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ストーカー  作者: 菜尾
3/3

第3話 誰

 俺は四十代の会社員だ。毎日、家と会社の往復で終わってしまうが、それでもその日々に満足している。今でこそ何とか一人食べていける程度の生活を成り立たせているが――。


 俺は酷い男だった。とにかく粋がりで、大した能力も甲斐性もないくせに自分を大きく見せることばかりに必死で、自分が尊大な何かなのだと勘違いしていた。


 『男たるもの』、なんていう言葉も大好きで、その心理から俺は二十二でその時付き合っていた彼女と結婚した。今で言うところの『授かり婚』だ。


『男はさ、やっぱ守るモンがないとダメなわけよ』


『守るモン持って、一人前になれんだよ』


 連れや後輩を前に、偉そうに説教を垂れたこともある。俺の粋がりなところを崇拝する後輩には尊敬の眼で見られたが、実態は酷いものだった。


 生活は楽ではなかった。俺は懸命に働いたが、当時の稼ぎなど知れたものだった。あまりの生活苦に、身重の妻が働くと言ったが、『俺に恥をかかせる気か』と一喝し、働かせなかった。そうすることでしかプライドを保てなかったんだ。今思えば『貧乏に耐えさせる方が格好悪い』と、恥ずかしくなる記憶だが。


 子供が生まれてから、生活苦はより顕著(けんちょ)なものとなった。働いても、働いても、金は消えていく。足に重りを付けられ沈められ、水面にギリギリ顔を出せているような生活だった。


 必死に働いた。本業にアルバイトを加えて働きアリの様な毎日だったが、それでも俺の心は穏やかだった。


 俺の力の源は、生まれたばかりの娘だった。娘が可愛かった。娘のあどけない顔が少し綻ぶだけで俺の心身からは力が溢れ、働く意欲が芽吹いたものだ。娘の存在が、俺の働きアリの様な生活に光を灯してくれていた。


 俺はもっと立派な父親になってやろうと思った。これから娘はどんどん大きくなる。娘に貧しい思いはさせたくない。惨めな思いはさせたくない。


 こんなままでいてはいけない。何か大きなことをやって、金と力を手に入れないと。


 その野心が、裏目に出た。同僚に持ちかけられた投資話に乗ってしまったのが運の尽き。知識もないのに、ただ『儲かる』の一言で乗ってしまったのだ。本当に馬鹿だった。




 俺は借金を作ってしまった。少々性質の悪い金融会社からも金を借りていた。このままでは、妻と娘にも被害が及ぶだろう。


 その時の俺が妻と娘を守るためにできる唯一のこと。俺は身を切る思いで妻子と別れ、身を隠した。




 あれから二十年近くの月日が流れ、俺は何とか借金を返し終えた。


 妻はどうしているだろうか。娘は、どうしているだろうか。もう会えないと分かっていても、思わずにはいられない。




 俺は休みの日に、コーヒーを飲みに出かける。カジュアルな内装でありながら、どこか気をピッと引き締めてくれる、居心地の良いカフェで憩うのだ。


 借金を返し終えた俺の生活に、少しばかりの余裕が生まれた。本当に、僅かな余裕だ。カフェでコーヒーを飲む程度の余裕だが、今まで缶コーヒーですら買うのを躊躇っていた俺にとっては、勿体なさすら感じる贅沢だ。


