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テーブルNo.2C、いつものファミレスで。


 名前を聞くってのは、他人の部屋に土足で踏み込むようなもんだ。

自分はそんなの嫌だから、できる限り名前を名乗らないようにしてきた。

幼稚園から社会人になった今まで、聞かれても苗字だけで済ませてきた。

他人と自分を見分ける記号なんざ、顔と苗字だけで充分だろ?



 4月13日 夜11時過ぎ

 ファミレスのいつもの角のテーブル席、No.2Cに座る。今日もチキンカツ定食。ご飯少なめ、味噌汁は熱すぎてまだ飲めない。 バイト終わりに一人でここへ来るのが習慣だ。就活失敗したトラウマが残る25歳、今は無職。まあ、コンビニとカフェのキッチンでバイトを掛け持ちしてるから完全な無職じゃない。 でも、自分でそう思うのが一番楽だ。


 疲れてる。毎日だ。

店の照明が眩しすぎて目がチカチカしたり、隣の大学生が騒いでてうるさかったり、そういう苛立ちはちゃんとある。 朝6時からコンビニでレジ打って、昼は少し休んで、夕方からはカフェでキッチンに立つ。休憩以外はずっと動いてるけど、心が死んでるわけじゃない。冷めたチキンカツ食べて「まあまあだな」って思う瞬間もある。それが生きてる証拠だ。


 他人と喋るのは最低限。

「おはようございます」「お疲れ様でした」「ご注文は?」「かしこまりました」「少々お待ちください」「ありがとうございました」。

これだけで2つのバイトのほとんどの会話が成り立つ。楽なもんだ。ホント、今置かれた環境に情けなくて反吐が出てくる。


 友達もいないわけじゃない。

大学時代のグループLINEは今でも時々動くし、「元気?」って聞いてくるやつもいる。「まあまあ」「生きてる」って返すけど、会う話にはならない。みんな忙しいし、自分だって忙しい。 そう言い訳してるだけかもしれない。実際、同窓会しようとかいう声もあがらない。


 その日も一人で黙々と食べてたら、一ノ瀬が向かいの席にドカッと座った。 営業で割と数字出してるらしくこいつも疲れた顔をしてる。


「よう、藤崎。またチキンカツかよ」

「……お前もいつもどおりの食えよ」

座った瞬間、座席のタブレットで勝手にハンバーグ定食を注文してやった。

「あ、テメェ何勝手に注文してんだよ!」

「どうせこれだろ?」

「これ目玉焼き付きじゃねえか!俺が卵嫌いなの知ってんだろ!」

「知ってるよ、わざとに決まってんだろ」とゲラゲラ笑う。


 ハンバーグは5分ほどですぐに来た。一ノ瀬は文句言いながら目玉焼きをこっちに寄越してモリモリ食う。この腐れ縁と再会したのは1月にまで遡る。






 お正月気分もすっかり抜けた1月10日。みんな嫌々ながらも本来いるべき社会に戻っていく時期。もっとも自分は年末年始関係なくクリスマスイブから今日までバイトに明け暮れていた。人は足りない、時給は上がる年末年始という稼ぎ時に稼がない理由がない。どうせ一人なんだ、休むのはその後でいい。

 というわけで、今日のシフトが終われば約二週間ぶりの休みだ。クリスマス前からシフトをガン詰めして一気に一月分の生活費を稼ぎ、逆に1月後半は全て休養に回し身体をしっかり休める、特に理由のない恒例行事。この後いつものファミレスで飯食って、とりあえず明日は丸一日寝ていようか。


 と思っていると想定外のことが起きるのが人生の常だ。仕事も終わり、明日からの長い休みに少し心躍る気分でファミレスに向かう。ファミレスの扉に手をかけようとした手の横から、別人の手が伸びる。


「あ、お先にどうぞ……………………藤崎?」

「……………?」


 最初、誰かわからなかった。そりゃあそうだ、何しろ大卒以来だ。就活失敗した後ろめたさから誰とも連絡を取らずに引っ越してそのまま約2年。こんなとこで知り合いに会うと誰が思う?


「え………一ノ瀬…か?」


ここで無視してたら一年後、面倒なことにならなかったのに、全く。







 こいつとは大学時代からずっと苗字呼びする仲だ。別に仲がいいわけじゃないけど、悪いわけでもない。いわゆる、腐れ縁ってやつだ。

 最初に会ったのは大学近くのスーパー。2年時にバイトしてたそのスーパーで、後で入ってきたのが一ノ瀬だ。自己紹介で大学と年齢が同じだとわかって、その日の仕事上がりに一ノ瀬が「藤崎、バイト終わりにそこのマック行かね?」って誘ってきたのが始まりだ。自分も普段からよく行ってたマックだから、特に断る理由はなかった。それがいつしかファミレスに代わり、スーパーのバイト辞めた後も卒業するまで、時々顔を合わせる腐れ縁になった。



 それが再開したのは、このファミレスに通っていることが一ノ瀬に知られた1月以降だ。この時は本当に偶然だったらしいが、2月14日のバレンタイン。またしても出くわした。


「お、藤崎!」

「…………げ」

「げ、てなんだよ、無愛想なやつだな」

「………一人でいたかったのに、て意味だよ。」

「ん?それチョコか?」

「バイト先の子とか女の常連客から『藤崎さ〜ん!』て言われながらもらった。」

「相変わらず女にモテるんだなぁ」

「……………いる?」

「いやいや、そんな気持ちこもったのもらえないだろ、いくらなんでも」

「……一ノ瀬ももらってんのか」

「あ、いやこれは得意先回りに使うやつ。老若男女、もらうと嬉しいもんだぜ、チョコレートは。で、これにメールとかLINEのアドレスつけとくと、高確率で登録してくれるんだわ」

