羅針盤なき航路Ⅱ ―戦火の証言者たち―【後半】終
本作『羅針盤なき航路Ⅱ ―戦火の証言者たち―』も、いよいよ第3章以降に入ります。
前半では「幻影の勝利」に酔う街と、その裏で数字の崩壊を見てしまった研究員たちの姿を描きました。後半では、その「幻影」がどのように剥がれ、やがて「敗北の設計図」となって現実化していく過程を描きます。
玉砕、空襲、原爆、玉音放送――昭和の空を覆った悲劇の数々。その中で「真実を記すこと」しかできなかった男たちの声を、ぜひ最後まで追いかけていただければ幸いです。
第3章 敗北の設計図
第一節 増える空白
昭和十七年夏。
陽は長く、街の喧噪は明るさに満ちていた。新聞は相も変わらず「帝国、連戦連勝」と見出しを踊らせ、ラジオは軍歌と戦果の報を繰り返している。子供たちは竹馬に乗って「敵艦撃沈ごっこ」を楽しみ、商店の軒先には南方から届いたという砂糖や布が並べられ、群衆は勝利の実感を口にした。
だが、高瀬直哉の机上には、別の地図が広がっていた。
南シナ海、ジャワ海、スラバヤ沖。航路を示す線に、小さな印がいくつも記されている。
「ここが消えた」
鉛筆で印を打つたびに、線が途切れ、海図に空白が増えていった。
井口が無線傍受の記録を投げ出した。
「救難信号は確かに増えている。だが、その後が無い。応答が途絶え、消息は闇に沈む」
高瀬は黙って地図を見つめた。
「公式報道では、順調に航行中と記される。だが、実際は……」
「線が消えていく。海の上から、まるごと」
窓際に置かれた鉄道省の技師の報告も同じだった。
「到着予定のタンカーが来ない。港で待ち受ける荷役人員は手持無沙汰になり、鉄道の手配も空振りが続いています。帳簿の予定と、実際の到着数が合わないんです」
その言葉は、机上の数字に影を落とした。
夕刻、三人は喫茶店で短い休憩をとった。外の街路には、学生たちが軍歌を合唱しながら練り歩いていた。
「帝国は進撃を続ける!」
「大東亜は我らのものだ!」
沿道からは拍手と歓声が沸き起こる。
だが、高瀬の目には、歓声の向こうでじわじわと広がる「空白」が重なって見えていた。
紙の上で消えた航路は、現実の海で油を、物資を、人命を飲み込んでいた。
井口は煙草を揉み消し、低く言った。
「この空白は、やがて地図ごと崩す。戦果の線は伸びても、輸送の線は削れていく」
高瀬は深く頷き、手元の地図を閉じた。
「――勝利の活字が踊るほど、空白は広がる」
その夜、霞が関の灯は遅くまで消えなかった。
しかし誰もが避けていた――その灯の下で確かに増えていたのは、戦果の線ではなく、地図に刻まれる「空白」だった。
第二節 数字の悲鳴
真夏の陽が照りつける霞が関。
街は蝉の声と共に、なお「勝利の夏」に酔っていた。新聞は「帝国軍、さらに南進!」と大見出しを打ち、ラジオは勇ましい戦勝の歌を流している。だが、高瀬直哉の机の上では、別の「歌」が鳴り響いていた。
それは数字の悲鳴だった。
海運統制会から届いた月報を開く。冒頭には「順調なる輸送」の文字。だが、次の頁に記された表には、出航数と到着数の間に埋めがたい空白があった。
七隻出航、帰港三隻。四隻の行方は「確認中」と淡く記されている。
井口が低い声を漏らした。
「確認中という言葉は便利だな。書き手の責任を消してくれる」
高瀬はうなずき、鉛筆を走らせた。行方不明の四隻を欄外に書き込み、合計欄の数字を引き直す。
「確認中とは、ほとんど沈没と同義だ。公式に沈んだと書けば紙面が揺らぐ。だから、曖昧にしておく」
そこへ鉄道省の若い技師が駆け込んできた。汗に濡れたシャツの袖をまくり、帳面を突き出した。
「石油の搬入量が、数字と合わないんです!」
「どういうことだ?」
「帳簿上は、南方から油槽船十隻分が届いたことになっている。だが、港で実際に荷役したのは七隻分。三隻は、どこにも姿がない」
若い声は震えていた。
「数字の上では入った。でも現場にはない。帳簿だけが勝っている」
沈黙が広がった。外からは子供たちの歌う「海ゆかば」が風に乗って届く。勝利を讃えるその歌声が、ここでは皮肉のように聞こえた。
