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昨夜の彼は朱色のだんだら模様の羽織に白い着物に黒い細身の袴を着ていたけど今日の彼は長屋地域では浮く質の良さそうな薄藍色の着物姿で羽織りも着ている。
お隣さんとは驚き。南1区の地区本部第6部隊の新人兵官なのに南3区暮らしなの?
明るい太陽の下で見たらやはり若く見える。若い地区本部兵官といえば豪家だけど彼はこの長屋暮らしだし昨日平家だと聞いた。
「昨夜の芸妓さんですよね? ずっと同じ曲だなんて驚いたしたぬき美人だから覚えています。隣の空き部屋もう埋まったんですね。あっ、俺ネビーです。今日からよろしくお願いします」
ピシッとした会釈をされた。昨夜と同じで早口めだけど落ち着いて聞こえる不思議な口調。
私は彼の目から見るとたぬき美人なんだ。たぬき顔なのは自覚がある。お酒のない真昼間にしれっとお世辞。
これが花街には現れないか昨日みたいに付き合いでないと来ない下街の男性。
下街男性? 彼は地区本部兵官なので下街男性とは違う気がするけど平家だから下街男性か。
「こちらこそよろしくお願いします。ウィオラと申します」
「あそこの近くの置き屋の方なのに南3区なんて……引っ越し手伝いですか? いやその荷物は本人の引っ越しですかね」
「いえ昨夜で芸妓は辞めて5月から女学校の臨時講師で通勤のために引っ越ししてきました」
「女学校? ここから通えそうなところだと私立のアルガン女学校か3区立女学校ですけどどちらですか? 3区立女学校なら俺の妹が通っています」
……そんなことってある?
「その3区立女学校です。12月までの契約で音楽を担当します。認められれば来年も継続なので励みます」
「おお、妹の先生じゃないですか。昼飯をごちそうします。ここの大家さんは雑なんで何にも教えていないと思うから母が色々説明します。長屋会とかあるんで。荷物を部屋に置いたらこちらでお待ち下さい」
昨夜会った人がお隣さんというだけでも驚きなのにその妹の先生になるってこんな偶然ってある?
2回来たけどその時は会わなかったな。大家が「隣は長く住んでいて問題を起こしたことのない安心な人です」と言っていたけどそりゃあ地区本部兵官だから安心だ。
その安心な人が地区本部兵官だなんて誰も想像しないと思う。確かに大家は雑かもしれない。
人懐っこい笑顔に若々しい顔なのでやはり20代に見える。
ネビーは彼の部屋の隣の隣の隣の扉をスパンッと開けた。品が良かったと思えば少々荒々しかったり不思議な人なので何となく目で追ってしまう。
「母ちゃん。さっき起きた。昼飯食った? お隣さんが引っ越してきて来月からロカの音楽先生だって。昼飯をごちそうしてこの長屋のことを教えてあげるべきだと思う」
「あの大家はまた言い忘れか。端にずれて良いか聞いていたのにのらくらしていたのは契約が取れそうだったからってこと。あんたも本当に忘れっぽいんだから。今日はルーベルさん家に行ってまた色々相談だから昼飯は自分でって言うただろう? ロカの先生?」
ネビーと交代して部屋の中から美人の中年女性が出てきた。猫顔系で息子と似ていない。彼女はネビーと違って長屋住まいらしい着物姿で少しはだけ気味。
この母親は若く見えるのでネビーもやはり若いのか、親子揃って若々しく見えるだけで高齢なのかどちらだろう。
彼女は私を発見すると着物を直して品の良いお辞儀をしてくれた。
「こんにちは。エルと申します」
「ウィオラと申します。これからよろしくお願い致します」
「女学校の先生ってことはどこかのお嬢さんですよね? 何でまたこの長屋へ」
それは私の方が聞きたい。なぜ地区本部所属の兵官が長屋住まいなのか。
「家の為に大嫌いな相手と結婚しなさいと言われて腹を立てて東地区から家出してきました」
隠して噂されるくらいなら隠さないで噂される。多少真実を捻じ曲げてるけど概ね同じ内容。
「えええええ、家出娘さんなんですか? しかも東地区からってそんな遠くから」
ネビーのちんまり目が大きくなった。表情豊かな人だ。
「ご両親心配してるんじゃないですか? 今頃探していますよ。東地区から南地区に家出だなんて見つけられません」
エルが顔をしかめた。
「姉と連絡を取っているので謝りに来る気があるなら手紙を寄越すか会いに来るでしょう。大事に育てられた恩があるので仕送りをしていますけど何も」
家出したのは私だけど、まさか5年も放置されるとは思わなかったし姉が「その契約なら安心」とあっさり花街暮しを受け入れたのも驚き。
姉以外から手紙がないことも、家族の誰も花街なんてと騒がないのは家出に怒っているか輝き屋関係なのか謎。