「ふーん……なんの仕事してんだっけ?」

「外車の販売と営業。そこそこ契約取れてんだぜ、これで。まあ先輩の受け売りそのまんま

やってるだけだけど」

「ふーん」

「どーでもいい、て顔してんな」

「自分の仕事に関係ないからな」

「藤崎は………ま、立ち話もなんだから中で飯食いながら話そうぜ」

「なんでまたお前と……」

「昔のよしみだろ、いいじゃん。いろいろ腹割って近況とか話そうぜ」

「今日で最後だからな」

「オッケオッケ。お、こないだの角席空いてる、ここでいいか」


 1月の初再会は懐かしさもあって、飯食いながら近況を報告し合うだけの社交辞令のつもりだった。なので今回は断るつもりだったんだが、最近ここら辺に引っ越してきたらしい一ノ瀬は、自分の他に仕事以外の知り合いがいない。そしてベラベラ話す内容から察するに仕事上がりの時間がお互い被る日が多いことがわかった。何より、「新しい地での唯一の友人枠、てことで連絡先交換してくれ!頼む!」というこいつの切実な申し出を断りきれなかった。

 ………ホント、なんで登録したんだろう。自分の押しの弱さに嫌になる。………まあいいか。時折送ってくるLINEスタンプのセンスだけは気に入った。もらったチョコレートは……捨てずに1日一個消費して地道に片付けることにした。来年は店の客に配るのもいいかもしれない。と、一ノ瀬からもらったブラックサンダーを齧りながらそう思う。





 自分は、名前で呼ぶのも呼ばれるのも好きじゃない。

名前呼ばれるのって心に踏み込まれる感じがして落ち着かない。でも苗字なら距離が保てる。大学時代、最初に一ノ瀬に名前聞かれた時も「藤崎でいいだろ」って突っぱねた。それ以来ずっと「藤崎」って呼んでくれるから、まあ楽だ。 こっちも「一ノ瀬」でいい。

他人と自分を見分ける記号なんざ、顔と苗字だけで充分だろ?



 3月3日

「今日さ、顧客に理不尽にキレられてさ……」

「ふーん。……自分も今日バイトでミスってキッチンの隅で舌打ちしてた」

「世間はひな祭りらしいけど、社会人の野郎にはなんも関係ねー話だな」

「あれは完全に女の子の所帯持ちのイベントだろ。日本人のほとんどは関係ない。何かにかこつけて物を売る、そんなんばっかだ。」


 二人同時にため息が出る。


「外車とかどうころんでも関係ねーや。」

「コンビニではひな祭りケーキとか売るし、カフェでも店長が本日限定メニューで息巻いてたし… 作るの面倒なんだよ、ひな祭りクレープ!注文が集中したら、ってこと考えろ!」

「はー……藤崎って何気にてすげーよな、普通に尊敬する。俺絶対無理だわそーゆーの。」

「お前だって契約ひとつ取れたら利益何百万だろ。その上アフターケアとかそんな責任重大なの到底無理。ふつーにそんけーする。」

「棒読みじゃねーか。…………ま、俺らさ、生きてるだけで十分偉いよな」

「そうそう、えらいえらい。」


 そんな感じでバレンタイン邂逅から数えて半月でもう5回。今では一日の終わりにこうして時々ファミレスで待ち合わせして、閉店近くまでお互い愚痴言い合うのがすっかり習慣になった。一ノ瀬はこう見えてトップ営業マンらしく、話を引き出すのすげえ上手い。プラベでは人付き合いを避ける自分がこういう間柄になってんだからな。車売りつけられないよう気をつけないと。

 その後もいろいろお互いの身の上を愚痴り、「藤崎んとこのクレーマーやべえな」「一ノ瀬の上司無能じゃね?」とかたわいもない会話を返す。表向きは適当に合わせてやるけど、心の中で(こいつうぜえな)って思う時もある。

けどまあこのくらいの距離感がお互い、身の丈に合ってると思う。






 5月6日

 地獄のようなゴールデンウィークが終わった。4月半ばからバイトはカフェの方一本に絞ることにした。コンビニのために早起きするのは何気にきついからだ。だったら、朝はやめて昼前から夜までカフェでバイトにした方が効率よく稼ぐことができる。

 と思ったのが裏目に出た。休日の昼間ってあんなに混むのかよ。夕方のピークタイムより忙しくないかこれ。次々に来る客を捌き、昼にもいると知った常連客の相手もし、キッチンとホールとバックヤードを何度も往復する。ゴールデンウィークぶっ続けはさすがに疲れ果てた。

 一ノ瀬の奴はゴールデンウィーク中一回だけ来たらしい。コーヒーをテイクアウトしたみたいだがキッチンにおり、全く気づかなかった。そのことをLINEスタンプで愚痴ってきたが、知るか。次来たとしてもお客様対応は変わらない。

 

 さすがに疲れたので、店長に頼んで今日から数日、休みを入れさせてもらった。

 一瞬辞めることも考えたが、店長と自分以外店回せる人間がいない今、自分が抜けたらたぶん店長が潰れる。それは嫌だ。この店割と好きだし、労働は時給にしっかり反映してもらっているし、また一からバイト探しするのは少し気が滅入る。それに、就活失敗したダメな自分を快く受け入れてくれたここの店長には大きな恩がある。まだその恩を返しきれていない。なのに急な休みの申し出にも応じてくれて、また借りを作ってしまった。申し訳ない。

 まあしっかり休めば気力も体力も復活するだろう。いつもの疲れを取るためのルーチンに入る。

 風呂にぬるめのお湯を入れ、スマホはマナーモードに。軽く体を洗った後、湯船にじっくり浸かり目を閉じる。20分したら出て冷たい水を飲み、その後30分ほどの仮眠を取る。それを2セット繰り返した後食事を取る。いつもそれで疲れはばっちりとれる。今日は本当に疲れた……



