第二章・第二節「消耗する神々」
引き継ぎお楽しみください
東部戦線、スモレンスク近郊。1941年9月。
泥だった。
ロシアの秋雨が三日間降り続け、大地が泥濘に変わっていた。ドイツ軍の装甲車両が轍にはまり、補給トラックが立ち往生し、電撃戦の速度が——泥の中に沈んでいた。
グデーリアン上級大将は泥だらけの装甲車から降り、地図を広げた。
雨で滲んでいた。
「モスクワまで、あと三百キロです」副官が言った。
「三百キロが遠い」
グデーリアンは呟いた。六月の進撃速度なら、三百キロは十日だ。だが今は——補給が追いつかない。燃料が足りない。兵が疲弊している。
そして——空が、灰色になり始めていた。
ロシアの秋は、短い。
「総統からの命令は」
「南方へ転進、キエフ包囲を優先せよ、と」
グデーリアンは地図を見た。南。モスクワではなく、南。
「……モスクワへの直進を、捨てるのか」
「命令です」
グデーリアンは何も言わなかった。
ただ——北の方角を、一瞬だけ見た。
スウェーデンの方角を。
あの男なら、今この状況をどう読むか。
補給線が伸び切るとき——確かに、そう言っていた。
モスクワ、国防人民委員部。同月。
ゲオルギー・ジューコフ大将は三日間眠っていなかった。
地図の前に立ち続け、報告を受け続け、命令を出し続けた。
ドイツ軍の進撃は速かった。だが——
「止まりつつある」ジューコフは参謀に言った。
「楽観的すぎます、閣下」
「楽観ではない。計算だ」ジューコフは地図を指さした。「補給線を見ろ。モスクワまで伸びた補給線は、もう限界に近い。そこに——冬が来る」
「冬将軍、ですか」
「将軍などではない」ジューコフは静かに言った。「ただの冬だ。だがドイツ軍は——冬の装備を持っていない」
部屋に、重い沈黙があった。
「なぜわかるのですか」
「捕虜だ。捕虜の装備を見れば——わかる。夏服だ。冬までに終わらせるつもりだった」
ジューコフは窓の外を見た。
モスクワの空が、灰色になっていた。
「時間を稼げ。それだけでいい。冬が——我々の代わりに戦う」
ストックホルム、参謀総長室。1941年10月。
「ドイツ軍、モスクワ前面で停滞」
ノルドストロームの報告を聞きながら、レーヴェンは壁の地図に新しい印をつけた。
東部戦線の戦況図。毎日更新されている。ファルクの情報網から、ベルイマンの分析を経て、レーヴェンの手で地図に落とされていく。
「予測通りだ」
「閣下の読みでは——冬の攻勢は」
「止まる」レーヴェンは言った。「今年中のモスクワ陥落はない」
「ドイツが負けると」
「ドイツが消耗すると言っている」レーヴェンは椅子に座った。「負けるかどうかは——まだわからない。だが長期戦になる。そしてソ連も消耗する。二頭の獣が噛み合っている間——」
「北欧は、準備する」
「ベルイマン、要塞線の進捗は」
ベルイマン少佐は書類を取り出した。「北部防衛線、七十三パーセント完成。対戦車壕、予定の二倍のペースで掘れています。リンド中将の部隊が——なぜか土木作業に異様な熱意を見せていて」
「文句があるか」リンドが唸った。「穴を掘るのも、戦争だ」
「中将が言うと、説得力がありますね」
「うるさい」
レーヴェンはわずかに口の端を動かした。
「スンドベリ大将、バルト海の状況は」
カール・スンドベリ大将が進み出た。海軍総司令官。いつも背筋が伸びている。
「ドイツ海軍の動きは活発です。バルト海での制海権は、現在ドイツが握っている。我々の艦隊は——今のところ、直接の衝突を避けています」
「避け続けられるか」
「一年は。それ以上は——難しい」スンドベリは言った。「陸がどれだけ要塞を作っても、海を失えば終わる。バルト海の制海権は、いずれ取り戻す必要があります」
