストックホルムを取る」
ジューコフは地図を見た。
フィンランドからスウェーデンへの国境。山岳地帯。森林。そして——
「冬ではありません」ジューコフは言った。「夏の北欧は——スウェーデン軍に有利な地形です」
「だから速く動く」
「レーヴェンは——要塞線を作っています。五年かけて」
「三個軍で押し潰す」
ジューコフはもう一度、地図を見た。
嫌な予感がした。
この男——スターリンが、珍しく急いでいる。
急ぐ者は——計算を間違える。
だが、言えなかった。
「……御意」
ストックホルム、参謀総長室。1944年7月3日。深夜。
ファルクがドアを開けた。
ノックなしだった。
レーヴェンは地図の前にいた。いつものように。
「来ます」
一言だった。
レーヴェンは振り返らなかった。
「いつだ」
「七日以内。おそらく——五日」ファルクは言った。「フィンランド国境に三個軍が集結しています。同時に、バルト艦隊が動き始めた。水陸両用部隊を搭載して」
「規模は」
「陸上部隊——推定四十五万。水陸両用——推定三万。合計、約五十万」
部屋が静かになった。
スウェーデン軍の総兵力は——三十二万。
「予測は当たっていたな」ノルドストロームが静かに言った。
「当たってほしくなかった」レーヴェンは言った。
それが——この男の、珍しい本音だった。
「全員、呼べ」
三十分後、作戦室に全員が集まった。
リンド中将。エーク中将。スンドベリ大将。シェルベリ少将。ベルイマン少佐。ファルク少佐。ノルドストローム大佐。
レーヴェンは地図の前に立った。
「ソ連が侵攻してくる。五日以内に」
誰も驚かなかった。
全員が——いつかこの日が来ると、知っていた。
「兵力差は——約一・六倍。だが」レーヴェンは地図を指さした。「地形と気候と補給、そして——準備において、我々が上だ」
「作戦を聞かせてください」リンドが言った。声が、いつになく静かだった。
レーヴェンは地図の上に手を置いた。
「ソ連は二方向から来る。北——フィンランド経由の陸上侵攻。西——バルト海からの水陸両用上陸」
「その二方向を、同時に受ける、と」
「受けない」
全員が、レーヴェンを見た。
「受けない、とは」ノルドストロームが言った。
「戦争は速度で決まる。守る側が速度を持てば——攻める側の計算が狂う」レーヴェンは言った。「ソ連は我々が守ると思っている。要塞線で守ると。それを——逆手に取る」
ベルイマンが、静かに息を吸った。
「……まさか」
「ベルイマン、お前ならわかるな」
「わかります」ベルイマンは言った。「ソ連が来るなら——こちらから迎えに行く」
「攻勢防御だ」レーヴェンは地図を叩いた。「ソ連軍がフィンランドから国境を越えた瞬間——我々は引く。引きながら、両翼を伸ばす。ソ連軍を前進させながら、補給線を延ばさせる。そして——」
「包囲する」リンドが言った。目が変わっていた。
「逆包囲だ」レーヴェンは言った。「攻めてきた敵を、こちらが包む」
「具体的には」ノルドストロームがペンを構えた。
「北部戦線——エーク中将が要塞線を使って遅滞戦闘。ソ連軍の前進速度を殺しながら、両翼に誘い込む。リンド中将の機械化部隊は——隠密行動で東側に迂回。ソ連軍の左翼を、後ろから包む」
「隠密行動で、機械化部隊を動かす」リンドが言った。「どうやって」
「森の中を動く」レーヴェンは言った。「夏の北欧の森は——装甲車両を隠せる。ソ連軍の航空偵察を、シェルベリの部隊が妨害する」
「制空権を——」シェルベリが言った。「ソ連空軍と正面から戦うのは」
「正面では戦わない」レーヴェンは言った。「偵察機を狙え。爆撃機は後回しでいい。ソ連軍の目を潰す」