「面接番号85番の方、面接室へどうぞ」

「面接番号85番、藤崎です!よろしくお願いします!」

「名前!」

「…………!えっと、その……」

「名前ないの?じゃあいいよ、はいお疲れ様。」



「面接番号133番、名前と自己アピールを。」

「藤崎……と申します。名前は個人的な理由で言うの避けてまして…」

「君ね、それうちに何か関係ある?」



「藤崎です、名前は履歴書の方に…」

「………名前も名乗れない人間を雇うつもりないんだよねえ。」



「名前言えない?それ、ここでアピールする必要あるかな?」



 そこでパッと目が覚める。風呂で寝落ち。嫌なことを思い出してしまった。スマホの時計を見る。10分も経ってない。この汗は発汗による汗なのか就活のトラウマを思い出したことによる汗なのか。嫌な気分のまま身体を拭き、水を飲んだ後仮眠を取る。いつもならすぐに眠れるのになかなか寝付けずルーチンが崩れた、最悪だ。


 ……そういやゴールデンウィーク前からしばらくファミレス行ってないな……まあいいか。そういう時もある。今頃一ノ瀬の奴は、一人寂しくハンバーグ食っていたりするのだろうか。そういやLINEも返してないな。スタンプも返さないことに戸惑っているかもしれない姿想像したらなんか笑えてきて、2セット目はトラウマを見ることもなくすぐ眠ることができた。


 「サンキュー、一ノ瀬。」感謝のスタンプを送ってやったら「え?何のこと?」と返ってきた。そりゃそうだよな、わけわかんねーよな。わかったら逆に怖くて着拒だわ。カップ麺をすすりながらほくそ笑む。





 6月10日。

 バイト帰りにひっどい通り雨に遭った。カフェで借りればいいと傘を用意しなかったのは迂闊だったな。他のスタッフに全部借りられてしまっていた。おかげで後ちょっとでファミレスだったのに全身びしょ濡れだ。ファミレスで飯食うついでに服を乾かすことにする。

いつもの席に先にいた一ノ瀬がジロジロ見てきた。


「なんだよ、ずぶ濡れの鼠がそんなに珍しいか?」

「いや、なんだその……俺のタオル使うか?」

「持ってるのは助かるけど。というかよくカバンの中に入るな、そんなの。」

「まあ梅雨だからな。備えて損しないし、暑けりゃそれで普通に汗吹くし。」

「これ、もしかして………?」

「…………軽く顔拭いただけだから」

「返す。いい、使わない」

「いいから拭けって。他に拭くの持ってないんだろ、風邪引くぞ」


 仕事着のYシャツから生乾きの嫌な匂いがする。屈辱だがここは奴のタオルを借りて、次返すことにしよう。この頃には雨は上がっていた。まるでファミレスに入るのを待ってたかのように。なんか癪に触るし、長居して風邪も引きたくないのでタオルを返す約束だけしてさっさと帰ることにした。


「とりあえず今日は帰るわ。じゃあな。」

「おい、飯食ってかないのかよ!」

一ノ瀬が引き止めかけたが、それよりも早く風呂に入りたい。

「風邪引きたくないからな。また連絡するよ。タオル、サンキューな。今度洗って返す。」


 飯は………家にある菓子とかでテキトーに済ませよう。一人残された一ノ瀬はなんか寂しそうに注文用タブレットいじってた。






 7月1日。

 タオルを返しそびれてしばらく経った7月。突然、一ノ瀬が「スタバ、夏の新作フラペチーノ!」のLINE広告を送ってきた。「夏限定らしいけど、オッサン一人だと列に並びづらい、でも二人なら恥も分散できるだろ」「それにタオル返してもらってねえ」ってしつこく誘ってくる。同じオッサンに数えんなよ、と思ったがタオルのこと忘れてた借りもある。まあいいかと休日にいつものファミレス前で待ち合わせ。

 7月7日、待ち合わせ当日。

一ノ瀬は外国人が見たら殴りかかってきそうなやばい英語だらけのダサいパーカー着てきた。 自分はいつものバイトの白いYシャツ。昨日カフェのバイトが延びて洗濯できなかったから仕方ねえ。その前の日に着たあまり汚れてないYシャツ探して、ホコリ払って襟元ちょっと開けて、袖捲って誤魔化したけど、鏡見たらカフェの女性常連客に受けそうな、意外と悪くない格好だ。


「藤崎ぃ、その服昨日着てたやつだろ」と一ノ瀬がニヤニヤ。

「一ノ瀬のダッセェパーカーよりマシだろ」と鼻で笑う。


 ファミレスからスタバに電車に乗って移動し、車内でタオルを返す。スタバでハリーポッターに出てきそうな長ったらしい呪文みたいな注文を詠唱する。一ノ瀬の奴はそれにさらにホイップを足してやがった。………疲れてんだなぁ。脳に響く甘さを体験した後、そのまま駅前のデカいゲーセンに寄って格ゲーにコインを突っ込む。UFOキャッチャーで欲しくもないぬいぐるみ狙ってゲラゲラ笑いながら散財した。

 ゲーセンは一人だと単なる時間潰しって感じだけど、相手がいると同じことしても結構楽しい。それに妙に静かになる瞬間もあって、接客で疲れてる身としてはそれが結構気が紛れて楽になれる。

 そうやってその日は散々無駄遣いして、帰りに31のアイス食いながら駄弁った。自分が選ぶのはいつもサーティワンラブ一択。最近なかなか見かけなくなってしまった。


「それに入ってる黄色いマシュマロって珍しいよな、一個くれよ。」

一ノ瀬が言う。

「誰がやるか、ばーか。」軽く罵る。


 一ノ瀬は定番のロッキーロードを食べながら、「次はボーリングな」とか言いだした。「だが断る。腕が痛くなるからな」と切って捨てる。力無いの知ってんだろ。まあ内心、悪くないとは思ったけど。