井口は煙草をくわえ、深く吸い込んだ。
「数字は人を慰めない。むしろ、人より先に悲鳴を上げる」
「数字の悲鳴を聞く耳を、国は持っていない」
高瀬は淡々と答え、海図の上に赤鉛筆を走らせた。航路が一本、また一本と消えていく。
技師は両手で帳面を抱えたまま、絞るように言った。
「港の人間は、もう気づいています。荷役の数が合わない。油槽が満ちていない。――だが、口には出さない。声を出せば、誰かに消される」
部屋の隅で時計が重々しく時を刻んだ。秒針の音がやけに大きく響く。
外の街は「勝利」の太鼓を打ち鳴らしていた。だが、この小さな部屋に響いていたのは、数字の沈痛な叫びだった。
第三節 暮らしの綻び
昭和十七年の夏が深まるにつれ、街の表情は次第に変わり始めていた。
銀座の大通りにはまだ「大勝利」の号外が踊り、映画館では連日のように戦果映像が流されていたが、その一方で、人々の暮らしの隅々に、見えない皺が寄り始めていた。
配給所の前には、朝早くから長い列ができていた。母親たちは空の缶や袋を抱え、暑さの中で汗を拭きながら順番を待つ。
「今月はまた減ったねえ」
「子供に飲ませる分も足りないよ」
小声で交わされる言葉に、笑いはない。係員は「必ず南方から届きますから」と口にするが、その声はどこか乾いていた。
井口はその列の端に立ち、帳面をめくっていた。人々に気づかれぬよう控えめに観察しながら、配給量の数字を書き込む。
「……油だけじゃない。炭も米も、数字が痩せている」
傍らで高瀬が呟いた。
配給の帳簿を見れば、物資は確かに「届いている」はずだった。だが、人々の顔には「足りない」という影が刻まれている。
その夜、二人は下町の飲み屋に足を運んだ。店の奥の方では、軍服姿の若い将校たちが大声で笑い、勝利を謳歌していた。
「次はインド洋だ」「米英を蹴散らしてやる」
盃を打ち合わせる音が響き渡る。
一方、入口近くの席では、作業着姿の男たちが黙々と酒を飲んでいた。
「また残業だ。港に油はあるのに、缶がなくて積めない」
「船が足りねえんだ。港に置いたままじゃ、狙われるだけだ」
低く漏らされた愚痴は、酔いの勢いにすら乗らず、重く沈んでいた。
高瀬は酒を口にしながら、その声に耳を澄ませた。
「街はまだ幻影を見ている。だが、暮らしは正直だ。幻影では腹は満たせない」
井口は煙草を吸い込み、細く吐き出した。
「勝利の見出しが大きくなるほど、暮らしの影も濃くなる。……それが数字であり、現実だ」
店を出ると、夜風が熱気を冷ました。街路の提灯の明かりが揺れ、遠くで子供の泣き声が聞こえた。
高瀬は足を止め、静かに呟いた。
「暮らしの綻びこそ、敗北の最初の兆しだ。誰もそう呼びたがらないだけで」
井口は頷き、歩き出した。
その背中に映る影は、街の明かりに長く引き延ばされ、幻影と現実の境目を曖昧にしながら、なお確かに存在していた。
第四節 証言者として
盛夏の東京は、熱と湿気に包まれていた。
昼間の街には「さらなる戦果」の号外が飛び交い、人々は扇子で顔をあおぎながらも「帝国は無敵だ」と口々に語っていた。銀座の喫茶店では、若い将校たちが誇らしげに地図を広げ、インド洋の先にまで勝利の旗を立てようとしていた。
だが、霞が関の一室に集まった三人――高瀬直哉、井口、そして鉄道省の若い技師――の机上に広がるのは、別の地図だった。
その地図には、赤鉛筆で無数の小さな印が打たれていた。
印は沈んだ輸送船の数、途絶した航路の断片。
地図はすでに、敗北の設計図と化していた。
井口が煙草を揉み消し、重い声で言った。
「俺たちが積み上げた計算は、すでに予測ではない。――現実になった」
技師は帳簿を握りしめ、うつむいた。
「現場では口にできません。誰も敗北という言葉を言おうとしない。……でも、このままでは」
言葉は途切れた。
高瀬は静かに頷き、机の上の紙束を整えた。
「だから、書くんだ。たとえ読まれなくても。たとえ破られても」
「残すために、か」