「いずれ、とは」
「ドイツが東部戦線に集中している間に——静かに、着実に」スンドベリは言った。「派手な動きは要りません。機雷敷設、潜水艦展開、補給ルートの掌握。海の戦争は、見えないところで決まります」
「承認する」レーヴェンはうなずいた。「シェルベリ少将、航空戦力は」
ラース・シェルベリ少将が前に出た。空軍司令官。自信家だが、根拠のある自信だった。
「新型戦闘機の配備が完了しました。スウェーデン製と、一部ドイツから技術供与を受けたもの。制空権維持に必要な戦力は——現時点では確保できています」
「ドイツが圧力をかけてきたら」
「やってみればいい」シェルベリは言った。「我々の空は、我々が守ります」
「頼もしいな」ベルイマンが呟いた。「問題は、空軍司令官が頼もしいのに、予算が——」
「それは外務大臣に言え」
「ローゼン外務大臣は——最近、あまり元気がないようですが」
ファルクが無表情で言った。
部屋に、微妙な沈黙が流れた。
誰も、その話題を続けなかった。
ベルリン、国防軍最高司令部。1941年11月。
マンシュタインは東部戦線の地図を見ながら、報告書を書いていた。
タイトルは——「北方における潜在的脅威について」。
送り先は、カイテル元帥。
内容は、簡潔だった。
スウェーデンは我々の同盟国として機能しているが、参謀総長レーヴェンの行動を精査すると、以下の疑念が生じる。
一、要塞線の建設が、対ソ連方向だけでなく、対ドイツ方向にも展開されている。
二、極寒戦特化部隊の規模が、防衛に必要な水準を大幅に超えている。
三、スウェーデン海軍の潜水艦活動が、バルト海において不透明な動きを見せている。
マンシュタインはペンを置いた。
窓の外、ベルリンの空から雪が降っていた。
結論:レーヴェンは、独ソ戦の結果にかかわらず、スウェーデンが生き残れる準備を——今この瞬間も、進めている。
マンシュタインは報告書を封筒に入れた。
そして——少しだけ、笑った。
「大したものだ」
声に出たのは、それだけだった。
モスクワ郊外、赤軍前線。1941年12月。
雪だった。
零下三十度。
ドイツ兵は震えていた。夏服のまま、ロシアの冬に立ち向かっていた。銃が凍った。エンジンが動かなかった。凍傷で指を失う者が続出した。
モスクワの手前——あと十五キロで、ドイツ軍は止まった。
ジューコフは反撃命令を出した。
「モスクワ前面、ドイツ軍が後退を開始」
ノルドストロームの声に、作戦室が静まった。
レーヴェンは地図を見た。
「これで——確定した」
「何が、ですか」
「長期戦だ」レーヴェンは言った。「ドイツは勝てない。だが負けるまでに、何年かかるかわからない。その間——スウェーデンは」
「綱渡りを続ける」エーク中将が言った。
「綱渡りではない」レーヴェンは首を振った。「綱の両端を——我々が握る」
誰も、その意味をすぐには理解しなかった。
ベルイマンだけが——少しだけ目を細めた。
1942年。春。
季節が変わった。
東部戦線では、ドイツ軍が再び攻勢に転じた。今度は南方へ。コーカサスの石油を目指して。
モスクワは——生き残った。
ストックホルム、情報局地下。1942年4月。
ファルクの前に、二人の人間が座っていた。
一人はスウェーデン人の実業家。もう一人は——ドイツ人だった。
正確には、ドイツ国防軍の情報将校。アプヴェーア所属。カナリス提督の部下。
名前はヴェルナー・クラウゼ少佐。
「ファルク少佐」クラウゼは言った。「我々は——情報交換を提案したい」
「どのような」
「東部戦線のソ連軍動向と、スウェーデンが持つバルト沿岸の情報を——交換したい」
ファルクは無表情だった。