姉が手紙で「帰りたくないならまだこちらもあまり状況は良くないのでお互いにとって良いかもしれません」と言っているので私はまだ破門家出娘でいる方が良いみたい。
エルがさらに顔をしかめた。家不幸だとか親の心子知らずと怒られるかも。たまに言われる。
「どんな親だい。近所なら殴り込んで説教してやるのに。色々説明してやりたいけど……ルーベルさん家に行かないといけないしネビーが案内して回ると面倒なことになるから……。東地区からなら海の物をあまり食べたことがないだろう。お寿司だお寿司。ネビー、ロカの先生になってくれるんだから何かごちそうしてきな」
「俺が先にそう言うただろう」
「ああ、そうだね」
しかめっ面は私の為に怒ってくれたみたい。5年も南地区に住んでるから海の幸は色々食べてきている。
言い方が悪くて家出してきたばかりと誤解されてしまった。
エルは私の返事を待たずに隣の部屋へ入った。
「ルル、起きな。ネビーが寿司屋に連れて行ってくれるって」
ネビーも部屋へ入っていった。
「おい週末飲んべえ。親父も寝てるのかよ。ルル、寿司屋に行くぞ寿司屋」
「寿司⁈ 何でお寿司⁈ 何かのお祝い? 私だけ? あれっ、レイとロカは?」
玄関が開けっぱなしだし声が大きいので全部筒抜け。
「レイはリルと海へ行った。ロカは学校の友達の家に泊まって今日はお父さんの……あんた何でまだ寝てるの。ロカとお友達と櫛作りでしょう⁈」
「っ痛。ルルが飲もう飲もうって言うからつい。今何時?」
「11時の鐘が鳴ってかなり経つよ。急いで支度して行きな。働かないなら家事を全部させるよ!」
すごい雷。下街溌剌女性をこんなに近くで見るのは初。
ネビー、ルル、レイ、ロカ、リルの5人兄妹みたい。いや、昨夜6人兄妹って聞いたからもう1人いる。
「大丈夫、ジンとルカが対応してくれてるって。俺は夜型で夜にうんと頭も手も動くんだ。まあロカの為にすぐ行くけど朝から怒鳴るのはやめてくれ。二日酔いの頭に悪い」
ジンとルカ。新たに増えた。6人からはみ出したので混乱。中年男性が部屋から出てきた。彼がネビーの父親。似てる。ネビーはどう見ても父似で少しだけ母親似。
娘達と櫛作りをするとは何なのか気になる。
「こんにちは。どちらさまか気になるけど急いでいるので失礼します」
ネビーの父は私にへなっとした会釈をするとエルがいた部屋へ入っていった。
「お寿司って聞いたら目が覚めた。何でお寿司なの? 何のお祝い?」
「ネビーのお隣にロカの学校の先生が引っ越して来たお祝い」
「すごい偶然。女学校の先生が何で兄ちゃんの隣の部屋に引っ越してきたの? 女学校の先生って良い家の人そうだけど」
「家の為だからって大嫌いな相手と無理矢理結婚させられそうになって東地区から家出してきたそうだ。女学校の先生になれるお嬢さんが長屋住まいなんて大変だから世話してやらないと。私はジオとルーベルさん家に行くからネビーと寿司をごちそうして近所や長屋のことを教えてやって」
ジオも増えた。名前の分からない父親、母親のエル、ネビー、ルル、レイ、ロカ、リル、ルカ、ジン、ジオ。10人もいる大家族。だからお部屋3つみたい。
私の部屋、ネビーが出てきた部屋、ルルとエルが話している部屋、不明、エルが出てきて父親が入った部屋の順。不明の部屋も彼等の部屋かもしれない。そうなると4部屋だ。
世話してやらないとってすこぶる親切。これが噂の長屋地域の人付き合いの良さ?
女学校の臨時講師という肩書きで安心されて混ぜてもらえるかもしれないと思っていたけど最初からとは驚き。
人付き合いが濃くて面倒なこともあるということも聞いている。それはどんな世界でも同じだ。
「ひゃあ、それは大変。長屋中のお母さん達に教えてどこの部屋の男はアホとか教えないと。サッと着替えるから待って。寿司屋かあ。お嬢さん風と長屋風どっちが良いかなあ」
扉が開いている玄関からひょこっと顔を出したのは花魁並みの美女。
彼女は私を見てニコッと歯を見せて笑った。ネビーとよく似た笑い方。
「こんにちは。ルルです」
彼女はすぐ引っ込んだ。
「本当にお嬢さんだ。お嬢さんとお出掛けならお嬢さん風にする」
何がどうお嬢さんなのだろう。服装はこの長屋に馴染むような着物を用意したけど新品だからかな。
「ルル、任せたよ。そろそろ行かないと」
「はいお母様」
「日曜日はお休みなんだろう? その痒い呼び方をしないでくれ」
「照れてる照れてる。お母さんかわゆい。今日は着物をピシッと着ているけど品良くする練習をしないとダメだよ。お父さんは諦めてるけどお母さんはやれば出来る子だから大丈夫。この少しガニ股をやめなさい!」
「はいはい。私は気をつければ出来るからあんたこそ四六時中お嬢さんを保ちなさい。ルーベルさん家不幸娘め」