「ああ。数字は、未来に語る。幻影に覆われたこの国で、せめて影を記す者がいなければならない」
外からは夏祭りの太鼓の音がかすかに聞こえていた。子供たちが浴衣姿で駆け、夜空には花火が上がっていた。
人々はまだ笑っていた。
だがその笑いの裏で、机に残された一冊の綴りが、未来に向けた唯一の証言として息をしていた。
井口が最後に呟いた。
「俺たちは兵でもなく、将でもない。ただ、影を見た者だ。――ならば、その影を語ることが、俺たちの戦だ」
蝋燭の火が揺れ、三人の影を壁に映し出した。
その影は細くも長く、未来へ伸びていた。
第4章 終わりなき戦いと最後の抵抗
第一節 玉砕の島
昭和十九年夏。
街の辻には「一億玉砕」のスローガンが大書され、新聞は連日「必勝」「万歳」を紙面いっぱいに踊らせていた。ラジオは明るい軍歌を流し、学校では子供たちが声を張り上げて唱和する。
だが、その裏で伝えられる戦地からの報せは、重苦しい響きを持っていた。
サイパン守備隊、玉砕。
レイテ沖、航空部隊壊滅。
硫黄島、未帰還多数。
街の人々は「立派だ」「英雄だ」と声を上げ、拍手を送り合った。新聞もラジオも「玉砕」を「栄光」として伝え、敗北の二文字は決して載らなかった。
霞が関の一室。
高瀬直哉は沈黙の中で電報の写しを読んでいた。そこに記されていたのは、表向きの「玉砕」ではなく、現場から上がってきた冷徹な数字だった。
「兵力二万八千。帰還ゼロ」
文字は乾いていたが、その裏には数えきれぬ死の重みが潜んでいた。
井口が煙草を深く吸い、灰皿に押し付けた。
「玉砕とは言葉だ。だが現実は全滅。……数字はそれしか示していない」
高瀬は無言で頷いた。かつて研究所で予測した「二年以内の石油枯渇」は、すでに現実となっていた。油は尽き、艦も沈み、空は敵機に覆われる。残されたのは、名ばかりの「玉砕」の美辞麗句だけだった。
夕刻、街を歩くと、電柱に貼られた赤いビラが目に入った。
「サイパン守備隊、玉砕す。皇国の護り、永遠なり」
人々は足を止め、黙ってそれを読み、頷き合った。涙を流す者もいた。だが、彼らの目の奥にあるのは、誇りではなく、かすかな恐怖だった。
その夜。
喫茶店の窓辺に座った高瀬と井口は、街のざわめきを背にして言葉を交わした。
「玉砕を讃える声が大きいほど、国の力は痩せている」
「国は美しい死を求めている。だが、必要なのは生きて働く手だ」
高瀬は冷めた珈琲を口にし、深い息を吐いた。
「――もう、これは勝利の戦ではない。記録を残すしかない戦だ」
外では軍楽隊が練習をしていた。軽快な旋律が夜風に乗って流れ、街路樹の影を揺らした。
だが、その旋律の奥底に、二人には確かに聞こえていた。
サイパンの海に沈んだ兵士たちの、声なき悲鳴が。
第二節 空からの炎
昭和二十年三月十日、未明。
東京の空は、突然うねるような爆音に裂かれた。闇を破って現れた無数のB29が、編隊を組んで押し寄せ、焼夷弾の雨を降らせる。
瞬く間に街は火の海となった。
木造家屋は炎に包まれ、瓦屋根は崩れ落ち、逃げ惑う人々の悲鳴と、燃えさかる炎の轟音が混じり合った。川へ飛び込む群衆、赤子を抱いて泣き叫ぶ母、倒れた家の下から手を伸ばす者――その全てが火の渦に飲み込まれていった。
高瀬直哉はその夜、省庁の屋上に立ち尽くしていた。目の前に広がるのは、赤く燃える東京の姿。炎の舌が街を舐め尽くし、黒煙が夜空を覆い尽くしていた。
「……これが、戦の帰結だ」
喉から漏れた声は、炎の轟きに呑まれて誰にも届かない。
翌朝。
焼け跡を歩いた高瀬は、かつて賑わっていた下町の姿が跡形もなく消えたのを見た。黒焦げの電柱、瓦礫の山、煤に覆われた玩具。生き残った人々は虚ろな目で空を見上げ、ただ無言で歩き続けていた。
井口は避難所で人々の列を見つめていた。
配給所の前には、焦げ跡のついた鍋を抱えた女たちが並び、兵隊帽をかぶった少年が「水をください」と訴えていた。
「幻影は、もう消えたな」
井口の声は低く、乾いていた。
「勝利の見出しも、今では焼け跡の前では紙くずだ」
