嗚呼 美しき青春
「ハー」
なんともいえない息が漏れて出た。
高校生活の終わりが間近に迫り、卒業式のリハーサルが行われた日の放課後。雲一つなく晴れ渡った心地の良い天候のもと、俺は一人で、この三年間のほとんどを過ごしたと言っても過言じゃないグラウンドを感慨深く眺めていた。
「香川」
突然背後から自分の名前が呼ばれ、俺は振り返った。
声を聞いた瞬間、すぐに誰かわからなかったが、それもそのはず、視線を向けた先に立っていたのは須崎だった。
俺と須崎は同学年で、ともに野球部に所属し、守備位置も一緒の三塁。ゆえに練習中など近くにいる機会は多かった。にもかかわらず俺たちは三年間、ほとんど、いや、まったくと言っていいくらい、言葉を交わさなかったのである。
別に俺は須崎を嫌ってなどいなかった。俺は人見知りで、仲良くなっていない相手に自分から積極的に話しかけるタイプではなく、そうでなくても口数は多いほうではない。須崎も同様な感じで、俺よりもっと無口だ。それで、入部直後にしゃべるきっかけを逃すと、そのままの状態でけっこうな時間が過ぎた。
すると同学年の部員の一部の連中が俺たちに会話がないことに気づき、それをポジションを争うライバルだから仲が悪くて口を利かないんだと噂した。
俺は迷惑な気持ちもあったけれど、そういう場合きちんと否定しても素直に信じてもらえず、余計に面白がられてからかわれるのがオチだから、指摘されるたびに軽く受け流してきた。須崎は元々冷静沈着な奴だが、やはり落ち着いた表情で何も言い返さなかったし、同じように考えているんだろうと俺は判断していた。
ともかく、その噂のせいで、部員たちの眼は気になるわ、何をしゃべればいいのか考え過ぎてしまうわと、さらに俺たちは話しづらくなってしまった。クラスが一緒になればさすがに会話するようになっただろうけれども、毎年クラス替えがあったにもかかわらず、三年間すべて別の学級だった。
先輩がいる間は、俺たちはともに補欠だった。それが一番上の学年になって、俺たちを上回る実力の後輩はおらず、正真正銘ポジションを争うライバル関係になった。力量は、当事者だから正確にはわからないが、どっこいどっこいだった。どっちがレギュラーに選ばれても、誰も不思議に思わなかっただろう。
そして新メンバーでの初めての公式戦前にスタメンが発表される際、名前を呼ばれたのは俺のほうだった。
それ以降も、ずっと俺はレギュラーであり続けた。須崎は悔しかったに違いない。だが、俺にはやましいことなど何もない。精一杯やって、正々堂々競争した結果だし、須崎も納得していると思っていた。
ところがあるとき、須崎が俺の悪口を言っているという話を耳にした。たいしてうまくもないのに、なんであいつがレギュラーなんだと口にしていたということだ。ちょうど試合で思うようなプレーができていなかった俺はカチンときて、部室でその話を俺に伝えた奴らに、思わず須崎の悪口を言い返した。
その後すぐに、やめときゃよかったと後悔した。やっぱり俺たちは仲がよろしくないんだという印象を他の部員たちに与えてしまっただろう。何度も言うが、そうではないのだ。だいたい須崎が俺をけなしたというのはでたらめだったかもしれない。俺たちの関係を面白がっている誰かがそれくらいの嘘をつく可能性は十分にある。本当に言ったとしても、たいしたことないものを、聞いた奴が誇張したのも考えられるし、ポジションを勝ち取れなかった悔しさからつい口にしてしまって、あいつも悔やんでいたかもしれない。最悪なのは、須崎の悪口はやっぱりデマで、俺が悪く言ったのがあいつの耳に入ってしまっているケースだ。レギュラーをつかんだ、恵まれた立場にある俺が悪口を言うということは、以前からずっと快く思っていなかったんだろうとあいつは解釈するに違いない。だからといって、あいつの性格から考えて、俺にケンカを吹っかけてくるとかは考えにくく、大きな不利益をこうむることにはおそらくならないけれど、悪く思っていない人間からそんなふうに誤解されるのは気持ちの良いことではない。きっと須崎は俺を嫌う結果に至るであろうし。