 次の日、一人でボーリングの練習しに行ったらやっぱり腕が痛くなってバイトに支障が出た。一ノ瀬のせいだ。「ボーリングは絶対行かないからな!」と、怒りと悲しみのLINEを送る。


 8月9日の夕方。

 カフェのバイト中に一ノ瀬がニヤニヤしながら襲来してきた。クソ暑い中、キッチンを一人で回してて汗だくだったのにカウンター越しに「藤崎、いるかー!」とか大声で叫びやがる。こないだのリベンジのつもりか。

 無視するつもりだったけど、他のバイトに頼まれて仕方なく接客に出た。既に迷惑客扱いだ。出たら出たで、アイスコーヒーしか注文しねえ。お前、ゴールデンウィークの時、なんで出向いて対応されなかったのか懲りてないのかよ。お盆前で早めに仕事があがったサラリーマンで混雑する時間帯にわざわざ呼び出すとか冗談じゃねえ。

 かなり強めの声で「他に、ご注文は!?」て聞いたら少しビビってやがった。追加でポテト注文したけど、「かしこまりました!」とこれまた強めに返して、あとは店を回すのに必死でイライラ爆発寸前。 他のバイトも空気を察して話しかけてこない。なのにキッチンに戻る背中に向かって、「藤崎、頑張れよー!応援してるからなー!」と絡んできて、マ・ジ・で・うぜえの一言。

 スタッフもヒソヒソ話しながらこっちを見る。女性客も大勢いる前だから我慢したけど、心の中で「死ねばいいのに」って100回くらい呟いた。

こいつが外車ディーラーの営業?

冗談だろ? こんなTPO弁えてない奴が?

お客様あ〜、こいつに騙されてませんかー?

なんで自分が絡む時だけこんなポンコツ性能フルマックスで発揮するんだよ。それから一カ月、一ノ瀬からのLINEは全部無視してた。「返事くれよー」「悪かったよー」って何度も来てるけどムカつきは全然収まらないし、あの日の得意げな顔が頭から離れねえ。







 9月13日

 一ノ瀬からのLINE爆撃がこなくなって少し経った頃。この日のバイト終わりに突然、一ノ瀬から「コンビニ寄って弁当買わねえ?」ってLINEが来た。もうこいつはどうでもいい他人で、カフェの件で縁切りしたつもりだったけど着拒するのを忘れてた。 既読がついてしまった以上、最後の社交辞令として「行く」とだけ返してよく寄るコンビニで待ち合わせ。

 なのに5分遅刻してきやがった。呆れて言葉も出てこねえ。青色の熊がなんか叫んでるダッセェパーカーなんか着やがって、わざわざそんなのに着替える神経がわからん。こっちはバイト帰りで汗臭いYシャツのままなんだぞ。

 あいつは何か言いたそうだったが、一瞬チラ見しただけで無視してやった。遅刻してきたことも含め、許すつもりはない。どうせ今日でこいつの顔見るのも最後なんだ。2人並んだまま弁当コーナーに行き、無言で唐揚げ弁当を掴む。その時、いきなり一ノ瀬が深々と頭を下げた。


「おい、ここ店内だぞ」

「ごめん!カフェの時やりすぎた!あの時は軽く揶揄うつもりだっただけなんだ」

「……さっきの遅刻といい、こっちはもうお前との縁も今日で終わりだな、と思ってたんだが」

「……」一ノ瀬の目から、本気で申し訳なさそうにしてるのが伝わる。

「……………………はぁ……」ため息をひとつつく。

一ノ瀬はまだ頭下げたままだ。

「……けどまあ、ここで奢ってくれるなら許さんでもない。」


 その瞬間、一ノ瀬の目が光って手にしてた弁当かっさらってレジに飛んで行った。まだ許すなんて言ってねえけど、その様が少し笑えて妙にほっとしたので少しだけ許すことにした。


「待てよ、プリンとコーヒーも!」

「はいぃ!喜んで!!」


 いつ居酒屋でバイトしたんだお前。ほれみろ、他の客にもクスクス笑われてんじゃねえか。


 その後、夜の公園のベンチであっためた弁当食いながら、一ノ瀬が、

「客先のために残業続きでさ」「やっとカタがついて家で着替えて、ちょっと目を閉じたら時間過ぎてた、ホントすまん」「こないだの藤崎の件もあって、ちょっと死にたくなりそうだった」とか目頭押さえながら愚痴り始めた。

 演技でなく本気で参ってそうだったので、「まあ忙しくても休憩はちゃんと取れよ」「15分でいいから仮眠しろ」とか言いつつ、今日は聞き役に徹してやることにした。

 顧客から23時に呼び出しくらった事。家に着いた直後でシャワー浴びてたので電話に気づかず対応が遅れキレられた事。後日上司に呼び出され対応の不手際を詰められた事。そのせいで成立寸前だった商談を危うく横取りされそうになった事、等々。

 しばらく一方的に愚痴らせたらようやく落ち着いたみたいで、お茶飲んで一息ついた後、

「で、藤崎、毎日こんな飯でよく生きていけるな」

とかいつもの軽口が帰ってきた。

「一ノ瀬だって似たようなもんだろ、このハンバーグ野郎」

とこっちも笑って返す。

 結局、元通りいつもの関係に戻ったが、遅刻の件は「次はないと思え」としっかり釘刺しといた。やれやれだ、全く。ほっと溜息が出た。




 10月20日。

 カフェからいつものファミレスに向かう途中、急に腹が痛くなった。 昨日悪いの食ったか、いやそれとも今日か、といろいろ思案しながら路上でうずくまる。

「え、何?」「大丈夫、あの人?」心配してそうな声は聞こえるが誰も助けようとしてくれない。 …………所詮は他人、付き添いとか気にかけろとかそんなの最初から期待してねえ。冷や汗がにじむ。どうなるんだこれ、時間が経てば大丈夫な気はするがどうする、救急車呼ぶか?って思ってた時に「大丈夫か!」の声が聞こえた。一ノ瀬だ。