高瀬は頷き、懐から小さな手帳を取り出した。焦げた木片の匂いが漂う中で、鉛筆を走らせる。
「……燃えた街、失われた命、途絶えた配給。すべて記す。数字として、言葉として」
「誰が読む?」
「分からない。だが、未来は読む。幻影を越えた世だけが」
その夜もまた、警報が鳴り響いた。防空壕へ駆け込む群衆の中に、子供の泣き声が混じる。空を覆う轟音は、勝利の歌ではなかった。
それは炎の歌、死の歌だった。
そして、誰もが理解し始めていた。
この戦は「勝つための戦」ではなく、「どれだけ死に耐えるかの戦」へと変わり果てていたことを。
第三節 原爆とソ連参戦
昭和二十年八月六日、広島。
午前八時十五分。晴れ渡る空を、たった一機の銀色の機影が通り過ぎた。
次の瞬間、閃光。大地を揺るがす轟音。
街は一瞬にして白く燃え尽き、炎と黒煙に包まれた。
瓦礫の中で焼けただれた人々が彷徨い、川に飛び込んでは動かなくなった。熱線は影を地面に焼き付け、皮膚は垂れ下がり、誰もが水を求めて倒れていった。
それは人間が経験したことのない、ひとつの都市の瞬時の殲滅だった。
八月九日、長崎。
広島の惨禍からわずか三日後、再び閃光が街を襲った。聖堂のドームは吹き飛び、街の半分が消えた。生き残った者たちは呻き声すら出せぬまま、黒い雨に打たれ続けた。
その報せが内地に届いたとき、人々は言葉を失った。新聞は「新型爆弾」としか書かなかったが、実際には「一撃で都市を消す兵器」が現れたことは明白だった。
霞が関の一室。
高瀬直哉は報告の束を机に置き、深く息を吐いた。
「これは、数字で測れぬ破壊だ……。人の数、家屋の数、工場の数――それすら意味を持たなくなる」
井口は煙草を指に挟み、力なく笑った。
「我々の計算は、石油や船腹だった。だが、敵はその上を行った。数字を超える破壊を持ち込んだ」
その時、さらに衝撃の報が入った。
――ソ連参戦。
満州国境を越えて赤軍が雪崩れ込み、関東軍は瞬く間に壊走した。
「不敗」と信じられていた北の守りが、一夜にして崩れ去ったのだ。
井口は声を失い、しばらく窓の外を見つめていた。
「もう、全方位から崩れている……。南も、東も、西も、そして北も」
高瀬は静かに頷いた。
「我々が恐れていた二年は過ぎた。油は尽き、船は沈み、空から炎が降り、そして核が都市を消した。加えてソ連……。――もう、勝利の幻影すら残っていない」
夜、銀座の焼け跡に立ち尽くした二人の前で、子供がひとり瓦礫の上に座り、空を見上げていた。
「おじさん、戦争はいつ終わるの?」
答えられなかった。
だが、その問いこそが、すでに国全体の心の声だった。
第四節 玉音の響き
昭和二十年八月十五日、正午。
日本全土に、今まで誰も聞いたことのない声が流れた。
ラジオから響いたのは天皇自らの声――玉音放送。
「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び……」
人々は街角に立ち止まり、息を呑んで耳を傾けた。
だが、荘厳な言葉は難解で、誰もがすぐには理解できなかった。
「……これは、勝ったのか?」「負けたのか?」
ざわめきが広がり、やがて重苦しい沈黙が訪れた。
ようやく一人が呟いた。
「……負けたんだ」
その言葉が波紋のように広がり、人々は膝をつき、嗚咽し、あるいは無言で空を仰いだ。
霞が関の一室で、高瀬直哉と井口は並んでラジオを聞いていた。
玉音の響きが終わり、雑音が戻る。
二人はしばし言葉を失った。
やがて井口が低く言った。
「……これで、終わったのか」
高瀬は手にしていた帳簿を閉じ、静かに答えた。
「いや、終わったのではない。始まったんだ。――敗北の現実が」
窓の外では、焼け残った街に人々が集まっていた。泣き崩れる者、虚ろに空を見上げる者、ただ黙って佇む者。
だが誰もが同じものを胸に抱いていた――「戦争は終わった」という事実である。
井口は机の上の資料束を見つめた。そこには、開戦前から積み重ねてきた試算と記録、戦中に集めた断片的な報せ、消された真実が綴じられていた。