「海上からの水陸両用部隊は」スンドベリが言った。
「そちらが——本命だ」
全員が地図を見た。
「水陸両用部隊は、バルト海岸に上陸を試みる。そこに——スンドベリの潜水艦隊が待っている」
「輸送船を——」スンドベリは地図を見た。「上陸前に、沈める」
「全部は無理だ。だが——三割沈めれば、上陸戦力が致命的に減る。残りが上陸してきたところで、沿岸要塞部隊が受ける」
「それから」ファルクが言った。
「それから——包囲が完成する」レーヴェンは言った。「陸上侵攻部隊は、補給線を切られ、両翼を包まれ、後退路を失う。水陸両用部隊は、上陸前に戦力を削られ、沿岸で足止めされる」
「補給線を切るのは」
「ファルク——フィンランド国内のソ連補給拠点を、開戦前夜に叩く」
「事前破壊工作を、ですか」
「三日前から——もう始めろ」
ファルクはうなずいた。
「リンドクヴィスト少佐の潜水艦隊は」スンドベリが言った。「演習ではなく——本番になる」
「彼は——やれるか」
スンドベリは少し間を置いた。
「やります」
断言だった。
レーヴェンは全員を見渡した。
「この作戦に、名前をつける」
「何という名前を」ベルイマンが聞いた。
「オペレーション・ミョルニル」
ノルドストロームが呟いた。「トールの鎚、ですか」
「雷神の鎚は——振り下ろされるまで、見えない」レーヴェンは言った。「では——始める」
フィンランド国境。1944年7月8日、午前四時。
ソ連軍第十八軍が、国境を越えた。
三十万の兵。五百両の戦車。砲兵部隊。航空支援。
圧倒的な力が、スウェーデン領内に流れ込んだ。
スウェーデン軍は——引いた。
「敵が逃げる」ソ連軍の前線指揮官、アレクサンドル・ゴルバトフ大将は言った。「追え」
「追うのですか、将軍」参謀が言った。「偵察報告では、前方に——」
「偵察機が全滅した」ゴルバトフは言った。「スウェーデンの戦闘機が、偵察機を集中的に狙ってくる。前方の状況が——見えない」
「なら、慎重に——」
「慎重にしている間に、敵が逃げる」ゴルバトフは命令した。「全速前進。スウェーデン軍を捕まえろ」
エーク中将の司令部は、移動式だった。
要塞線の後ろで——陣地を変えながら、指揮していた。
「ソ連軍、予想より速い」副官が報告した。
「わかっている」エーク中将は地図を見た。「だがこのペースなら——三十時間で、袋の中に入る」
「閣下、本当に引き続けるのですか」副官は言った。「兵たちが——」
「わかっている」エーク中将は繰り返した。
引くのは、辛い。
防衛の専門家が——引きながら戦う。
「攻めは一時、守りは永遠だ」自分の言葉が、頭に浮かんだ。
だが今夜は——引くことが、守ることだ。
参謀総長が、そう設計した。
「信じろ」エーク中将は部下に言った。「三十時間後に——形勢が逆転する」
森の中。同日午後。
リンド中将の機械化部隊は、動いていた。
音を殺して。
北欧の夏の森は、濃かった。白夜の光が木々の間から差し込む。装甲車両は偽装網をかけ、エンジンは低回転に抑え、無線封止。
二万の兵と、三百両の装甲車両が——森の中を、東へ迂回していた。
「見つかっていませんか」副官のストレーム少佐が言った。
「見つかっていれば、もう砲撃が来ている」リンドは言った。「シェルベリが、偵察機を全部落としてくれている。ソ連の目が、ない」
「このまま——後ろに回り込む」
「そうだ」リンドは前を見た。「ソ連の奴らは今、一生懸命前を走っている。後ろは——ガラガラだ」
「難しい話はいい、どこをぶち抜けばいいか——ですね」ストレームが言った。
リンドは笑った。
「お前も覚えていたか」
バルト海。同日夜。
