#2 Patience
和哉と穂乃花は、満員のバスにゆられていた。土曜日の午後五時二十分、市営バスは家を目指す人々を満載して、住宅地を気だるげに走ってゆく。二人は並んで立って、吊り革をつかんでいない方の手は、固く恋人つなぎで結ばれている。穂乃花は立ったままウトウトしていて、和哉は車窓に流れる風景をただ、ぼんやりとながめていた。
二人が目指す家は、バスの終点に近い、高台の上にある。家主は、二人が世話になっている、大村教授夫妻。二人は定期的に教授を訪ねて、ディナーを共にするようにしている。
乗客はしだいに減って、最後には二人だけになった。長椅子に腰を下ろしても、和哉と穂乃花は結んだ手を離さなかった。夕日は薄暗いバスの車内まで朱色に照らして、手すりや吊り革の影を長く、長く伸ばした。やがて、バスは坂道にはいっていった。
バス停から少し歩いて、目的の家につく。三角屋根の洒落た洋風住宅だ。夕日が地平線に近づいて、家のまわりに植えられた木叢の暗さは、ことさら深くなった。
チャイムを押すと、夫人に笑顔で出迎えられた。笑うと目が糸のように細くなる彼女のやわらかな笑顔には、どんな人間も気を許してしまう魅力がある。
教授は、新聞を読みながらロッキングチェアに揺られていた。彼のきれいに真っ白な髪の毛も波のように揺れていた。
「こんばんは、寒くなかったかい?」
「どうも、今日はそこまで寒くないですね」和哉は言った。
「こんばんは、穂乃花です」
「やぁ、穂乃花ちゃん、お腹はへってる?」
「もう、ぺこぺこ」
「それはよかった」
夕飯は、夫人お得意のビーフシチューだった。肉がほろほろにとけて、和哉と穂乃花は舌鼓を打った。夫人は満足そうに、頬張る二人をながめていた。
食べ終えると、穂乃花は夫人と針仕事にとりかかった。夫人の趣味であるパッチワークキルトに、穂乃花も興味を持ったのだ。和哉は紅茶をすすりながら、細かい作業に没頭する二人をながめていた。
和哉は教授に呼ばれて二階の書斎へいった。本棚には分厚い医学書が詰め込まれていて、机の上にはプリントされた英文の論文が散らばっている。和哉は、教授に日記と書かれたノートを手渡した。
「どうもありがとう。君の日記を読んでいると、私の心まで若返ってくるようだ」
「そういわれると恥ずかしいです」
「君の気持ちを素直に吐露してくれてたすかるよ。最近、学校はどう?」
「まあまあですね、放課後は楽しいですけど」
「穂乃花ちゃんと?」
「ええ、僕は、ずっと穂乃花といます」
「ほかの友達とは、どこかに行ったりしないの?」
「あまり行かないですね」
窓の外は、すっかり暗くなっていた。屋内から漏れる光に導かれて、大きな一匹の蛾が書斎の窓に張り付いていた。そのロールシャッハテストのような羽の模様が、いやにくっきりと認められる六本の蠢きが、和哉の心をなんとなく不安にさせた。
「穂乃花の病気は、一体、いつ治るのですか?」
「和哉くん、あせってはいけないよ。解離性同一性障害という病気は、非常に重い病気だ。少しずつ、少しずつ治していかなければならない」
「それはわかっていますが、、、」
「多重人格というものは、広く人々に膾炙しているけれども、実際の症例は少ない。まだまだ、わかっていないことも沢山ある。私たちは気長に、彼女の病気に付き合ってゆかなければならない。最近の穂乃花ちゃんはどんな感じだね?」
「どうも不安定なようです。カリナやサヤになるときが増えてきています。先日は、あいりが出てきました。十二月が近いからでしょうね」
「やはり、そうか。ゆの や なつきは、どう?」
「二人の人格は安定していますね。" スポットライト " を浴びるのが、穂乃花の主人格の次に多い。どうやら、" スポットライト " に悪い子たちが出てこないように、頑張ってくれているみたいです。穂乃花の良き友になってくれています」
教授は、穂乃花についてまとめられたファイルを机から引っ張り出して、めくった。
「とくにサヤには注意が必要だね。サヤは、性欲と強い自己否定が結びついてつくられたキャラクターで、自身の体を痛めつけることに執着している。非行も目立っている」
「彼女には、手を焼かされていますよ。サヤに比べれば、カリナはかわいい方です」
教授は、和哉に背を向けて窓の外を見た。止まっている蛾に気がついて、窓硝子を指先で軽く叩いた。蛾は驚いて、その鱗粉をあたりに散らすようにふわりふわりと舞って、夜の帳に消えた。
「あの事件から、もう七年も経つのか」
教授はつぶやいた。
「はやいものだね。若い君には、長い年月であったかもしれないが」
「ええ」
彼は再び和哉の方をむいた。
「七年前のあの事件の時、彼女の心はバラバラに砕けてしまったんだろう。そして、その破片たちが心の奥底で勝手に成長してしまって、今のような状態になってしまった。だから、その破片一つ一つを穂乃花ちゃんの心に縫い合わせねばならない。まさに、パッチワークのようにね。彼女の良い面も悪い面もすべて受け入れて、一つの人格に統合する。長い道のりになるだろう」
「ところで、和哉君の調子はどう? 精神的に疲れていないかい?」
「僕ですか、ぜんぜん大丈夫です」
「そう。でも、あまり穂乃花ちゃんばかりに気をとられてはいけないよ。かけがえのない高校生生活を送っているのは、君も同じなのだから。男友達とかと楽しく過ごすのも、時には、時には必要だと私は思う」
「、、、わかりました」
「私がこの日記の制作をお願いしているのは、もちろん穂乃花ちゃんの観察記録のためであり、それと同時に、君のための記録でもある」
「僕は病んでなんかいません」和哉は語気を強めた。
「私は心配なんだよ。ただ、少し休んでみてはどうかというとこだ。日本人は、精神科というものに拒絶反応を示してしまうけれど、西欧ではカウンセリングを受けることは、なんでもない、当たり前のことなのだよ」
和哉は眉間に皺をよせて、拒否の表情をあからさまに示していた。教授は、その若者らしい正直さに好感を持つと同時に、危うさを感じた。
教授はどすんと革張りの回転椅子に腰掛けて、言った。
「私は、精神医学の権威などといわれているが、それはまったく恐縮なことなんだよ。何十年と人の心を研究しているが、わかったのは、たった一つのことだ。それは、人の心なんかわかりやしない、ということだけ。研究をすればするほど、なんだか、ラビリンスに迷いこむような気がするんだよ。現に、穂乃花ちゃんの病気をまったく治せていない。私は自分を医者として恥ずかしく思う。本当に申し訳ない」
「そんな、謝らないでください」
和哉はうろたえた。
「和哉君、あまり無理してはいけないよ。自分の心であれ、彼女の心であれ、わかった気でいるのは、危険だぞ」
「ええ」和哉は、ぎこちない微笑で返した。
階下から、和哉を呼ぶ穂乃花の声がして、彼は書斎を出ていった。取り残された教授は、渡された日記をペラペラとめくった。彼は眉を顰めた。以前から、ある懸念が頭をもたげていた。
『和哉君は、このまるでハーレムのような状況を、心のどこかで楽しんでいるフシがある———』




