第二章・第三節「ドイツの影、ソ連の爪」
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ストックホルム、海軍省。1943年1月。
カール・スンドベリ大将は、設計図を広げていた。
大きな設計図だった。机の上に収まりきらず、端が床に垂れている。
「これが——」
「ヴァルキューレです」
海軍造船局長のエリック・ハマルストローム少将が、誇らしげに言った。六十二歳。白髪の技術屋。三十年間、船を作ることだけを考えてきた男だった。
「全長二百三十メートル。基準排水量、二万八千トン。搭載機数——四十八機」
スンドベリは設計図を見た。
航空母艦。
スウェーデン初の、本格的航空母艦。
「バルト海に——空母を出す気か」
「バルト海だけではありません」ハマルストローム少将は言った。「北大西洋への展開も想定しています。将来的には——北極海ルートの制圧も」
スンドベリは腕を組んだ。
「建造期間は」
「順調に進めば——二年半」
「予算は」
ハマルストローム少将は少し間を置いた。
「……相当、かかります」
「はっきり言え」
「現在の海軍予算の——三年分です」
スンドベリは設計図から目を上げた。
「それを、参謀総長に説明しろ」
「閣下が——一緒に来ていただけますか」
「俺が説明するより、お前が直接言った方がいい」スンドベリは言った。「参謀総長は——数字を誤魔化す人間を、嫌う」
参謀総長室。同日午後。
ハマルストローム少将は設計図を広げ、三十分かけて説明した。
レーヴェンは一言も口を挟まなかった。
設計図を見続けていた。
説明が終わった。
沈黙が続いた。
ハマルストローム少将は少し緊張していた。この男の沈黙が、何を意味するのか——わからなかった。
「少将」レーヴェンは言った。
「はい」
「搭載機数を、六十機にできるか」
ハマルストローム少将は目を見開いた。
「……それは——格納庫の再設計が必要になります。飛行甲板の延長も。排水量が三万二千トンを超える」
「やれるか、と聞いている」
「……やれます」ハマルストローム少将は言った。「ただし——建造期間が、三年になります」
「三年で作れ」レーヴェンは設計図から目を上げた。「それから——もう一隻、同型艦を平行して建造する」
「二隻、ですか」
「空母は、一隻では意味がない」レーヴェンは言った。「一隻が港にいる間、もう一隻が海にいる。それが最低限だ」
スンドベリが口を開いた。
「予算は——どこから」
「ローゼン外務大臣に話す」
「外務大臣が——」
「ドイツとの通過権交渉で、スウェーデンは相応の対価を受け取っている」レーヴェンは言った。「その一部を、海軍増強に充てる。外交収益を軍事投資に変換する。ローゼンには——これがスウェーデンの安全保障に直結すると説明する」
「ローゼンが、素直に——」
「素直ではなくても、動く」レーヴェンは静かに言った。「ファルクが——そのように、話をつけている」
スンドベリは一瞬、ファルクを見た。
ファルクは無表情だった。
ヨーテボリ造船所。1943年3月。
鉄骨が、空に向かって伸びていた。
ヴァルキューレの竜骨が据えられた日、スンドベリは造船所に立って、それを見上げた。
隣にハマルストローム少将がいた。
「大きくなりますよ」老いた造船技師は言った。「この国で作った中で、一番大きな船になる」
「間に合うか」
「職人たちは——やる気です」ハマルストローム少将は言った。「スウェーデンが空母を作る。それだけで、職人たちの目が変わりました」
スンドベリは鉄骨を見た。
まだ、船の形もしていない。ただの鉄の骨格が、空に向かって伸びているだけだ。
だがその骨格の中に——未来の戦争が、埋め込まれていた。
「潜水艦の方は」
「第一陣、六隻が——今月中に進水します」ハマルストローム少将は別の図面を取り出した。「ウルフパック計画です。参謀総長の指示で、バルト海特化型と大西洋型の二種類を平行開発しています」