霧だった。
リンドクヴィスト少佐は潜望鏡を覗いていた。
ソ連のバルト艦隊——輸送船三十二隻。護衛艦十四隻。水陸両用部隊三万を搭載して、スウェーデン海岸に向かっていた。
「距離、四千」
「魚雷管、全門——用意」
「艦長」副長が言った。「相手は護衛が厚い。下手に動けば——」
「動かない」リンドクヴィスト少佐は言った。
「動かない、とは」
「待つ」少佐は静かに言った。「忍耐が——勝つ」
ビョルンは動かなかった。
霧の中で、ソ連艦隊が近づいてくる。
三千。
二千五百。
二千。
「距離、一千八百——」
「撃て」
静寂が、破れた。
最初の魚雷が命中したとき、ソ連艦隊は混乱した。
どこから来たか、わからなかった。
護衛艦が動き始めた——その瞬間、別の角度から第二波が来た。
スウェーデン潜水艦は、一隻ではなかった。
ビョルン、ウルフ、ビョルン二世——三隻が、三方向から同時に攻撃していた。
「司令官!」ソ連艦隊司令官のニコライ・ユマシェフ中将の幕僚が叫んだ。「輸送船——四隻被弾。二隻が沈没中」
「潜水艦の位置は」
「特定できません。水中聴音機が——霧の中では——」
「爆雷を投下しろ。全方向に」
「どこに向けて——」
「全方向だ!」
海面に爆雷が降り注いだ。
だが——潜水艦たちは、すでに深く潜っていた。
リンドクヴィスト少佐は深度七十メートルで、爆雷の音を聞いていた。
船体が揺れる。
だが——直撃ではない。
「浸水、なし」副長が報告した。「損害——軽微」
「再装填、完了まで何分だ」
「十五分です」
「十五分後に——また浮上する」リンドクヴィスト少佐は言った。「もう一度、やる」
夜が明けるまでに——
ソ連輸送船、九隻撃沈。七隻大破。
水陸両用部隊の上陸可能戦力は——三万から一万二千に、減っていた。
陸上戦線。1944年7月9日、午後。
ソ連軍第十八軍は、三十時間前進し続けていた。
補給トラックが追いつかなくなっていた。
燃料が、薄くなっていた。
そして——両翼に、異変が生じていた。
「左翼と、連絡が取れません」参謀がゴルバトフに報告した。「第三十二師団が——」
「なぜだ」
「不明です。無線が——」
その瞬間、西から砲声が聞こえた。
ゴルバトフは振り返った。
西、だ。
前を向いていた軍が——後ろから音がする。
「なぜ西から——」
「将軍!」別の参謀が駆け込んだ。「後方補給基地が——スウェーデン軍の装甲部隊に攻撃されています!」
ゴルバトフは地図を見た。
地図の上に、状況を描いた。
前進した三十時間。両翼が、いつの間にか——
「包囲されている」
声が、かすれていた。
「いつから——」
「わかりません。スウェーデン軍の動きが——全く見えていなかった」
ゴルバトフは地図を見た。
三十万の兵が——袋の中に入っていた。
「後退しろ。全軍、後退——」
「後退路が——」参謀の声が震えた。「リンド将軍の部隊が、後退路を封鎖しています」
沈黙。
「……包囲が、完成している」
ゴルバトフは地図を見た。
見事だった。
敵ながら——見事だった。
引きながら誘い込み、両翼を包み、後退路を断つ。補給線はファルクの工作で既に三日前から機能していなかった。
「スウェーデンの参謀総長は——」ゴルバトフは呟いた。
「将軍?」
「何もない」ゴルバトフは言った。「……降伏交渉の使者を、出せ」
スウェーデン軍前線司令部。同日夜。
リンドが駆け込んできたとき、レーヴェンはすでに地図の前にいた。
「包囲完成!」リンドは言った。「ソ連第十八軍、三十万——完全に袋の中です!後退路封鎖、補給線遮断、確認済み!」
作戦室に、静寂があった。
それから——ノルドストロームが、静かに言った。
