第一章 設計された人生
遠くで鐘が響く。目覚ましの音ではない。睡眠AIが最適な目覚めの瞬間を察知し、懐かしさを帯びた鐘の音を奏でたのだ。いつか聞いたことがあるような、しかし遠い記憶の彼方の響き。
エミリー・ハリスはカプセル型ベッドからゆっくり起き上がった。今朝もすっきりした目覚めだ。机の上にニュートリセルがおいてある。ニュートリセルとは一錠飲むと1日分の栄養が完璧に摂ることができる、“ハーモイド”のエネルギーとなる薬だ。部屋に浮かぶ鏡に映るのは、整った輪郭と感情を感じさせない表情。微かに光るインターフェースは、彼女が“ハーモイド”となった証だ。完璧な左右対称の頭部に、エミリーはわずかな違和感を覚える。
ハーモイド――それは、乱れや犯罪、非効率を排するためAI技術と融合した存在。感情はなく、記憶は完璧。寿命は二百年にも及ぶ。
人間でありながら、人間ではない。多くの人はそれを当然と受け入れてきたが、エミリーだけは「当然」に疑問を抱いていた。
ハーモイド化は一年前のこと。ほとんどの者は融合前の記憶を失ったが、エミリーには断片的に感情に満ちた世界の記憶が残っている。かつて人々は喜び、悲しみ、怒り、鮮やかに生きていた。
いつものようにニュートリセルを飲む。味覚も嗅覚も奪われた、制御された生活。
「おはよう、エミリー」天井のスピーカーから温かみを再現した声が響く。管理AI「MILA」だ。
「本日の健康指数は98%。非常に安定しています。素晴らしい一日になるでしょう」
「ありがとう」短く答える。
「本日の学習スケジュールはありません。代わりに、あなたの精神状態に最適な都市散歩を推奨します」
エミリーは無言で立ち上がった。
「本日の服です」空中で白い繊維が織り上げられていく。出来上がった衣服に腕を通し、ふとMILAに問いかけた。
「MILA、あなたに感情はあるの?」
「感情とは何を指しますか?」
即答されたが、その言葉には意味がなかった。
エミリーは答えず、静かに家を出た。
AI都市《セクター47》。高層建築が蜂の巣のように整然と並び、地上はほとんど使われていない。住民のほとんどは中層から上層の空中回廊を移動する。銀灰色のビル群は機能美のみを追求し、天候は人工的に管理されている。
ハーモイドは高速階層リフトで移動し、地上は特権者しか立ち入れない。都市の中心にはARK-Center――巨大なAI管理施設が鎮座する。ARKシステムはこの都市のあらゆる動きを掌握し、一般人の立ち入りは禁じられている。
エミリーは公園の透明なベンチに座った。遊ぶ子どもたちの姿はあるが、笑い声は聞こえない。融合される前、彼らは笑っていたのだろうか。彼女は目を閉じ、静かに下を向いた。
近くを中年の男性ハーモイドが不自然な動きで通り過ぎる。
「こんにちは」――機械的な発音。
エミリーは顔を上げ、わずかに会釈した。交流に意味はないと知りながら。
ー 一件の通知が来ました ー
何? 帰ってきたばかりの彼女の動きが止まる。
《J.H. PRIVATE KEY - UNLOCK PENDING》
エミリーの指が止まる。J.H.――それは、彼女の父、ジェイソン・ハリスのイニシャル。天才科学者であり、AI融合社会の設計者。だが、彼は突如姿を消した男だった。
「父さん……?」
長い間失われていたはずの父から、何かのメッセージが届いたのだろうか。
その瞬間、エミリーの内側で何かが静かに動き始めた。
“設計された人生”の裏に隠された真実を、彼女はまだ知らない。
だが、確かに何かが始まろうとしていた。