スンドベリは図面を受け取った。
バルト海特化型——全長五十五メートル。浅い海域での行動を想定した小型潜水艦。静粛性を最優先とした設計。バッテリー容量が通常の一・五倍。
大西洋型——全長八十メートル。長距離航行能力。魚雷十六本搭載。
「参謀総長は——潜水艦に、何を期待している」
「補給線の破壊です」ハマルストローム少将は言った。「ドイツとソ連、どちらが北欧に圧力をかけてきても——海上補給線を切れれば、陸上作戦を支援できる。あるいは——交渉カードになる」
スンドベリは図面を丸めた。
「陸が要塞を作り、空が制空権を持ち、海が補給線を握る」
「参謀総長の言葉では——」
「知っている」スンドベリは言った。「海を制する者が、戦争を制する。ナポレオンも、それを理解していれば——」
老いた造船技師が、静かに笑った。
「大将、あなたも——あの方に似てきましたね」
スンドベリは答えなかった。
ただ、空に伸びる鉄骨を見た。
潜水艦訓練基地、カールスクルーナ。1943年5月。
霧の中、黒い船体が海面に浮かんだ。
ビョルン——スウェーデン海軍、第一潜水艦隊旗艦。
艦長のオーロフ・リンドクヴィスト少佐は、潜望鏡を覗いていた。三十四歳。細身の男。声が小さい。だが部下は、この男の声を聞き逃したことがなかった。
「目標、確認」
「確認しました、艦長」
「距離は」
「八百、現在接近中」
リンドクヴィスト少佐は潜望鏡から目を離した。
「訓練とはいえ——緊張するな」隣の副長が言った。
「緊張している場合じゃない」リンドクヴィスト少佐は言った。「考えろ。目標の次の動きを。その次の動きを。潜水艦乗りは——三手先を読む」
「三手先、ですか」
「参謀総長が言っていた」リンドクヴィスト少佐は潜望鏡に戻った。「水上艦は地形で戦う。潜水艦は——時間で戦う」
「時間、とは」
「忍耐だ」少佐は静かに言った。「待てる者が、勝つ」
霧の中で、ビョルンは動かなかった。
ただ、待った。
そこに——レーヴェンが来た。
訓練基地への視察は、事前通告なしだった。
スンドベリが慌てて出迎えたとき、レーヴェンはすでに桟橋を歩いていた。
「閣下、なぜ——」
「見たかった」レーヴェンは言った。
「何を、ですか」
「潜水艦乗りの目を」
スンドベリは黙った。
レーヴェンは桟橋の端に立ち、霧の中を見た。
どこかに——ビョルンがいる。見えない。聞こえない。だがいる。
「海軍の戦い方は、陸と違う」レーヴェンは言った。
「はい」
「陸は——見える場所で戦う。地形が見える。敵が見える。だが海は——見えない場所で戦う。水の下に、何があるか、わからない」
「それが——海の恐ろしさです」
「それが——海の強さだ」レーヴェンは言った。「見えない力は、相手の想像力を使う。想像する者は、怖れる。怖れる者は——動きが鈍る」
スンドベリは霧の中を見た。
どこかで、ビョルンが待っている。
「参謀総長」スンドベリは言った。「一つ、聞いていいですか」
「何だ」
「空母も潜水艦も——本当に使う日が来ると思っていますか」
レーヴェンは少し間を置いた。
「使わなければ——それが一番いい」
「では、なぜ」
「使わなくても持っている者と、持っていない者では——交渉の重みが違う」レーヴェンは霧の中を見続けた。「銃を持って交渉する者と、手ぶらで交渉する者。どちらが、有利か」
「……なるほど」
「だが」レーヴェンは続けた。「本当に使う日が来るかもしれない。その日に備えて——練度を上げろ。装備を整えろ。準備が完璧であれば——使わずに済む可能性が高くなる」
「抑止力、ですか」
「スウェーデンには、大国の軍隊はいらない」レーヴェンは言った。「だが——攻めることが割に合わないと思わせる軍隊は必要だ。陸の要塞。空の制空権。そして——海の牙」