「……やった」
誰かが息を吐いた。
誰かの肩が、落ちた。
リンドは珍しく、声を荒げなかった。
「閣下」リンドは言った。「あなたの言った通りになった」
レーヴェンは地図を見ていた。
「水陸両用部隊は」
「沿岸で足止め中です。上陸した一万二千は——沿岸要塞部隊が封鎖しています。スンドベリ大将の潜水艦隊が、海上補給を遮断して」
「降伏交渉の使者が来るはずだ」レーヴェンは言った。「丁重に扱え」
「……丁重に、ですか」
「捕虜は人間だ」レーヴェンは言った。「それだけだ」
モスクワ、クレムリン。1944年7月10日。
電話が鳴った。
スターリンは受話器を取った。
「……何だと」
声が、低かった。
「第十八軍が——包囲された。降伏交渉を——」
スターリンは受話器を置いた。
部屋に、誰もいなかった。
三十万の兵。
包囲されていた。
スウェーデンに——たった三十二万の国に。
スターリンは地図を見た。
レーヴェンの顔を、彼は知らなかった。
だが——
「……化け物だ」
声に出たのは、それだけだった。
バルト三国。1944年7月〜9月。
停戦交渉は、まだだった。
レーヴェンは——止まらなかった。
包囲したソ連第十八軍を無力化した直後、スウェーデン軍は東へ向かった。
エストニア。ラトビア。リトアニア。
ソ連支配下のバルト三国。
「なぜ今——」ノルドストロームは地図を見ながら言った。
「ソ連が混乱している間だ」レーヴェンは言った。「三十万を失ったソ連に、北欧への再侵攻能力はない。少なくとも——六ヶ月は」
「六ヶ月以内に、バルト三国を」
「押さえる。そして停戦条件に入れる」
「ソ連は——」
「飲む」レーヴェンは言った。「飲まなければ——包囲した三十万の捕虜を、どう扱うか、わからない」
「人道的に扱う、と言っていましたが」
「ソ連には——そう言わない」
ベルイマンが、静かに笑った。
「やっぱり、あなたは——」
「続きは後で聞く」レーヴェンは言った。「リンド、動けるか」
「いつでも」
「エストニアから始める。首都タリンを——三日で取る」
エストニア、タリン。1944年7月。
スウェーデン軍が現れたとき——ソ連の守備隊は混乱していた。
本国からの命令が、錯綜していた。
増援は——来なかった。
ファルクが、モスクワへの通信線に「雑音」を入れていた。
命令が届いた時には——タリンは、スウェーデン旗が翻っていた。
ラトビア、リガ。二週間後。
ソ連守備隊司令官は、降伏条件を読んだ。
「軍の名誉を保証する。市民への危害は加えない」
デンマーク、フィンランドと——同じ条件だった。
司令官は署名した。
リトアニア、ヴィリニュス。さらに二週間後。
最後の守備隊が、武器を置いた。
バルト三国が——スウェーデンの管理下に入った。
ストックホルム、参謀総長室。1944年9月。
「バルト三国、制圧完了」
ノルドストロームの報告。
レーヴェンは地図を見た。
スウェーデンの色が——バルト三国まで広がっていた。
バルト海が——スウェーデンの海になっていた。
「停戦交渉の準備をする」レーヴェンは言った。「ソ連の代表が来る前に——条件をまとめろ」
「条件は」
「一、バルト三国のスウェーデン管理を認める。二、スウェーデンへの不可侵を保証する。三、捕虜の相互返還」レーヴェンは言った。「それだけだ」
「バルト三国の——永久割譲は要求しないのですか」
「要求しない」
「なぜですか。今なら——取れます」
「取れる」レーヴェンは言った。「だがソ連を——追い詰めすぎてはいけない」
「なぜですか」
