第二章・第一節「バルバロッサの雷鳴」
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1941年6月22日、午前三時。
世界が、変わった。
東プロイセン、総統大本営「狼の巣」。
ヒトラーは眠っていなかった。
夜明け前から机に向かい、作戦地図を広げていた。東へ。東へ。果てしなく東へ伸びるソ連の版図が、赤く塗られている。
「総統閣下」
カイテル元帥が入室した。
「時刻です」
ヒトラーは立ち上がった。
窓の外、東の空がまだ暗かった。
三時間後、それは始まる。史上最大の陸上作戦。三つの軍集団。三百万の兵。三千両の戦車。
バルバロッサ作戦。
「スウェーデンへの通告は」
「昨夜、ローゼン外務大臣に伝達しました。協定に基づく——通過権の要請です」
ヒトラーはうなずいた。
フィンランドを経由してソ連を攻撃するルートに、スウェーデンの鉄道が必要だった。これは計算済みだ。スウェーデンは承諾するはずだ。
「レーヴェンは何と言っている」
「……まだ、回答がありません」
ヒトラーは止まった。
「回答が、ない?」
「ローゼン外務大臣は承諾の方向で動いていますが——参謀総長室からの返答が、来ていないと」
ヒトラーは窓の外を見た。
三百万の兵が、今夜動く。その計算の中に、スウェーデンの沈黙は、入っていなかった。
「……あの男は」ヒトラーは静かに言った。「何を考えている」
モスクワ、クレムリン。同日、午前二時。
スターリンは眠っていた。
それが、後に歴史家が書く「最大の失策」になる。
ドイツ軍の動きを示す報告は、何週間も前から届いていた。英国からの警告。ソ連スパイからの情報。国境守備隊の報告。全て——スターリンは「挑発だ」と退けていた。
ヒトラーは英国と戦争中だ。二正面作戦は愚策だ。条約がある。
その確信が——裏切られる夜だった。
午前三時十五分。
電話が鳴った。
スターリンは目を覚ました。受話器を取る前に、何かを感じた。
嫌な予感、というものを、この男はほとんど持たなかった。だが今夜は——
「……何だ」
「報告します」声が震えていた。「ドイツ軍が——国境を越えました。全戦線で——」
スターリンは受話器を置いた。
しばらく、動かなかった。
それから立ち上がり、窓の外を見た。
モスクワの夜が、まだ静かだった。
だが東では——西では——南西では——
炎が上がっていた。
ストックホルム、参謀総長室。同日、午前四時。
レーヴェンは既に起きていた。
正確には——眠っていなかった。
ノルドストロームが入ってきたとき、レーヴェンは地図の前に立っていた。昨日と同じ場所に。同じ姿勢で。だが地図の上の赤鉛筆の印が——夜の間に、増えていた。
「始まりました」ノルドストロームは言った。
「知っている」
「……いつから」
「三日前に、ファルクから報告があった。開始は今夜だと」
「では——ドイツからの通過権要請は」
「わかっていた」レーヴェンはノルドストロームを見た。「お前はどう思う。承諾すべきか」
ノルドストロームは珍しく、すぐに答えなかった。
「……承諾すれば、ドイツとの関係は維持できます。だが——ソ連を刺激する」
「拒否すれば」
「ドイツを刺激する。だが——スウェーデンの中立性を示せる」
「どちらを選んでも、敵を作る」
「はい」
レーヴェンは地図に向き直った。
「ローゼンは承諾しようとしている」
「外務大臣の判断では」
「あれはドイツ寄りだ。あるいは——ソ連から何かもらっているか」レーヴェンは静かに言った。「どちらにせよ、自分の利益で動いている」
「……どうされますか」
「承諾する」
ノルドストロームは一瞬、止まった。
「閣下——それは」
「ただし、条件をつける」レーヴェンは言った。「通過を認める代わりに、スウェーデン国内のドイツ軍の行動を、我々が管理する。武装解除の権限も持つ。つまり——ドイツ軍は、我々の客として通る」
「……ドイツが承諾するでしょうか」
「今夜、三百万の兵を動かしている男が、スウェーデンとの軋轢を望むはずがない。承諾する」