霧の中で、水音がした。
ビョルンが、浮上してきた。
黒い船体が、静かに海面に現れた。
レーヴェンはそれを見た。
「いい船だ」
それだけだった。
ヨーテボリ造船所。1943年秋。
ヴァルキューレの船体が、形を成し始めていた。
鉄の骨格に、外板が張られ、甲板が据えられ、艦橋が立ち上がっていく。
毎日、少しずつ。
ハマルストローム少将は毎朝、造船所に来て、進捗を確認した。
「予定通りか」
「はい、局長」主任技師が答えた。「むしろ——少し早いくらいです」
「なぜ早い」
「職人たちが——」主任技師は少し照れたように言った。「残業を、自分たちで申し出ているんです。誰も命じていないのに。夜遅くまで作業して、翌朝また来る」
ハマルストローム少将は船体を見た。
「……何かあったか」
「先月、参謀総長が視察に来られましたよね。その後から——なんです」
「参謀総長が何か言ったか」
「いえ」主任技師は言った。「ほとんど何も言わなかった。ただ——船体を見て、職人たちを一人一人見て、最後に言ったんです」
「何と」
「『この船が、スウェーデンを守る』と」
ハマルストローム少将は黙った。
「それだけですか」
「それだけです。でも——職人たちの目が、変わりました」
老いた造船技師は空を見た。
曇り空だった。だが造船所の上だけは、なぜか明るく見えた。
ベルリン、国防軍最高司令部。1943年冬。
マンシュタイン元帥——東部戦線の敗退を何度も食い止め、奇跡的な後退戦を続けていた男——は、北欧情報の報告書を読んでいた。
「スウェーデンが——空母を建造している」
副官のテオドール・ブッセ将軍が確認した。
「二隻、平行建造中との情報です。完成は——一九四五年から一九四六年の見込みと」
「潜水艦は」
「現時点で十二隻が就役。さらに十八隻が建造中」
マンシュタインは報告書を置いた。
「スウェーデンは——今、何を考えている」
「中立維持では」
「空母を作る中立国がどこにある」マンシュタインは言った。「潜水艦を三十隻持つ中立国がどこにある」
ブッセは答えなかった。
「レーヴェンは——戦争の終わりを、見ている」マンシュタインは静かに言った。「我々が負けた後の世界を、今から準備している」
「それは——」
「侮辱ではない」マンシュタインは首を振った。「むしろ——正しい判断だ」
外は雪だった。
東部戦線でも、雪が降っていた。
おそらくそこでも——何千人かが、今夜死んでいた。
モスクワ、赤軍参謀本部。同時期。
ジューコフは北欧の情報報告を読んだ。
「空母、二隻」
「はい、大将」情報将校が言った。「ヨーテボリ造船所で建造中です」
「潜水艦は」
「三十隻体制を目指しているようです。バルト海特化型と——大西洋型の二種類」
ジューコフは地図を見た。
バルト海。スウェーデンの細長い海岸線。そしてその先——北極海へと続くルート。
「スウェーデンは——バルト海を、自分たちの海にしようとしている」
「ドイツ海軍が現在制海権を——」
「ドイツは負ける」ジューコフは静かに言った。「ドイツが負けた後、バルト海に空母と潜水艦を三十隻持つ国が現れる。その国の名前は——スウェーデンだ」
情報将校は黙っていた。
「スターリン同志に報告しろ」ジューコフは言った。「スウェーデンは——戦後の脅威になる、と」
「どのように対処を」
ジューコフは長い間、地図を見た。
「今は——何もするな」
「なぜですか」
「今はドイツと戦っている。二正面は——愚策だ」ジューコフは言った。「だがドイツが片付いた後は——」
彼は言葉を切った。
北欧の地図の上に、長い沈黙が落ちた。
ストックホルム、参謀総長室。1944年1月。
「完成予定まで、あと二年」
スンドベリの報告を聞きながら、レーヴェンは地図を見ていた。
「潜水艦の訓練状況は」
「リンドクヴィスト少佐の第一隊が——先月の演習で、想定敵艦隊の補給線を完全に遮断することに成功しました。損害ゼロで」