「……一ノ瀬…なんで…?」

「営業終わって俺もファミレス向かう途中だったんだよ。腹痛なら良い薬持ってるぜ?救急車ももう呼んだから安心しろ。」

営業カバンから胃薬出して渡してくる。

「なんでこんな都合よく薬持ってんだよ……」

「胃が弱いんだよ、俺。一流営業マンだからかな。」

「ハンバーグばっか食ってるからだ、馬鹿め……」

 

 薬飲んだら本当に少し楽になった。手を握り、腹をさすってくれてたのも嬉しかった。気が楽になったからか、


「これが本当の友情パワー……なんてな…」

「冗談言わなくていいから、おとなしくしてろ!」


 少ししたら救急車が到着。歩くことはできたので担架には載せられずそのまま乗車して病院へ。

 薬といい救急車といい、この時の一ノ瀬の機転には本当に助けられた。検査の結果、一時的な軽い胃炎みたいなもので入院するには至らないとのことだったが、救急車が来るまでのあいつの"手"のおかげでだいぶ楽になったのは、あいつには黙っておこう。調子に乗りそうだ。今度ファミレスで会った時に奢ってやって貸し借りなしだ、うん。




「……友情…………か…………」

救急車を見送りながら、一ノ瀬は呟いていた。





 11月3日

 この日は祝日ということもあり一ノ瀬の仕事がオフなのでバイトを休みにした。先日の礼をするためだ。


「何か奢ってやるぞ、何がいい?」

「別になあ、そんな礼されるほどのことは……じゃあラーメン。駅前にできたろ、新しいの。」

「あれか。と言うかそんなんでいいの?」

「いい、いい。じゃあ12時にそこな。」


 二人ともチャーシューメンを頼んだ。味はまあ、普通。普通にうまいが大きな特徴もない。


「パンチが足りないな………て、わーーーー!」

「……ブッ………あははははははは!!はははははは!」


 一ノ瀬のやつ、胡椒をかけようとしたら蓋が緩かったのか中身全部こぼしてやんの。珍しく大笑いしてしまった。


「いやー、いいもの見せてもらったわ 」

「笑うなよ、パーカー汚れちまった」

「味とか記憶から飛んだわ、何食ったんだっけ?」

「チャーシューメンだろ、まあたしかに普通すぎたけどな」

「でももうあそこ行けないな、絶対顔覚えられた」

「いや、行くよ?店に悪いことしたし、味は悪くなかったし」

「メンタル鋼かよ…まあだからこそ、トップ営業マンなんだろな」

「この後どうする?」

「そりゃゲーセンだろ。今日こそ格ゲーで一ノ瀬をボコす」

「おーやってみろやってみろ、ならハンデなしな」


17時ごろ、いつものファミレスに行き、いつもの2C席に座る。


「…………いや強すぎだろ、マジで……」

「藤崎も強くなってんじゃん、なかなか」

「その後方腕組み目線、腹立つな」

「この高みまで来ることができるかな?藤崎君。」

「ムカつく………ハンバーグ野郎のくせに……」

「でもエアーホッケーはさすがだな藤崎。手がでねえわ。」

「そこは一人エアーホッケー部の本領発揮かな」

「………言ってて虚しくならないか?」

「ま、さっさと食って帰ろう、さすがに疲れた」

今日一日のくだらないことをいつもの場所いつもの席で駄弁る。

部屋に帰っても、一ノ瀬から「明日会う顧客、マジうぜえから憂鬱」なんてLINEと面白スタンプが来て、ふと笑ってる自分がいる。


 こうして、この腐れ縁と会う日は不本意ながら増えていった。と同時に、毎日疲れるのは変わらないけど、我慢できる時間は日に日に増えていった。





 12月23日 21時。いつものファミレス。テーブルNo.2C。

 一ノ瀬はいつものようにハンバーグ、自分はチキンカツ。一ノ瀬が食いながら、目を伏せてぼそっと言う。

「今日って、クリスマスイブイブっていうらしいぜ。」

「なんだそりゃ。じゃあ昨日はイブイブイブになるのかよ」

「言われてみりゃ、周りカップルだらけだな」

「てことはこいつらみんな、明日は仲良くお泊りパターンか、まったく」

そう言って憎しみと少しの羨望の目を持って周りを見る。


「…………なあ。俺らさ、もうすぐ30じゃん」

「……だな。」

「こうして駄弁っていられるの、いつまでぐらいだろな」

「……さあ。」 あんま考えたくない話題だ。

「俺さ、いつものこの時間、結構救いになってるんだけど。」

「……まあ、こっちも愚痴聞いてもらえるお前がいて割と助かってる」

ちょっと間を置いた後、一ノ瀬は少し笑って、

「そっか。うん、そうだよな……。」とだけ返してきた。


 そっから一ノ瀬が黙り込んで、ドリンクバーを何度も往復し始めた。コーラ、ウーロン茶、アイスコーヒーと順番に持ってくる。で、口もつけない。持ってきたなら飲めよ。ハンバーグも放置しやがって、もったいない。それにいつもなら隙あらば喋るのに、何か考え込んでるみたいだ。

 こっちはチキンカツ食い終わって、空いた皿を眺めてた。仕事でとうとうメンタルやられたか?と心配しかけたけど、あえて何も聞かなかった。助けほしいならあっちから言うだろ。そういう関係だ。


