プロローグ
感情は、非効率なのだろうか。
記憶は、完全であることが幸せなのだろうか。
そして、「人間であること」は、どこまで許されるのだろう。
かつて世界は、混沌に満ちていた。喜び、怒り、悲しみ、愛――不確かで制御不能なものたちが、人々を突き動かし、傷つけ、繋げていた。だが、技術がその混沌を正し、「合理」を最上とする未来が訪れた。
人は、ハーモイドへと進化した。感情も、衝動も、誤ちも捨て去り、完璧な記憶と身体を手に入れた。
だが、進化とは本当に、喪失なのだろうか。
本書は、AIと融合し、理想社会の一部として生きる一人の少女が、ある“違和感”を抱えながら、人間らしさをを取り戻すという物語です。
彼女の名は、エミリー・ハリス。
感情を持たないはずの彼女が、なぜ「懐かしさ」に心を動かされたのか。
なぜ“完全な記憶”に、失われた父の名がよみがえったのか。
これは、すべてを手に入れた人類が、「人間らしさとは何か」を問い直す物語です。
AIに管理された都市《セクター47》の片隅で、小さな疑問がやがて社会全体を揺るがす真実へと変わっていく――
感情なき世界に、生まれた、ひとつの“鼓動”。
それを聞き取る準備が、あなたにはできていますか?
人間は、何を失っても「心」だけは残ると信じていた。
でも、ある時代——その心すらも、静かに奪われていった。
感情を制御された社会。愛も怒りも、悲しみすら「ノイズ」とみなされる世界。
選ばれたのは、完全な効率。感情なき平和。
世界は「正しさ」の名のもとに、確実に人間であることを手放していった。
そんな中で、ひとりの少女が立ち上がる。
父の遺志と、自らの疑問を胸に——
これは、AIに囲まれた世界で、感情を取り戻そうとした、ある“人間”たちの物語。
私たちは、どこまでを「人間」と呼べるのだろうか。
それは肉体のことか、感情のことか、それとも記憶や魂のことなのか。
本作を通じて、私が描きたかったのはその問いに他なりません。
AIはすでに私たちの社会に深く根付き始めています。情報を処理し、効率を最適化し、人間の判断や感情を補助する存在として、日常に溶け込んでいます。
もしそのAIがさらに進化し、やがて「人間の欠点」を埋め、私たち自身の在り方すら設計できるようになったとき――それは果たして希望でしょうか、それとも喪失でしょうか。
エミリー・ハリスというキャラクターを通して描いたのは、完全さに覆い隠された不完全の価値、つまり「曖昧さ」「感情」「矛盾」こそが人間を人間たらしめるという視点です。
人類がAIと融合しようとする未来において、技術的な進化の果てに何が残るのか。それは、いまこの瞬間を生きる私たちにも投げかけられた問いではないでしょうか。
本書を閉じるとき、もしあなたの中にほんの少しでも「では、自分はどう生きるか」という内なる声が芽生えたとしたら、これ以上に嬉しいことはありません。
物語の中で失われたものが、あなたの心の中で、再び鼓動し始めますように。