29
屋根の上から地面へ梯子で降りようとして戸惑う。意気揚々としていたし登りだからか怖くなかったけど降りるのが怖い。
「……ネビーさん。怖くて降りられません」
「ええっ⁈」
「梯子がひゅうっと倒れたりしませんか? 登りは演奏妄想に夢中でした」
「先に降りてしっかり梯子を押さえておきます。足を踏み外したら受け止めます」
感謝を告げて先に降りるネビーに三味線を渡してその後に恐る恐る梯子に足をかけた。
「無事に降りられました。ありがとうございます」
「ら、落差が。あはは。なんですか。ウィオラさんは本当に愉快です。俺もちっとも飽きません」
ネビーはお腹を抱えて笑い始めた。
「そのように沢山笑わないで下さい」
「ああ。すみませ——……」
私が近づき過ぎたのとネビーが体を起こしてパチリと目が合って停止。
世間の恋人同士や婚約者同士はこういう時に触れ合うのでは? と自然と目を閉じていた。
「このやろうネビー! 衝撃的なお嬢さんじゃねえか!」
「いつ前に来るのかと待っているのに来ないから見にきたらいちゃついてたのか!」
「何もしてねえよ! 結納前に触るか! 1週間くらいだから耐えるに決まってるだろう! 俺は律儀だと信用されないといけねぇんだよ!」
冷やかし達が登場したので雰囲気台無し。結納したら触ってくれるんだ。はずかし!
ねちょ。左頬に覚えのあるひんやり感覚再び。
「き、きゃああああ! いやああああ!」
「うおえっ! 何もしていないのにどうしましたか⁈ ああ蛙」
冷静になって見ていないで取って欲しい。
「ネビーさあぁん! か、蛙を掴む練習をするので紙か布を下さい……」
「いや取りますよ。おりゃ」
練習出来ず。昨夜と同じで手拭いで顔を拭いてくれた。優しい。
「おい、こっちに投げるんじゃねぇよ!」
「ふざけんな!」
「お前らこそ邪魔するんじゃねぇよ!」
よく見ていなかったけどネビーは蛙を友人だか知人達の方へ投げたみたい。
「ったく。せっかくコソコソ渡そうと思っていたのに。あの、どうぞ」
何かと思ったらネビーの着物の袖から小ぶりの桜の枝が現れた。文が結ばれている。もしや今日贈ってくれた龍歌?
「2本で西の国の北極星かなぁなんて。蕾が星みたいなので星だらけになりますけど2本なのでまあ。ご存知だと聞きました」
ネビーはうんと照れ臭そう。
西の国の北極星は2つ並びで夫婦や恋人の星という話はロメルとジュリーの演劇が発祥。
今日似たような会話をしたルルかリルが私とそういう話をしたとネビーに教えてくれたのだろう。
「先程の龍歌は出来れば同じように、枝とか他のものは何も要りませんのでサラッとでよいので書いて贈って下さい。大事にします。もちろんウィオラさ——……おい、邪魔するんじゃねえよ!」
見たらネビーに何かを投げつけてきたのは女性達だった。というかまだ投げられてる!
彼はひょいひょい避けたり私にぶつかりそうな何かを手でベシリと容赦なく払って彼女達、他にもいる男性達へ投げるように払った。いつの間にこんなに人が集まったのだろう。
落下物を見たら春イボ蛙に青緑蛇!
「桜の枝に文ってどういうことよ!」
「触るなって言っていた隊服羽織をあげた理由を説明しなさいよ!」
「そこのあんた! いくら芸妓でお嬢さんでさっきのはうんと凄くても私らを通さずにネビーに近寄るんじゃないわよ! 規則があるのにこの抜け駆け泥棒猫!」
えっ。ネビーと親しくなって良いのかという規則があるの?
「逆だ。お前らこそ近寄るな。そもそも誰だ? お前ら見てないでそいつらを向こうに連れてけ。あと顔を覚えてウィオラさんから遠ざけてくれ」
不機嫌そうな低い声にびっくり。怒り出した女性達が男性達に「まあまあ」みたいに移動させられていく。冷え冷えネビーって本当に冷えてる。しかもそもそも誰だって……知らない女性達なの? 本当は顔見知りなのか興味がなくて忘れたなのか不明。
男性達の何人かが女性達を「まあまあ」みたいに連れ去っていった。衝撃的なことに肩に手を回したり、軽く手を引いたり触っている。
下街の世界ではあのくらいは普通ってこと。
「あの中で勝手にくっつくとか始まるんで無視。その枝も良い景色の中で渡そうと思っていたけど持っていると落ち着かなくて。後は食べて飲んで寝るだけです。明日は休みだから沢山飲もう。ウィオラさんって飲めるんですか?」
「お酒はほぼ飲んだことがありません」
私が叫んでもうしばらく経っているのにまた人が集まってきた。エルも現れてネビーに「手を出したのか!」とガミガミ攻撃を開始。
「うるせえな! 蛙だって! こんな場所で手を出すか! 何でも最初はうんと綺麗なところにするに決まってるだろう! ここでは2人で散歩や話も出来ねえのかよ! そんなの袖にされるから邪魔するな!」
それは期待大なお話。私は桜の枝を眺めてニヤニヤしそうな唇を一生懸命結んでいる。
文からお香の匂いがするのがまた雅。素敵。ロイや彼関係の卿家の誰かから学んだのかな。
「うわあ、ネビーが惚気てる! 浮かれてる! ムカつくから川に投げようぜ!」
「おう、放り投げよう! 祭りだ!」
祭り?