 一ノ瀬が4回目のドリンクバー行って普段絶対飲まないであろう、いちごオレ持ってきたとこでふと、テーブルの横に書かれてるNo.2Cをじっと見つめた。


「なあ藤崎。初めてお前とここで飯食ったのってさ、いつだっけ?」

そう言ってテーブルの向かいに座る。

「知らんよ、なんだよ急に」

と嫌悪感示して返すけど、アイツは何か考え込むみたいに目を細める。

「そうだよな、だいぶ昔だ。大学にいた頃だもんな」

「今年の1月にここ入る時に偶然再開して、2月にまた会って連絡先交換して、3月あたりからここで自然と待ち合わせて飯食って愚痴るようになって、4月に『またチキンカツかよ』って言ったらお前が勝手に目玉焼きハンバーグ注文して………お前とここで飯食う時は決まってこのテーブルだった。待ち合わせする時もだいたいここだった。」

「何だお前、よく覚えてんな。少し気持ち悪ィぞ」

と笑って誤魔化したけど、一ノ瀬は真顔でこっちを見てた。


 その目を避けるように冷めた味噌汁すすって、スマホでシフト確認しながらイヤホンでしばらくメタルバンド聴いてた。ふと時計見たら閉店30分前。いつもなら「そろそろ帰るか」ってなる時間なのに、一ノ瀬はドリンク手にしたまま、飲まずに黙ってじっとこっちみてる。なんだこの空気。 睨まれるようなことなんかしたか?

 しばらくすると店内に蛍の光が流れてるのがイヤホン越しでも聞こえてきた。ナイスタイミング。この微妙な、若干気持ち悪さも感じる雰囲気に居た堪れなくなり、一人でそそくさと帰り支度始めたら、一ノ瀬が何か意を決したかのように突然隣に来た。


「……!おいなんだよ、狭いだろ」

「……あのさ!実は俺、運命って信じてるんだよ。」

「はあ?」

「マック以外で初めて一緒に飯食ったのもここ。何かと待ち合わせに使ったのもここ。そして今もここにいる。」

「ああ、それで?」

「お前さ、自分の名前で呼ばせてくれたこと一度もなかったじゃん?『苗字でいいだろ』って。……知ってはいるけど、改めてここで、名前教えてくんない?」

「なんでだよ、今更。お互い大学ん時に知ってるだろ、そんなもん。」

「いいからさ、な、教えてくれよ。お前の口から言ってもらいたいんだよ。お前と初めて会った5年前から聞きたかったことを、今ここで。」

続けて、

「もし教えてくれたら、お前も俺のこと名前で呼んでいいからさ」

「それでも教えてくれないなら、そういう運命なんだってことで諦めるよ。明日からもこのまま、藤崎と一ノ瀬なまんまでいい。」

と、一気に早口で捲し立て、乾いた笑顔を見せる。


 ……初めてじゃないか、こいつのこんな真顔。

 何なんだ、運命って。誰が何を諦めるって?今更名前なんか言わせてどうするつもりだ。あーめんどくせぇ。頭ん中踏み荒らすな。部屋に土足で入られるの嫌いだって知ってるはずだろ……知ってて聞いてんのか。

 お前疲れてんだろ?いつもみたいに愚痴りゃいいじゃねえか。上司が、顧客が、って。なのになんだそのキラキラした目は。イヤホンからは相変わらず音楽が流れてたけど全然耳に入らなかった。それより、自分の心臓の音の方が気になってきた。


 こいつの真っ直ぐ見つめる目を、右斜め上に目を逸らしながら、考える。

 卒業してから数年、特にこの一年はこいつとは浮き沈みの激しい関係だったと思う。自分がのらりくらりと日々立ち回っていた間、こいつは変わらずずっとこっちを見てたんだな。1月に再会してから、いやもしかしたら卒業以来、ずっと。お互い、四捨五入で30だもんな。どんな強いやつも心の支えになるもんなきゃやってらんねぇ。

 ついさっきも蛍の光に乗じてこの場を去ろうとしていた自分とは大違いだ。ここ一年のこいつの目と声は、自分が汗と疲れと、年齢からくる若干の焦りで薄汚れていたことを自覚させた。そんな汚れた自分の心の壁をこいつは無遠慮に壊していった。

 そして、壊れた壁の代わりに今まで感じたことのない温かいモヤモヤがやさぐれた心を満たそうとしていく。ここで救急車呼んだ時の、あの時の手のぬくもりを思い出す。その時からずっと感じてたあのモヤモヤと、今感じているモヤモヤの正体が合致することに今ようやく気が付く。

 ……そっか。わかった、認めるよ。お前の気持ちも、自分の気持ちも。

あーもうほんとめんどくさいったらありゃしない。

この間およそ11秒。



 「……はぁ……」ため息を深くつく。

 少し勇気を奮う。耳を真っ赤にしながらこいつの顔をきちんと真正面から見据える。わずかな動揺を見せる一ノ瀬の唇に指を当て、女性平均よりも控えめな胸を張りながら力強く名乗る。

「彩花。………これで満足?……拓也。」










---

### 登場人物紹介

- 藤崎ふじさき 彩花あやか

- 年齢: 25歳

- 身長・体重: 165cm、53kg

- 髪型: ショート。しかし髪の手入れは毎晩入念にする

- 職業: コンビニとカフェでバイトを掛け持ち。一人で店番やキッチンを回せるほど有能。4月後半からはカフェのバイトのみに絞る。

- 特徴: 就活では苗字呼びをアピールしたせいで全社落ちたトラウマから自己評価は低い。ボーイッシュで美人なため特に女性からの人気が高い。カフェでは藤崎目当ての女性常連客ができるほどだが、店を回すのに大忙しで自分が客寄せになってる自覚はない。仕事以外で会話する人間はほぼ一ノ瀬のみ。

- 生活: 料理好きだが自宅ではゴキブリが出るのを避けるために一切自炊せず、食事はもっぱら外食かコンビニ弁当で済ませる。凹凸の少ない幼児体型(一般的にはスレンダーという)が悩み。10月の一件以降、食生活を改め自炊するようになった。クリスマスイブ以降は女性らしいメリハリのある体型を目指し、風呂上がりに牛乳を飲み、胸周りを入念にマッサージするようになった。