「我々が持っているものを、なぜドイツが欲しがるのですか。ドイツはソ連と戦っている。ソ連の情報なら、直接取れるはずでしょう」
「直接取れれば——こんな場所には来ない」クラウゼは苦い顔をした。「ファルク少佐、率直に言う。我々の東方情報網は——壊滅状態だ。スパイは摘発され、情報源は枯れた。そして——」
クラウゼは少し声を落とした。
「あなたのネットワークは、生きている。どうやってかは——わからないが」
ファルクは三秒間、無言だった。
「条件があります」
「聞こう」
「情報は、我々が選んだものを渡す。全部ではない」
「それは——」
「それが条件です」ファルクは言った。「それから——このチャンネルの存在を、総統府には報告しない。カナリス提督限りとする」
クラウゼは目を細めた。
「……なぜ、総統に知られたくないのですか」
「ヒトラーは——情報を扱うのが、下手です」
クラウゼは長い沈黙の後——小さく笑った。
「同意します」
その夜、ファルクはレーヴェンに報告した。
「アプヴェーアとのチャンネルを開きました」
「カナリスか」
「はい。総統府には秘密のルートです」
レーヴェンは少し考えた。
「カナリスは——ヒトラーに忠実ではない」
「そのようです」ファルクは言った。「アプヴェーアの中に、反ヒトラーの動きがある、という情報があります。確認は——まだ取れていませんが」
「泳がせろ」
「はい」
「そしてカナリスには——ソ連軍の動向を流せ。ただし」
「ただし?」
「我々に不利な動きをドイツが取りそうなとき、ソ連を有利に見せる情報を混ぜる」
ファルクは手帳に書き留めた。
「逆も然り、ですか」
「そうだ」レーヴェンは言った。「ドイツとソ連は、我々の情報で戦う。我々が流す情報の精度は——九割は本物にしろ。嘘は一割だけでいい」
「九割の本物の中に、一割の嘘を」
「一割の嘘のために、九割の本物を使う」レーヴェンは言った。「信頼を作るのに、本物が必要だ。信頼を使うのに、嘘が要る」
ファルクはペンを止めた。
「閣下は——いつから、これを考えていたのですか」
レーヴェンは答えなかった。
窓の外、春のストックホルムが静かだった。
東部戦線、スターリングラード。1942年秋。
炎の街だった。
ドイツ第六軍がスターリングラードに突入し、市街戦が始まっていた。
建物一棟を巡り、一週間戦う。
階段一段を巡り、一日戦う。
フリードリッヒ・パウルス将軍は廃墟の中の司令部で地図を見ていた。
地図は、もはや意味をなさなかった。
毎日、前線が変わる。毎時、建物の所有者が変わる。地図に描かれた線は——現実とは別の何かだった。
「補給が——」参謀が言った。
「知っている」
「ヴォルガを越える補給ルートが、ソ連軍の砲撃で——」
「知っている」
「閣下——」
パウルスは地図から顔を上げた。
「グデーリアンが言っていた」パウルスは静かに言った。「電撃戦は速度で決まる、と。速度を失えば——」
参謀は黙っていた。
「……スウェーデンの参謀総長も、そう言っていたそうだ」
「閣下はご存じなのですか」
「マンシュタインから聞いた」パウルスは地図に目を戻した。「補給線が伸び切るとき——そう言ったらしい」
廃墟の外で、砲声が響いた。
スターリングラードが、燃えていた。
モスクワ、スターリンの執務室。同時期。
スターリンは地図を見ていた。
スターリングラードの地図。
ジューコフが隣に立っていた。
「包囲できる」ジューコフは言った。「第六軍を——完全に包囲できる」
「確信があるか」
「あります」
スターリンはパイプを一吸いした。
「スウェーデンの動きは」
唐突な問いだった。ジューコフは一瞬だけ戸惑った。