「これを……残さねばならないな」
高瀬は静かに頷いた。
「幻影の時代は終わった。だが、影を記したこの記録は、未来の羅針盤になるかもしれない」
ラジオの雑音が途切れ、再び音楽が流れた。重々しい旋律に、人々は立ち尽くし、涙を流した。
敗戦の国に流れたその音は、誰にとっても重すぎる現実を告げていた。
高瀬は窓の外の群衆を見下ろし、深く息を吐いた。
「我々は兵でも将でもなかった。ただ、真実を見てしまった者だ。――だから記す。それが未来への唯一の務めだ」
井口は黙って頷き、机の上の資料を両手で押さえた。
その束は薄い紙の集まりに過ぎなかった。だが、それこそが「羅針盤なき航路」を歩んだ国の唯一の記録だった。
昭和二十年八月十五日。
玉音の響きは、幻影を打ち消し、影を未来に残した。
敗戦の国に、ようやく静かな現実が訪れた。
終章 残された真実の行方
昭和二十年の秋。敗戦の影は街の隅々にまで沁み込んでいた。焼け跡の瓦礫からは草が芽を出し、人々は鍋釜を抱えて闇市に群がった。誰もが明日の糧を探し、誰もが「昨日」を口にするのを避けていた。
やがて、占領軍のジープが街を走り抜け、白い星のマークが帝都の象徴となった。進駐したGHQは、憲法改正、教育改革、財閥解体を矢継ぎ早に打ち出し、敗戦国日本はその骨組みを新たに組み替えられていった。新聞は「民主化」を高らかに謳い、ラジオはジャズとカントリーを流し始めた。だが、その明るさの裏に、人々はまだ「なぜ負けたのか」という答えを探していた。
東京裁判。
法廷には「戦争責任」という新たな言葉が並び、絞首台に立つ者たちの名が次々と読み上げられた。判決は単純だった――「悪役」が決まり、罪が整理された。
傍聴席でその様子を見つめていた井口は、静かに拳を握りしめた。
「……これで、終わったことにされるのか」
彼の呟きに、高瀬は答えなかった。ただ、懐に忍ばせた一冊の綴じを強く握りしめた。そこには、開戦前に描かれた「敗北必至のシナリオ」と、戦中を通じて密かに記し続けた「不都合な真実」が眠っていた。
数年後、復興の槌音が響く東京の街で、二人は再会した。瓦礫の上に新しい建物が立ち並び、子供たちはランドセルを背負い、電車は再び人で溢れていた。
「街は変わったな」
井口が微笑むと、高瀬は頷いた。
「だが、変わっていないものもある。人は、また幻影を見たがる」
二人は古い喫茶店の隅に腰を下ろし、机の上に古びた資料束を置いた。紙は黄ばみ、綴じ紐は擦り切れていた。だがその中には、敗戦を予見しながら止められなかった苦悩、そして幻影に呑まれていった日本の姿が克明に記されていた。
「俺たちは戦を止められなかった。真実を知りながら、何も変えられなかった」
井口の声は低かった。
高瀬は静かに答えた。
「だからこそ、残す。記録は未来の羅針盤になる。――幻影に酔った時代を繰り返さぬために」
窓の外には、立ち上がり始めた新しい日本の姿があった。焼け跡に咲く朝顔のように、復興の芽はどこにでも見えた。だが、その芽を見つめる二人の目には、過ぎ去った「羅針盤なき航路」の記憶が消えることはなかった。
やがて二人は立ち上がり、資料束を革鞄にしまい込んだ。
「この紙束は、重いな」
「だが、未来はこれを読む。必ず」
街の雑踏に紛れてゆく背中に、戦後の陽光が差していた。
その光は新しい時代を照らし出すと同時に、過去の影をも浮かび上がらせていた。
こうして彼らの記録は、未来への証言として残された。
それは、過ちを繰り返さぬための羅針盤――。
やがて来る世代が、それを開く日を信じながら。
ここからの物語は、戦史の大きな流れと人々の暮らしが直に交差します。
幻影に覆われた社会の中で、それでも「数字」と「記録」は真実を語り続けました。勝利を讃える大見出しの裏に潜んでいた影、その影を記した者たちの悔恨と祈り。
結末は読者の皆さまがご存じの通りですが、その過程にこそ「なぜ日本は破滅へと進んだのか」の答えが隠れています。ぜひ、彼らの声に耳を傾けていただければ幸いです。