「そして——ソ連への説明は」
「ソ連には別の回路で伝える」レーヴェンは言った。「ファルクが持っているルートで——我々はドイツをコントロールしていると、スターリンに信じさせる」
ノルドストロームは長い沈黙の後、言った。
「……あなたは今、ドイツとソ連の両方に、同時に嘘をついている」
「嘘ではない」レーヴェンは言った。「それぞれに、それぞれが信じたい現実を、見せている」
「違いが——わかりません」
「嘘は、いずれ必ず破綻する」レーヴェンは窓の外を見た。「だが相手が信じたい現実は——相手自身が、長い間、守ろうとする」
同日、午前六時。ベルグリン、ドイツ軍最高司令部。
マンシュタイン中将は東部戦線の地図を見ながら、別のことを考えていた。
「北欧が、動かない」
参謀のフリードリッヒ・パウルス将軍が横に立った。
「スウェーデンは通過権を承諾する方向では」
「承諾の仕方が問題だ」マンシュタインは言った。「あの参謀総長は——ただ承諾しない。必ず条件をつける。条件の中に、必ず——自分たちの利益を埋め込む」
「それは普通の外交では」
「普通の外交官なら、そうだ」マンシュタインは珈琲を置いた。「だがレーヴェンは軍人だ。軍人が外交に条件をつけるとき——それは外交ではなく、作戦だ」
パウルスは眉を寄せた。
「どういう意味ですか」
「我々がソ連と戦っている間、スウェーデンは何をするか」マンシュタインは静かに言った。「我々が東を向いている間、北で何が起きるか——誰も、考えていない」
「総統は——」
「総統は東しか見ていない」マンシュタインは地図に視線を戻した。「それを——あの男は、知っている」
窓の外、ベルリンの朝が白んでいた。
東の空の向こう、数百キロ先で——歴史上最大の戦争が始まっていた。
ストックホルム、ファルク情報局。同日、午前八時。
「スターリンへの回路、開きました」
部下の報告を受けながら、ファルクは別の書類を読んでいた。
コワレフ大佐——スターリンに命じられてスウェーデンへの浸透工作を指示した男——からの、最新報告だ。
もちろんコワレフは、自分が書いた報告書が、ファルクの手に渡っていることを知らない。
彼が育てた「スウェーデン国内の資産」の一人が——三年前から、ファルクの二重スパイだった。
「スターリン、独ソ開戦の報告を受け、混乱状態。当面、スウェーデンへの工作は後回しになる可能性」
ファルクは書類を置いた。
「スターリンに伝えることは」
部下が待った。
「スウェーデンはドイツの通過権を認めたが——参謀総長は、ドイツを信頼していない。スウェーデンは中立だ」
「それは——事実ですか」
ファルクは部下を見た。
「事実の一部だ。事実の一部は——嘘より強い」
東部戦線、ソ連領内。1941年6月22日、正午。
炎が上がっていた。
ドイツ軍の装甲師団が、ソ連の国境守備隊を蹂躙しながら東へ進んでいた。空にはシュトゥーカが飛び、地上にはパンツァーが走る。
ソ連軍は混乱していた。命令系統が麻痺していた。航空機の多くが、地上で破壊された。
歴史上最大の奇襲。
その炎の中に——一人のドイツ将校が立っていた。
ハインツ・グデーリアン上級大将。
装甲部隊の父。電撃戦の体現者。
彼は燃える地平線を見ながら、別のことを考えていた。
「速い」副官が言った。「ソ連軍の抵抗が——予想より弱い」
「今は、そうだ」グデーリアンは言った。
「問題がありますか」
「ソ連は広い」グデーリアンは東を見た。地平線の彼方、さらに地平線の彼方まで続く大地。「電撃戦は、速度で決まる。だが——補給が届かなくなったとき」
「その前に、モスクワを落とします」
グデーリアンは答えなかった。
ただ——ふと、思った。
北欧で、六日でフィンランドを落とした男のことを。
補給線を凍結させるという戦術を使った男のことを。
速度で決まる。それは自分も信じている。
だがあの男は——速度の限界も、計算していた。
「……レーヴェンは、今何を考えているだろうな」