「敵役は誰だった」
「第三水上艦隊です。スンドベリ大将直率の」
「……私が負けたわけですが」スンドベリは苦い顔をした。「潜水艦というのは——本当に、見えない。どこにいるのか、全くわからなかった」
「それが——正解だ」レーヴェンは言った。
「悔しいですが、はい」
「シェルベリ少将、航空部隊と空母艦載機の連携訓練は」
シェルベリが前に出た。
「艦載機パイロットの養成が——一番の課題です。陸上の飛行と海上の飛行は、全く違う。特に着艦は——訓練中に何人か怪我をしています」
「死者は」
「今のところ——二名」シェルベリは静かに言った。「訓練中の事故です」
部屋が、少し沈んだ。
レーヴェンは一瞬だけ目を閉じた。
「名前を教えろ」
「エリック・ハンソン少尉と——カール・ペーターセン少尉です」
「覚えた」レーヴェンは言った。「続けろ」
「……はい」シェルベリは続けた。「艦載機は現在、スウェーデン独自設計のJ-22改良型を使っています。ただ——将来的には、より高性能な艦載機が必要になります。国内開発か、外国からの技術供与か——判断が必要です」
「外国からの技術供与は——どこを想定している」
「現時点では——ドイツしかありません。だが」
「ドイツは——もう長くない」レーヴェンは言った。「英国との交渉を、密かに始めろ」
部屋が、動いた。
ノルドストロームが口を開いた。
「英国と——それは、ドイツを刺激しませんか」
「秘密で動かせ」レーヴェンは言った。「ファルク、英国との非公式チャンネルを開けるか」
「三週間あれば」ファルクは即答した。
「二週間で開けろ」
「……御意」
「それから——」レーヴェンは全員を見渡した。「今夜ここで話したことは、この部屋の外に出るな」
全員がうなずいた。
夜。
ノルドストロームが最後に残った。
他の全員が退出した後、二人だけになった。
「閣下」ノルドストロームは言った。
「何だ」
「英国との接触は——ドイツが嗅ぎつければ、全てが崩れます。リスクが——」
「わかっている」
「なぜ、今なのですか」
レーヴェンは窓の外を見た。
「一九四四年中に、連合軍がフランスに上陸する」
ノルドストロームは止まった。
「……それは、確実ですか」
「確実ではない。だが——そうしなければ、連合軍はドイツに勝てない。論理的に、それ以外の選択肢がない」
「もしそうなれば——」
「戦争は、一九四五年か四六年に終わる」レーヴェンは言った。「その後の世界で、スウェーデンが誰と組むか——今から決めておく必要がある」
「英国と——ですか」
「英国か、米国か。あるいはその両方か」レーヴェンは振り返った。「ソ連は巨大になる。ドイツは崩壊する。戦後のヨーロッパで——スウェーデンが生き残るには、西側との関係が必要だ」
ノルドストロームは長い沈黙の後、言った。
「閣下は——もう、戦後を戦っている」
「今ここで戦後を考えない者が、戦後を生き残れるはずがない」レーヴェンは静かに言った。
ノルドストロームは一礼した。
ドアに向かった。
「ノルドストローム」
「はい」
「空母の名前——ヴァルキューレというのは」
「ハマルストローム少将が命名しました」
「二隻目の名前は」
「まだ決まっていません」
レーヴェンは少し間を置いた。
「フレイヤにしろ」
「……北欧神話の女神ですか」
「愛と戦争の女神だ」レーヴェンは窓の外を見た。「この船は——戦うためではなく、戦わずに済むために作る。それに——相応しい名前だ」
ノルドストロームはドアを閉めた。
部屋に、一人が残った。
窓の外、ストックホルムの夜が広がっていた。
バルト海の向こうで、ドイツとソ連が消耗し続けていた。
そしてヨーテボリの造船所では——夜も、鉄を打つ音が続いていた。
ヴァルキューレが、少しずつ、形を成していた。
次回もお楽しみに