「痛っ。お母さん私と同じじゃん」
「ルル。母ちゃんと遊んでないで早く着替えろ。人を待たせてるんだぞ」
うんと賑やかな家族みたい。今度はネビーがひょこっと顔を出した。
「うるさくてすみません。ん?」
ネビーの視線が私の顔から右手に持つ鞄と背中の三味線に移動した。
「すみません。ぼんやりしていてまだ荷物を置いていなくて」
私はネビーに会釈をして自分の部屋へ向かった。
「すぐ支度するから兄ちゃん家の説明しといて。いつなら誰がいるとか頼れるとか」
「おう。そうする」
私を遠巻きにしてヒソヒソしていた住人達が急に会釈して笑顔を浮かべてくれた。
棟の間の長椅子と机で将棋をしていたりお酒を飲む男性達や食事をする家族達に無視されていたけど彼等、彼女達とも目が合ったので会釈。
部屋の鍵を開けて荷物を置いて、鞄から手提げなど待っていくものを取り出して出掛ける準備。
外に出て鍵を締めると隣の部屋の前にネビーが立っていた。
「ここが俺の部屋です。昨日知っての通り兵官で日勤、凖夜勤、夜勤、休みに剣術道場通いもあるのでいつ居るかは不明です。出掛ける際の用心棒とか重たい荷物持ちやら何やらがあれば母に相談してもらえれば都合をつけて手伝います」
「ありがとうございます。ここから1区まで通勤とは大変ですね。かなり遠いです」
「地区って横には広いけど縦にはそうでもないんで鍛錬がてら走ればそんなにです」
そんなことないと思うけど彼は飛脚みたいに速くて持久力もあるのかな。見た目では分からない。ネビーは隣へ移動した。
「ここは妹達の部屋です。妹のルル、レイ、ロカの部屋です。さっき会ったこれから一緒に寿司屋に行くのが3女ルル、次はレイでウィオラさんにお世話になるロカが1番下です」
「ルルさん、レイさん、ロカさんですね」
ルル、レイ、ロカは全員妹なのか。
「ルルは次女の嫁入り先に居候中で土日休みで気が向いた時に帰ってきます。レイは旅館で料理人見習い中で火曜と不定期休みでルルと同じく気まぐれです。5女のロカは女学生でこの部屋を主に勉強部屋にしています。なので困って声を掛けるなら他の部屋にして下さい」
「分かりました。お勉強の邪魔をしないように気をつけます」
「逆にもしも妹に頼まれてお時間に余裕があれば勉強を教えて欲しいです」
「もちろんです」
ロカはどのような子なんだろう。私の生徒でお隣家族さん。やはり思ってしまう。こんな偶然ある?
「隣のこの部屋は長女夫婦とその息子の部屋です。妹のルカと義理の弟のジンは父の働く店で働いていて夜は基本的に居ます。俺の甥っ子のジオは小等校入学前なので2人が仕事中は主に母が世話しています」
ルカは既婚の妹。ジンは旦那様でジオはネビーの甥っ子。
先程ルルは次女の嫁入り先に居候中と言っていたので次女がリル。つまり今までの情報だとネビーは長男だ。
両親、ネビー、ルカとジン夫婦にジオ君、お嫁に行ったリルとその家に平日居候中のルル、旅館で料理人を目指しているレイ、女学生のロカ。多分覚えた。
親切なことにお世話してくれるみたいだから覚えないと。
「その隣が父と母の部屋で母が1番居るので困ったらまず母。次はルカ。あとは見かけたり部屋を尋ねてルル、レイ、ロカです。力仕事とか荷運びなら俺やジン。他の母親達は母が紹介して回るかと。夕方や夜に風呂屋へ行くとかそういう時はルカとジンを用心棒にどうぞ。もしくは母。あとは他の家の方」
裸のお付き合いになるってことか。集団でお風呂は花街で少し慣れたので構わない。
5年も経って女性にも肌を隠したいとは初心なのか照れ屋なのかお嬢様は変と笑われて続けていたけどこれでも慣れた。
「ご親切に沢山ありがとうございます」
「まあ、そのうち大体の部屋の事を覚えると思います。後でルルが説明しますし誰に頼れば良いか分からなくなったら家族に聞いて下さい」
エルが男の子と手を繋いで部屋から出て来た。彼が甥っ子のジオだろう。少し魚っぽい顔でネビーとも彼の両親とも似ていない。ジオは父親のジン似なのかな。ネビーはサッとジオを小脇に抱えた。
「よおジオ。今日も元気そうだな。ルーベルさん家でお行儀良くするんだぞ。それからレイスとユリアと楽しく遊んでこい」
「あははははは。くすぐったい! やめてよー! 兄ちゃん今日仕事? 帰ったらちゃんばらしてくれる?」
「真夜中から仕事だから仮眠前に少し遊んでやるよ。母ちゃんとはぐれるなよ」
「はーい」
「返事は短く」
「はい! あはははは!」
ネビーはジオを地面に立たせた。甥っ子の頭をぐしゃぐしゃと撫で回して大笑い。
振り返って私を見て「こいつが甥のジオです。悪さをしたら叱るんで告げ口して下さい」と柔らかな微笑み。
春風がひゅうっと吹いてどこからか飛んできた桜の花びらが彼の顔周りに舞った。