- 性格: 孤立しやすい性格であり、それを苦にしてない感はあるが、愚痴る相手としての一ノ瀬の存在に実は頼り気味。普段のストレスを発散するがごとく叫ぶメタルバンドが好き。一ノ瀬のうなじの匂いを嗅ぐのも好き。クリスマスイブを一ノ瀬と過ごして以降は、意識的に男言葉を避け、彼に何かとくっついて回るようになった。





- 一ノいちのせ 拓也たくや

- 年齢: 25歳

- 身長・体重: 178cm、72kg

- 髪型: ロング、アフロ、モヒカン等気分で変える

- 職業: 藤崎の大学時代の同期で、外車ディーラーの一流営業マン。契約をバンバン取る

- 特徴: 「自分は言われたことしかできない」と感じており自己評価は低め。しかし一度学んだことは勉強でも運動でも確実にものにする。また、客先周りに余念がなく、休日や深夜の呼び出しにも普通に応じる。

- 生活: 筋トレしてるのに最近少し腹が出始めてきた。毎日ストレスはしっかりたまるので藤崎に愚痴れることに感謝してる。私服のセンスは壊滅的で、逆にそれを活かしたダサいパーカー集めが趣味。タンパク質を大量に摂取できるハンバーグが好き。そのくせ卵は苦手。胃薬を常備してることが発覚した10月以降も食生活は改めなかった。しかし藤崎にだらしない腹をペシペシ叩いて笑われたクリスマスイブ以降、筋トレの運動量を倍に増やした。

- 好み: 実は大学時代から藤崎以外の女性には目がいかなかった。スレンダーな女性が好みだったがあくまで藤崎がそうだからであり、厳密には好みのスタイルは真逆。もっとも、藤崎が藤崎であれば体型などどうであろうと好き。抱きしめるとゆっくり腰に回してくる藤崎の手も好き。藤崎とクリスマスイブを過ごして以降は、猫のように甘えてくるようになった彼女を見て、こんな娘だったんだ、と驚きと戸惑いの日々。






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XⅢ

アヤカ エピローグ 


「おい、彩花!」


 夜中にビクッとして目が覚める。汗だくだ。よりによってアイツの声だ。私にとって大きな心の傷となったアイツ。初彼の蒼馬だ。最悪だ、何で今更アイツの夢を…

「藤崎さんて、彩花って名前なんだ。かわいい名前だよね。」

 それが最初だった。自分の名前は気に入ってたし純粋に褒められたのが嬉しかった。大学入学してほどなくして告白されてできた、二つ上の人生初の彼氏。

 とても優しい男だった。荷物全部持ってくれたり長い髪を手入れするための美容院に付き合ってくれたり服の買い物付き合ってくれたり趣味でないゲームも一緒にしてくれたりどうでもいいことで笑いあったり。彼氏ってこういうものなんだ、話と価値観の合う人がいるとこうも楽しいんだ。目に映るもの、触れるもの、何もかもが新鮮に感じられる初めての経験だった。

 なので付き合って一カ月で、女性としてとても大切なものを捧げた。好きな人に捧げることができたことが嬉しかった。その後も求めてきた時はいつでもどんなことも応じた。きっとこれからずっと一緒にいるんだから、と一人で勝手に浮かれていた。

 でもその頃からだんだんと何かがおかしくなっていった。蒼馬はどことなく冷たくなり言葉も交わさなくなっていった。名前を呼ぶのは、求める時か飯作ってほしい時だけ。朝起きたらいなくて、大学でも見かけなく、会えるのは早くても夕方、だいたい夜遅く。それでも好きだったし、私に何か気付いていない原因があるんだと思ってた。それ直せばきっと前みたいに戻るよね、とか馬鹿なこと考えてた。そんな生活が夏休み頃まで続いた。

 

 そのままカラダだけの関係になったようなまま、時が過ぎて大学一年の10月。学内で蒼馬が他の女と一緒に歩いているのを見つけた。学内で会うのが本当に久しぶりだったから嬉しくて声かけようとしたが、隣の女に睨まれた。お姉さんとか親戚の人かと思ったが、肩に手を回してすごく楽しそうにしている。私と違って出てるとこ出てるしお化粧も綺麗。呆然と見ていると、蒼馬の方から声をかけてきた。

「なんだ、いたのか。」

「ちょうどいい、話しようと思ってたんだ、もう別れようぜ」

「お前さ、女としてつまんないんだよ。」

「せっかくの夏休みもバイトばっかして特になんもなかったし」

「話す事オタクっぽいし、カラダ子供っぽいし、そのくせ、今日の予定は?とかいつ帰る?とか束縛してくるし。」

「お前みたいな堅物も付き合えば変わるかと思ったけど、もういいや。」

「俺やっぱもう少し軽い、大人の女がいいわ。」

「荷物、どうでもいいのしかないから捨てといてくれよな。」

「じゃあな」


 あっけに取られるってこういうことを言うんだな。それが蒼馬との最後の会話になった。一言も何も言えなかった。呆然と、誰もいない部屋に戻って泣きながら髪を切って、それをアイツの置いてった歯ブラシとかお揃いの食器とか未使用のゴムとかと一緒にゴミ箱に投げ捨てて、布団に潜り込んで大泣きして、しばらく引き篭もった。蒼馬が大学中退したと知ったのはずっと後のことだ。

 もう誰にも心は開かない、名前も呼ばせない。苗字だけで充分だ。

そう誓って無理矢理立ち直ったのは、後期試験の迫る11月を迎えてからだった。



 「んが………どした?アヤカ?」

 隣で寝てたタクヤが起きて尋ねる。暗闇の中、その姿と声でほっと安心する。途端に浮かんできた涙を隠すように、彼の体に顔を埋める。もういないはずのアイツの声が頭の中で何度も響く。消えろ、消えろ、消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ消えろ、消えろ!


