第四話 閉幕
誰も、答えなかった。
私はその沈黙を、静かに受け取った。
怒りはなかった。失望もなかった。
この国の貴族たちが、長い年月をかけて培ってきた処世術——波風を立てず、強い側につき、嵐が過ぎるのを待つ——それが今夜、沈黙という形で現れただけだ。責める気にはなれなかった。
ただ、これで十分だった。
答えが返ってこなかったことが、すべての答えだった。
私はゆっくりと、左手を持ち上げた。
薬指に嵌まった指輪——金の台座に、王家の紋章が刻まれた婚約指輪。
八歳の婚約式の日から十年、ずっとそこにあったものだ。重いと思ったことは一度もなかった。
ただ、外す日のことは——何度も、想像していた。
指輪を外した。思ったより、あっけなかった。
私は会場を見渡し、視線を止める場所を探した。
テーブル。グラス。花瓶。どれも違う気がして——結局、エドワルド殿下の前まで歩いた。
殿下は動かなかった。止める言葉も、引き留める手も、出てこなかった。
私は指輪を、殿下の手のひらにそっと置いた。
押しつけるのではなく、ただ——返す、という感覚で。
「殿下」
殿下が顔を上げた。その目は、今夜初めて、純粋に困惑していた。
怒りでも、安堵でもなく、ただ——何が起きているのかわからない、という顔だった。
「婚約を解消いたします」
声は、我ながら穏やかだった。
「あなたが好きな人と、幸せになってください」
皮肉のつもりはなかった。本当に、そう思っていた。
エドワルド殿下がソフィアを愛していることは、十三年間見てきてわかっていた。
不誠実だとは思った。政治的に愚かだとも思った。
しかし——愛することそのものを、責める気にはなれなかった。
殿下は何か言おうとした。唇が動いた。しかし言葉は出てこなかった。
私は一歩、下がった。
会場を、最後にもう一度だけ見渡した。
国王陛下は目を伏せたままだった。
王妃陛下はまっすぐに私を見ていた。その目に浮かぶものが何なのか——労いなのか、共感なのか、あるいは羨望なのか——私には読み取れなかった。ただ、その目が嫌いではなかった。
貴族たちは、思い思いの顔をしていた。
計算している者、同情している者、ただ呆然としている者。
長い付き合いの顔もあれば、名前も知らない顔もある。
この人たちの中で、十年以上を過ごしてきた。
悪くない日々もあった、と思った。
本当に。
私はドレスの裾を一度だけ持ち上げ、深く礼をした。
王族への最後の礼儀。形式として身に染みついた所作が、今夜は少しだけ——心からのものになった気がした。
顔を上げる。
扉に向かって、歩き出す。
会場の中央を、真っ直ぐに。左右に避けていく人々の気配を感じながら、私はただ前だけを見て歩いた。
誰も、止めなかった。
止めることができる者は、もういなかった。
扉の前まで来たとき、背後で小さな声がした。
聞き覚えのある声だった。
「……あの」
私は足を止めた。振り返らなかった。
「私も——」
声が、途切れた。
続きを言おうとして、言えなかった声。その主が誰かは、振り返らなくてもわかった。
ソフィア・ランブール。
私は少しだけ考えた。振り返るべきか。答えるべきか。
——やめた。
今夜の舞台に、続きはいらない。
彼女の物語は、彼女自身が続きを書けばいい。
私が手を差し伸べることも、突き放すことも——どちらも、今夜の私の役割ではなかった。
私はただ、小さく息を吐いた。
それだけを、答えの代わりにした。
扉が開いた。
夜風が入ってきた。蝋燭の炎が、一斉に揺れた。
外は静かだった。パーティの喧騒も、貴族たちの視線も、王族の重さも——扉の向こうには、何もなかった。
ただ夜があった。星があった。遠くで、馬車の音がした。
私は一歩、踏み出した。
石畳に、ヒールの音が響いた。
その音が、思ったより軽かった。
誰にも見えないところで、私は小さく息を吐いた。
肩の荷が降りた——というより、長い間抱えていたものを、ようやく地面に置いた、という感覚だった。
空を見上げた。
星が多い夜だった。
次はどこへ行こうか、と思った。
怖くはなかった。
十三年間、この夜のために生きてきた。この夜の先のことを、あまり考えてこなかった。
でも不思議と、楽しみだった。
初めて——自分だけのために、歩ける気がした。