 窓際の席でコーヒーを飲む。本当に、いい香りだ。蒸気が鼻腔に触れ、透明感を放って疲れやストレスを拭い去ってくれる。




 店長が女の子を一人連れ、バックルームから出てきた。今日から働く子らしい。そうか、四月だからな。新人スタッフの登場に頷き、最後の一口をすすった。


 新人スタッフに視線を流す。娘も、ちょうどあれくらいの年だ。大きくなったんだろうな。新人スタッフに娘の姿を重ねてしまった。


 新人スタッフが、コーヒーポットを持って俺に近づいてきた。


「コ、コーヒーのおかわりは、いかがですか」


 全身ガチガチじゃないか。どもってしまって。初めての仕事なのだろうから仕方ない。光栄だ。


「お願いします」


 新人スタッフの緊張とともに、焦げ茶色の液体がコーヒーカップに飛び込んでいった。上手だぞ。思わず、父の視線で内心賛辞を送った。


「ごゆっくり、どうぞ」


 新人スタッフがおじぎをして、去る。彼女のうなじが目に映り、俺は驚いた。


 頸椎に沿って縦に並ぶ二つのほくろ。娘と同じだ。そんな珍しい場所にあるほくろが一致するなんてこと、あるだろうか。


 もしかして、あの子は――。いや、それはないと自分に言い聞かせ、俺はコーヒーを口に運んだ。




 俺がカフェに行く時間帯、彼女はいつも出勤していた。


「さっちん、よく働くよね」


「うち、母子家庭だから。大学に行かせてもらえただけでもありがたいんで、せめて生活費は自分で稼ぎたいんです」


「偉い! じゃ、これあげる。今から休憩入っていいから食べて」


 店長が『さっちん』にサンドイッチを渡す。


「いいんですか? ありがとうございます」


 『さっちん』ははにかみながら、それを持ってバックルームに消えた。


 母子家庭、なのか。そうか、母子家庭、なのか。


 一度は抑えた疑惑が、また姿を現しはじめた。もしかしたら、『さっちん』は俺の娘なのか?




 仕事が途切れると、彼女はよく店長と話をした。その話を時折小耳に挟みながら、俺はコーヒーを楽しんだ。


 彼女のことが分かるにつれ、ますます疑惑は確信へと変わっていった。彼女はきっと、俺の娘なのだろう。時折彼女から零れる母親の話題。母親の詳細がかつての妻と重なることに、確信はより色濃くなっていった。


 いつの間にか、俺は彼女を自分の娘だと信じて疑わなくなっていた。




 話をしてみたくなった。だが常連ぶって若い女性スタッフに馴れ馴れしく声をかけるなんて無粋だ。


「あの、コーヒーのおかわりを」


「今、何時ですか?」


「今日のおすすめは?」


 店を訪れては彼女を呼び止め、用事らしい用事で彼女を繋いだ。時折娘は困った顔をしたが、こんな方法でしか接点が持てなかったのだから仕方がない。父だ、なんて名乗り出るなど以ての外だったのだから。




 その会話とも言えないやり取りを続けたせいで、気が緩んでしまったのだろう。親しくなったと、勘違いしてしまったのだ。


「どこの大学に通っているのかな?」


 一瞬にして、娘の顔が強張った。しまった。こんな会話、完全にプライベートに関する内容じゃないか。すぐに何か取り繕おうとしたが、声が出なかった。


「そんないい所じゃないんで、恥ずかしいです」


 娘は苦笑を浮かべ、すぐに俺のテーブルから離れた。


 返答を拒否されたが、顔を強張らせながらもその態度は柔らかなものだった。きっと気持ち悪かっただろうに、こんな無礼を働く客にも優しい態度が取れるんだな。優しい子に育ったんだなと、鼻の奥に湿り気を覚えた。




 娘は夜遅くまで外に出ていることがあるようだ。主にサークル活動のようだが、大丈夫だろうか。一人、夜道を歩かせるのは心配だ。


 俺は娘を護衛することにした。待ち伏せなどしたら怖がるに決まっているだろうし、俺も気持ち悪がられたくない。俺はそっと娘の後をつけることで、娘を守ることにしたのだ。せめて送ってくれるような、……恋人のような人がいればいいのだが。


 いや、それはもう少し後でも構わないか。娘を見守る時間をもう少し楽しみたいから。




 駅で娘が出てくるのを待ち、そっと後をつける。ワンルームマンションに入っていくのを見届け、俺は安心して家路に就く。そんな日を繰り返していた。




「付きまとわれてるって言ってたの、大丈夫なの?」


 店長の口から出てきた言葉に、俺の心臓がぎゅっと締め付けられた。もしかして、気づかれていたのか?