それでも、確かめようにも、俺が悪口を言ったのは事実だし、そうでなくても話しづらい関係なわけで、結局真相はわからずじまいで、今日まできてしまったのだった。
「三年間、お互いに頑張ったよな」
ろくに話したことがなかったために顔を向かい合わせる機会も限られていた須崎が、俺にまっすぐ視線を注いでそう言った。
「ああ」
やけに明るい雰囲気もこれまで見せることはなかったもので、違和感を抱きつつ、俺は返事をした。
「この先も野球、続けるのか?」
須崎が問いかけた。
「どうかな。難しいかもな。お前は?」
「俺は高校で終わりだ、確実に。家がそんなに裕福なほうじゃないんでな。入部したときから決めていたことだ」
「そうか……」
だったらなおのこと、レギュラーになれず、ほとんど試合に出れなくて、残念だったろう。その点に関しては俺が悪いわけではないものの、申し訳ないといった気持ちがわき上がってきた。
それにしても、どうして今になって話しかけてきたのだろうか。
すると、そんな俺の心を見透かしたのか、須崎は語った。
「卒業式はもうちょっと先だけど、お前の姿を見かけて、今日話さないとこれまでの状態のままで終わってしまいそうだと思ったから声をかけたんだ。悪かったな、今までろくに口を利かないで。別に嫌っていたわけじゃないんだよ。俺、しゃべるの得意じゃないし、タイミングを逃しちゃったのもあってさ」
「そうか。俺もなんだ。こっちこそ悪かったよ」
「よかった。こんなことならもっと早く話すんだったな」
想像していた通りだったし、こんな別れ間際とはいえ、気持ちを通い合えて俺は嬉しかった。
しかし、引っかかっていることがまだ一つある。例の悪口の件だ。どうしようか。せっかくのチャンスだし、ついでに訊いてみるか。それとも敢えて触れずに、気分よくさよならするか。
少し迷ったが、向こうは勇気を出して話しかけてくれたんだから今度は俺がと、その件について切りだすことにした。
「あのさ、以前にお前が俺の悪口を言ったって噂を聞いたんだけど、それって……」
「俺は悪口なんてまったく言ってないぞ」
心外といった調子で、須崎はすぐさまはっきりと答えた。
「そうか。デマだったのか」
この堂々とした態度からして、須崎の返事は本当で間違いないだろう。おそらく、わずかな批判的な言葉も口にしていない。
それなのに俺は。確かめもしないうえ、逆に悪く言って。
「実は俺、それを耳にしてついカッとなって、お前の悪口を言っちゃったんだ」
「知ってたよ。っていうか、俺、そのとき部室に入ろうとしていたところで、直に聞いたんだ」
「え? そうだったのか」
くー、最悪だ。きっと腹が立っただろうな。反対の立場だったら許せないもんな。どう償おうか……。
「そうだ、最後にキャッチボールをしようぜ。投げるから受け取ってくれ」
須崎は笑顔でそう口にし、ポケットに入れていた右手を上げて、ボールをよこす仕草をした。
悪口の話のカタがついてないのに、いいのか? それに。
「今、グローブを持ってないけど?」
俺たちはともにカバンを背負った制服姿だ。
「大丈夫だ。硬球じゃないから」
「そうか、わかった」
俺たちはずっと、少し離れた位置で話していた。それでもう少しだけ距離をとり、お互いに荷物は脇に置いて、俺はボールを受けるポーズをして見せた。
「いくぞ」
須崎は振りかぶった。
こいつはいい奴だ。俺が悪くいったことを気にしていないか、していたけれど許してやるって言ってくれてるんだろう。最後のキャッチボールなんてドラマみたいで照れくさいけど、悪い気はしない。これぞ青春って感じだな。
「おりゃ」
須崎は思いのほか目一杯投げた。もちろん速くても野球部だった俺に取れないことはないが、なんだかボールにおかしな変化がかかってもいた。
それでも高さは目線の位置でちょうどよく、顔の前でしっかりと左手で受けとめた、はずだったのだが、なんとボールがつぶれて、その中身が、スピードがあったぶんだけ派手に、顔面や服に飛び散った。
「な……」
目の前には黄色が広がっている。
俺は一瞬訳がわからなかったけれど、すぐに理解した。それはボールではなく生卵だったのだ。
須崎を見ると、すっきりしたという様子で微笑んでいた。
……やっぱり、悪口の件、ムカついてたのねー。