「追い詰められた国は——狂う」レーヴェンは静かに言った。「狂った国は、何をするかわからない。ソ連にはまだ、何百万の兵がいる。スターリンは——正気を失えば、核兵器を——」
「核兵器?」ノルドストロームが言った。「それは——まだ存在しない兵器では」
「存在しない、とは言い切れない」レーヴェンは言った。「ドイツも、米国も、研究している。ソ連も——している」
部屋が静まった。
「だから——適度に勝つ。完全には勝たない」レーヴェンは言った。「相手に、逃げ道を残す」
「フィンランド降伏の時と——同じですか」
「同じだ」レーヴェンは言った。「人間も、国家も——逃げ道があれば、冷静に判断する」
モスクワ、クレムリン。1944年9月。
ジューコフは停戦条件を持って、スターリンの前に立っていた。
スターリンはパイプを燻らせていた。
「バルト三国の管理権を——認めろ、と」
「はい、書記長」
「三十万の捕虜が、向こうにいる」
「はい」
「……そのレーヴェンという男は」スターリンは言った。「なぜ、これ以上要求しない」
「おそらく——」ジューコフは慎重に言った。「これ以上押せば、我々が何をするかわからない、と——わかっているのだと思います」
スターリンは長い沈黙の後——笑った。
低い、静かな笑いだった。
「賢い男だ」
「……書記長」
「条件を——飲む」スターリンは言った。「だが覚えておけ。ジューコフ」
「はい」
「この話は——終わっていない」
ストックホルム。1944年10月1日。
停戦協定が、署名された。
バルト三国はスウェーデンの管理下に入った。
ソ連の捕虜は——全員、人道的に扱われていた。負傷者には治療が施され、食事が与えられていた。
返還の日、ゴルバトフ大将はスウェーデン軍の将校に言った。
「参謀総長に、伝えてくれ」
「何と伝えますか」
ゴルバトフは少し間を置いた。
「……見事だった、と」
参謀総長室。停戦の夜。
部屋に、全員が集まっていた。
珍しいことだった。
スンドベリが、珍しく酒を持ってきていた。
リンドが、珍しく静かだった。
シェルベリが、珍しく笑っていた。
エークが、珍しく前に出ていた。
ベルイマンが、珍しく黙っていた。
ファルクが——珍しく、全員の顔を見ていた。
ノルドストロームがグラスを持ち上げた。
「……閣下」
レーヴェンは窓の外を見ていた。
「スウェーデンは——生きています」
部屋が静かになった。
生きている。
二百十七人の、北欧電撃戦の死者。
訓練中に死んだ二人のパイロット。
そして——今回の戦いで死んだ者たちの名前が、レーヴェンの頭の中にあった。
全員の名前を、覚えていた。
「飲むぞ」リンドが言った。静かに。
全員がグラスを持った。
レーヴェンも——珍しく、グラスを受け取った。
窓の外、バルト海が静かだった。
ストックホルムの秋の夜が、深かった。
「スウェーデン」
誰かが言った。
全員が——繰り返した。
「スウェーデン」
グラスが、合わさった。
夜が更けて。
全員が去った後、レーヴェンは一人、窓の前に立っていた。
机の上に、白紙があった。
今夜、彼はペンを取った。
そして——書いた。
何を書いたのか、誰も知らなかった。
朝になって、白紙は灰になっていた。
焼却炉の中で。
ただ——
ノルドストロームが翌朝出勤したとき、レーヴェンは既に地図の前にいた。
新しい地図を見ていた。
ヨーロッパ全域の地図。
ドイツが、崩れ始めていた。
戦争は——終わっていなかった。
「次を、考えている」ノルドストロームは理解した。
「閣下」ノルドストロームは言った。「少し——休んでください」
レーヴェンは答えなかった。
地図を見ていた。
北欧の、静かな朝だった。
次回もお楽しみに