「ああ、いや、大丈夫です」


 娘の慌てた顔。娘は笑っていたが、その視線がほんの一瞬、俺を捉えた。


『あなたのことですよ』


 視線がそう言った気がした。


 やっぱり、気づいているんだ。困ったな。父親だと打ち明けられれば簡単に決着がつくだろうに、打ち明けてしまえばそれはそれでますます話はややこしくなる。いや、一つ一つ丁寧に解消していけばよいのだが、それがなおも娘を困惑させ、悲しませる結果を生むかもしれない。


 そんな懸念は、所詮言い訳に過ぎなかった。俺は娘に嫌われたくない。こんな男が父親だなんて、と、侮蔑(ぶべつ)の眼で見られたくない。俺はそれを怖がったのだ。


 もう、娘を見送るのはやめよう。娘が困っているんだ。俺にとっては可愛い娘でも、娘からしたら俺はストーカーまがいのおっさんだ。打ち明けられないのなら、せめて迷惑をかけないようにしたい。




 それでも俺は、時々我慢ができなくなり、娘の後をつけた。雨が降って視界が悪くなったときなどは耐え難い心配が募り、堪らなくなって娘をマンションまで見送ったのだ。


 働く娘の顔は、どんどん暗くなっていった。俺を見る目も、どことなく冷たい。そのまま素っ気なくしてくれたなら、まだ俺の気持ちも和らいだだろう。娘は悲しげに微笑んで、俺におかわりのコーヒーを注いでくれた。


 娘にこんな顔をさせたまま、俺のエゴだけで見守ることなどできない。俺は見送りをやめた。




 人は、弱い生き物だな。いや、俺が弱いだけか。


 ほとぼりが冷めたころ、と表すのが適当だろう。俺はまた娘を陰から見送るようになった。


 俺の視界に、嫌な光景が映った。最初は気のせいだろうと払ったのだが、その光景は不快な感覚を伴って俺の胸に貼り付いた。


 男が一人、娘の後をつけている。まだ若いようだが、誰だろうか。俺は娘を見送りながらも、その男に注意を払って後をつけた。


 もしかして、ストーカーだと疑われていたのはあいつだったのか? 俺ではなく、あいつがストーカーだということだったのか。娘が俺をちらっと見たのは、『あなたのことですよ』という意味ではなく、『助けてください』ってことだったのか?


 娘がマンションに入っていく。男は何もしなかった。良かった。


 そう思ったのも束の間、娘が部屋の中に消えるなり、男はスマホを取り出した。どこにかけているのだろうか? この距離では会話どころか、男の声すら聞こえない。俺は足音を消し、できるだけ男の近くに寄った。


『だから、もうやめてってば』


 男が構えるスマホの向こうから、娘の悲痛な叫びが聞こえた。叫び、と言っても神経質な鋭い音ではない。心底参ってしまっている、弱い音だ。


「何でそんなことを言うの? やめないよ。僕はさっちんの彼氏なんだから」


 もうお願い、やめて。そんな音が男のスマホから届く。男は意に介する素振りを見せず、「またね」と電話を切った。


 なんなんだ、あいつは。一瞬にして胸中に黒い炎が燃え上がった。


 どうしてそんな風に平然と電話をかけて、娘を追い詰められるんだ。娘はあんなにも嫌がっていたじゃないか。


 彼氏だと? ストーカーは妄想するんだ。追っている相手が自分の恋人だという、幻想を抱くんだよ。ストーカーとはそういう生き物だ。相手の都合などお構いなしに、ただ自分の思考が全ての世界を構築するんだよ。


 酷いじゃないか。娘が何をしたというんだ。母親に負担をかけたくないと、必死に働きながら大学に通っているだけなのに。大学に入るためにも、並々ならぬ努力をしたのだろう。そうやってずっと頑張ってきた娘に、一体何の咎があるというんだ。


 娘の優しさやか弱さにつけこみ、娘の精神を弄ぶおまえは万死に値する。見ていろ。




 俺は連日、娘のマンションの前で男が来るのを待った。それが明日、明後日、もしかしたら、もう二度と来ないことだってありえる。それならばそれで一安心とも考えられるのだが、俺はもう一度あの男に会いたかった。


 男を懲らしめてやりたい。涙ながらに『すいませんでした』と頭を下げる姿を見てやりたい。そうして改心してくれたなら、俺はそれ以上罪に問うつもりはない。許す、許さないを判断するのは娘だが、少なくとも俺は娘の父として男を許すつもりだった。