「……スウェーデンは中立を——」
「中立など、ない」スターリンは言った。「あの参謀総長は、今何をしている」
「要塞線の建設と——」
「こちらに向けた要塞線もあるか」
ジューコフは答えなかった。
それが——答えだった。
スターリンはゆっくりと立ち上がった。
「ジューコフ、お前はスウェーデンをどう見る」
「軍事的には——北欧最強です。冬季戦の能力は、我々に匹敵するか、それ以上かもしれない。だが——規模が小さい。国力が小さい」
「国力が小さくても——賢い将軍がいれば、大きな国を食える」
ジューコフは黙っていた。
「コワレフはどうした」
「……昨年、失敗を報告した後、消えました」
スターリンはそれを聞いて、何も言わなかった。
窓の外、モスクワの冬が始まっていた。
「スウェーデンへの新しい工作を考えろ」スターリンは言った。「今度は——もっと賢い方法で」
ストックホルム、参謀総長室。1942年冬。
「スターリングラードが包囲された」
ノルドストロームの声が、静かな部屋に落ちた。
レーヴェンは地図を見た。
包囲されたドイツ第六軍。三十万の兵。
「これで——転換点だ」レーヴェンは言った。
「ドイツが負けると」
「ドイツが——退き始める。今日からは、押す戦争から、引く戦争に変わる」レーヴェンは地図の上で指を動かした。「ソ連は西へ進む。ドイツは西へ退く。そしていずれ——どちらかが、北欧に手を伸ばしてくる」
「どちらが先だと思いますか」
「ドイツだ」レーヴェンは言った。「追い詰められた者は、使えるものを全て使おうとする。スウェーデンの鉄鉱石、スウェーデンの鉄道、スウェーデンの港——全部、欲しくなる」
「その要求を——どう処理しますか」
「今まで通り、条件をつけて承諾する。だが——条件を、少しずつ厳しくする」
「ドイツが気づきませんか」
「気づく」レーヴェンは静かに言った。「だが気づいた時には、もうドイツに北欧に圧力をかける余裕がなくなっている」
ベルイマンが口を開いた。
「タイミングの問題ですね。ドイツが気づく前に、ドイツを消耗させる」
「そうだ」
「綱渡りではなく——綱の両端を握る、とはそういう意味でしたか」
「今頃わかったか」
「考えていました」ベルイマンは言った。「ドイツとソ連を——情報で操りながら、消耗させながら、どちらにも属さずに生き残る。それを——開戦前から計画していた」
部屋が静かになった。
「参謀総長」ベルイマンは言った。「一つだけ、聞いていいですか」
「何だ」
「あなたは——この戦争が、どう終わると思っていますか」
レーヴェンは窓の外を見た。
ストックホルムの冬。雪が降っている。静かな街。
「ドイツが負ける」レーヴェンは言った。「時間はかかる。多くの人間が死ぬ。だが——ドイツは負ける」
「その後は」
「ソ連が——巨大になる」
「そしてスウェーデンは」
レーヴェンは答えた。
「生きている」
断言だった。
根拠を語らなかった。だが——誰も、疑わなかった。
この男が「生きている」と言うなら。
この男が、今夜もまだ地図を見ているなら。
スウェーデンは——生きている。
夜半。
ノルドストロームが最後に退出するとき、レーヴェンはまだ机の前にいた。
白紙が、一枚ある。
「閣下」ノルドストロームは言った。「今夜も——書くのですか」
「いいや」
「では——」
「今夜は、考える」
ノルドストロームはドアを閉める前に言った。
「……何を、考えるのですか」
レーヴェンは答えなかった。
ただ——窓の外の雪を、見ていた。
東で、何十万の人間が死んでいた。
その炎の光が、ストックホルムまでは届かなかった。
届かないように——今夜も、この男は考え続けていた。
次回もお楽しみに