副官は聞こえなかったのか、答えなかった。
グデーリアンは装甲車に乗り込んだ。
東へ。まだ、東へ。
ストックホルム、参謀総長室。同日、午後。
レーヴェンは地図を見ていた。
東部戦線の概略図。ドイツ軍の進撃経路が、赤い矢印で示されている。
「速い」ベルイマンが言った。「ドイツの進撃速度は、我々の想定を上回っています」
「だが止まる」
「いつ」
「冬が来るとき」レーヴェンは言った。「あるいは——補給線が伸び切るとき。どちらが先かは、わからない。だが——どちらかが必ず来る」
「その後は」
「消耗戦だ。長い、泥沼の消耗戦」レーヴェンは椅子に座った。珍しい動作だった。「ドイツは勝てるかもしれない。だが——今夜見ている電撃戦の速度では、勝てない」
「確信がありますか」
「ナポレオンも、同じ道を通った」
部屋が、静かになった。
リンド中将が腕を組んだ。「つまり——長期戦になると」
「二年。あるいは三年。あるいはそれ以上」
「その間、我々は」
「準備する」レーヴェンは地図を指さした。「ドイツが消耗する。ソ連も消耗する。その間に——スウェーデンは、どちらにも属さない、第三の力を作る」
エーク中将が口を開いた。慎重な男が、珍しく前に出た。
「閣下。それは——綱渡りではないですか。ドイツとソ連、どちらかが我々に圧力をかけてきたとき」
「かけてくる」レーヴェンは言った。「必ず。どちらも——スウェーデンを完全に中立にしておきたくない」
「では」
「だから要塞線を作る。だから極寒戦部隊を鍛える。だから——どちらが攻めてきても、割に合わないと思わせる防衛力を持つ」
「攻撃は最大の防御、ではなく」
「防御は——最良の交渉カードだ」レーヴェンは静かに言った。「お前の言葉を借りれば——攻めは一時、守りは永遠だ」
エーク中将は、わずかに目を見開いた。
自分の言葉が、返ってきた。
「……閣下は、私の言葉を」
「全員の言葉を聞いている」レーヴェンは立ち上がった。「聞いた上で、判断する。それが参謀総長の仕事だ」
その夜、外務省。
アクセル・ローゼン外務大臣は一人、執務室で書類を書いていた。
ドイツへの通過権承諾文書。条件つきだが——承諾だ。
ローゼンは満足していた。ドイツは喜ぶ。ドイツが喜べば、スウェーデンの立場は安泰だ。戦後、勝者の側にいる。それが外交というものだ。
ドアがノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは、見知らぬ若い男だった。外務省の職員ではない。
「誰だ」
「閣下」男は封筒を差し出した。「ファルク少佐からです」
ローゼンは封筒を受け取った。開く。
中に、一枚の写真があった。
ローゼンの顔から、血の気が引いた。
三週間前のソ連大使との会食——記録に残らないはずだった会食——の写真だった。二人が並んでいる。テーブルの上に書類がある。書類の内容まで、鮮明に写っていた。
写真の裏に、一行だけ書かれていた。
「泳ぎ続ける限り、魚は溺れない」
ローゼンは長い間、写真を見ていた。
外では、世界最大の戦争が始まっていた。
そしてストックホルムでは——静かな戦争が、もうずっと前から続いていた。
参謀総長室。深夜。
レーヴェンは白紙の前に座っていた。
夜ごと書いているものが、何なのか——ノルドストロームも、ファルクも、聞いたことがなかった。
今夜、レーヴェンはペンを取らなかった。
ただ、窓の外を見ていた。
バルト海の向こうで、ドイツとソ連が戦い始めた。
史上最大の戦争が、東で燃えている。
二百十七人。
北欧電撃戦で死んだスウェーデン兵の数が、頭の中にあった。
この戦争が長引けば——次に死ぬのは、どれだけの人間になるのか。
ドイツ兵か。ソ連兵か。
あるいは——スウェーデン兵か。
レーヴェンは目を閉じた。
戦争は速度で決まる。
自分の信条が、頭の中で響いた。
だが今夜だけは——速度ではなく、時間のことを考えていた。
どれだけの時間が、あるか。
嵐が北欧に届くまでの——猶予が。
次回もお楽しみに