「………なんでもない。」

「………そっか。」


嘘だ。声を殺してずっと泣いてた。けど体が引きつって震えるのは隠せなかった。そこから泣き止むまでタクヤはずっと頭を撫でていてくれた。


「タクヤはさ、アイツみたいになるなよ?」

「………あいつって誰のことかわかんねえけど、わかった。」

「わかんないのに理解すんな、馬鹿……」

「そう!俺馬鹿だからさ。言うことはちゃんと言ってくれよ、察しろとか勘弁な?」

「………………じゃあ言う。このまま抱いてくれる?」


 不意打ちくらったようなタクヤの顔にキスをする。もう二度と思い出さないように気持ちを強く上書きする。今度こそ、この気持ちが本物でありますように。

 タクヤが、私の運命の人でありますように。

 私が、タクヤの運命の人でありますように。








 



XⅣ

タクヤ エピローグ


 隣でアヤカが寝息を立てている。何のことかは知らないけど相当嫌なことを思い出したんだろう。今日は随分と激しかった。なにしろこいつが泣いてたくらいだからな。……泣いてたと言えば昔の俺がちらつく。


 俺は昔からダメな奴だった。誰かに何か言われないと自分から行動することさえできない。人真似ばっか上手くなって、と親にもよく怒られていた。運動も勉強も自信なかったから、とにかく勉強して特訓してみんなに追いつくので必死だった。

 中学当時、好きな子がいて、その子が目指してるそこそこレベルの高い高校を俺も志望校にした。その子……紗奈は地頭が良くて、合格して当たり前とか言われてた。

 けど、受かったのは俺だけだった。油断したのか体調悪かったのかは知らない。とにかく、自分の合格枠を奪われたと思い込んだ紗奈には徹底的に嫌われ、誰も友達のいない高校にひとり、入学した。


 いや、この時は泣いたね。男泣き。好きな子には嫌われ、友達も一人もいない。何のためにこんな遠い高校行くんだって。でも一応、自分で決めた志望校だから辞退しますってわけにもいかない。

 入学してからは友達作るためにキャラ作ったな。髪型がアフロだった奴に対抗してモヒカンにしてみたり、学食で大食い勝負しかけてみたり、テストやマラソンで一位取る宣言してみたり。けど何しても半端に空振りして終わった。

 そりゃそうだ、動機が他人任せなんだもの。本気で一位取りたい、誰かの人真似ではなく自分のためだけになにかしたい、と思ったことがなかった。結局、親の言うとおり、俺は他人の真似事しかできないダメな奴だった。大学でも会社でも俺は他人に教えられたことしかできない、自分で考えて行動も決められない、馬鹿でダメな奴のまんまだった。優秀な人を真似してんだから数字ぐらい残さないと失礼だろ。

 そんな馬鹿でダメな俺を、アヤカは笑って受け入れてくれた。アヤカと出会い、気の合う友人から男女の仲になって、そして将来を誓い合おうとする仲になって初めて、誰に言われたわけでもなく自分から行動する。

 こいつは絶対一生大事にする。嫌われても構わない。それでも絶対幸せになってもらう。寝てるアヤカの薬指に、昨日買ってきた婚約指輪を嵌めながらそう心に誓う。

 頼むから寝ぼけながら外すなよ?初めて自分の意思で、お前にさえ頼らず決めた、一世一代の誓いなんだぜ?










*少しだけ後日談。 タクヤの部屋にて。


「なぁ、アヤカってさー」

「なにー?」タクヤの隣にぴったり座る。

タクヤはアヤカに貸したパーカーの下から細い腰に手を回す。

手の温かさに思わず「んっ」と声が出る。

「…アヤカってさ、俺と話す時の声と俺以外と話す時の声、1トーンは違うんだってな。」

「…………おい、その話、誰から聞いた?」

「怖い怖い、けどそう、その声だよ。昔ファミレスで愚痴りあってた時の声。」

腰に当ててた手をするすると下の方に回す。

「……っんで、誰だよ、それ言ったのっ……!」

「カフェの店員さん。こないだ寄ったらさ、『知ってます?旦那さんのこと話す時の店長の声、いつもと全然違ってすごく可愛いんですよ〜』って。語尾にハートマークついてるとも言ってた。」

「あいつら〜〜!」

「今聞いて確かにそうだと思ってさ。アヤカ、だいぶ可愛くなったもんな。

声ぐらい変わるわな。」

「声が変わるって、こういう意味じゃ………ぁっ!」

お尻を撫でてた手をさらに下腹部に回す。

「それが語尾ハートマークか。確かに声も可愛くなってる。」

「……っんとに、もう……っ、怒るぞ……っ!」

「気にすることないだろ。店任されたんだからしっかりしろ、店長さん。」

タクヤは左手でアヤカを目の前に抱き寄せ、背中から抱きしめる。

そのまま左手は胸に、下腹部を触る右手にも力が入る。

「…………タクヤもさっ、…声変わるよね?」

「え?」

「たとえば、こんなことされると!」

アヤカは振り返りざま、どん!と押してタクヤをソファに押し倒す。

そしてタクヤが履いているパンツを一気に脱がし、そのまま上に跨り、

自分のパンツの紐をゆっくりと解く。

「ちょま、俺今日出勤日……!」

「気にしない気にしない。愛する妻が、30迎える前に子供ほしいって言ってんだよ?

あと2回や3回……それに私にこんなに火をつけといて、それはないでしょ?」

「イヤー!ヤメテー!」

「ウェッヘッヘ、そのダッセェパーカーも脱いじゃえよ、タクヤあーー❤️」


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