 またもや、男は平然とした顔で現れた。鼻歌交じりで、顔を輝かせて。


 また娘を困らせて、参らせてやろうと思っているのか。おまえのその艶々とした顔色は、娘の苦痛から生まれるのだろうな。ふざけるなよ。


 娘が部屋から出てきた。男は嬉々とした表情で、エントランスに近づこうとする。


 娘に何をするつもりだ! 俺は手に持っていたバットを力いっぱい握りしめた。


 あまりの力に、手の血管という血管が引きちぎれてしまいそうだった。それでも俺の中で燃える感情の方が断然大きい。親にとって子がどれほどのものなのか、思い知れ。


 俺は何の躊躇もなく、男にバットを振り下ろした。


 よろめいたものの、男は頭を押さえ俺に振り返った。何が起こったのか分からない、といった顔色だ。だろうな。父の登場など、考えてもいなかったのだろうからな。


「このストーカーがぁ!」


 もう一度、振り下ろす。避けられてしまった。


 男が構えた。構えがぎこちない。恐らく格闘技の経験はない。でも構えを取ったということは、俺とやり合うつもりってことでいいんだな?


 俺は容赦なく男にバットを振り下ろした。男は避けるが、反撃する素振りはない。隙を窺っているのか。それとも、こちらが中年男だと思って、見くびっているのか。でもこれでもな、昔はそれなりに名の通った不良だったんだよ。


 俺の攻撃が男のこめかみを掠めた。血が流れる。左目を押さえているな。血が入ったか。おまえなんか半分見えないくらいがちょうど良い。まともな世界など見えていないのだろうからな。


 男は懲りずに構えた。反撃もできないだろうに、なぜ構える必要がある。


 振り下ろしたバットが男の顔面に直撃した。鼻血が噴き出し、形相も分からないくらい顔が真っ赤だ。


 それは、娘の血だ。おまえが弄んだせいで流れた、娘の心の血なんだよ。


 謝れ。『もうやめてください』、『許してください』と、請うんだ。娘が悲痛の声を上げたように、おまえも悲痛の声を上げるんだよ。


 男がしゃがみ込んだ。謝る気になったか。


 違った。男は手近にあった石を掴むと、俺の顔目掛けて投げつけたのだ。


 俺の頭から血が滴り落ちた。


 飽くまで、謝るつもりはないんだな。上等だ。


 俺はバットを捨てた。娘への思いが拳を作り、真っ直ぐ男に向かう。


 何度も何度も、男を痛めつけた。男も応戦するが、俺の拳に比べたらずっと軽い。


 石の当たった箇所から、止めどなく血が流れ出た。俺の着ているライトグレーのジャケットが、どんどん薄暗い赤に染まる。


 これは、俺の血だ。娘を慈しみ、育むことのできなかった贖罪(しょくざい)なんだ。どんどん流れていけ。俺はやっと、娘に(あがな)う機会を見つけたんだ。




 パトカーの音が聞こえた。そういえばさっき、誰かが電話をしていたな。これだけ暴れていたら、警察を呼ばれても不思議ではないか。


 途端に力を失い、俺の体はアスファルトに倒れた。傍には男の体がある。お互い、随分な色に染まったな。


 けたたましいサイレンの音、クルクル回る赤い光。騒ぎを聞きつけた人が集まってきた。その中に、娘の姿もあった。


 こんな騒ぎを起こしてしまった以上、もう俺が娘の前に姿を現すことは叶わないだろう。これが最後になるかもしれない。


 傍にいるのは、彼氏だろうか。背が高くて、男前じゃないか。娘にもそんな人が現れたんだな。なら俺はもういらないな。


 やっと、やっと一つだけ、父親らしいことをしてやれた。良かった。きっと娘は何も知らないまま過ごすのだろうけど、それで十分だ。


 欲にまみれたストーカーはもう消える。もう大丈夫だから、これからは安心して暮らしてくれ。


 父さんはいつだって、おまえの味方だ。たとえ離れていても、それを忘れないでほしい。





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