「感謝してるけど結局自分が興味ない女達がうざったいから俺達に押し付けてきただけだからな。分かってるからな!」
「俺はそのおこぼれすらねぇぞ! もう25歳なのに!」
「うるせえよ。それはお前自身が原因だろう」
「言えてる言えてる」
「俺だってネビー並みに軟弱に見えなければ噂の雅を使いこなせるけど俺がすると女々しい軟弱男って笑い飛ばされるんだよ!」
皆に囲まれたネビーが羽交い締めで連れていかれる。ネビーは「いやぁ、まあ。こんなに祝われると嬉しいけど川はやめようぜ。まだ少し冷てえよ」と大笑いしている。
これが長屋風というか下街風?
「お風邪を引いて亡くなられたら辛いですし打ちどころが悪いと危ないですから冷たい川に投げたりしないで下さい」
慌てて追いかけて頼んだ。ネビーを囲う男達はピタッと止まって振り返ってくれた。
「お」
1番手前の男性が瞬きを繰り返した。またしても、お?
「お風邪を引きますね。そうですね」
「お風邪だって。かわゆいな。仕草が既にかわゆい。顔も俺は好みだ。ネビーから奪えば良いわけだ。お嬢さんってこんなかわゆい生き物なのか」
「憧れっていうか嘘の世界だと思っていたら実在するのか。でも大旦那さんの娘さんと違う。これが噂のお嬢様?」
「今のこう手を動かすのをもう1度……っ痛!」
他の男性が彼の背中をベシンッと叩いた。
「アホ面してもネビーの女だぞ! バーカ!」
「うるせえ! 良い女は既婚だろうが奪い合いだろう! 未婚なら尚更だ!」
そうなの? 女性もそのようなことを言っていたな。血縁重視の家だと嫁や婿の不倫は死罪くらいの契約を交わす家もあるし、愛人で我慢しろとか言うし既婚者を堂々と口説くのは恥さらしだけど下街はやはり価値観が違うみたい。
「いやだからここにいる誰が成り上がりネビーに敵うんだよ」
「好みは千差万別だ!」
ネビーが軽く暴れて羽交い締めから脱出。
「俺は別によかだと大人しくしていたけどそういう気持ちがあるならお前らこっちに近寄るな!」
おらおらとネビーは友人達を軽く蹴って私の方に来た。下街男性ってこんななのね。
「あの。ずっと俺を特別な目で見てくれていたので心変わりしました? 俺ってまあ色男なんで。成り上がり兵官もええけど米屋は食いっぱぐれないですよ! 一生大事にします!」
左側から声を掛けられたので視線を移動させると相手役に設定した男性だった。
「米屋ってお前は奉公人だろ。何自分は店主みたいな面してるんだ」
「どう考えても成り上がり兵官が勝ちだろう」
「顔はお前が勝ってるけど他はボロ負けだボロ負け」
「うるせえ! 俺はずっと特別扱いされていたんだ!」
彼は照れ臭そうな笑ってネビーに得意顔。周りの男性は首を傾げて私を見据えた。
「単に演出です。演出なので誰でも良かったです」
ソソソッとネビーの少し後ろへ移動しつつ彼に近寄る。
「俺にも演出ですか?」
「……そちらは本音です」
「お上品に照れてる!」
「姉貴と全く違う!」
「俺の嫁はここまでではないけど2人だと急に借りてきた猫みたい……痛っ」
「兄貴の惚気なんて聞きたくねえ!」
「若造に縁談持ってこい!」
「もう1回今の照れた仕草をしてもらえませんか?」
大勢の前で辱められてしまった。さっきからずっと色々はずかし!
「部屋で食べて飲みましょう。バカやアホかつやかましいのしか居ないので隠れた方がよかです。隠さないと。行きましょう」
そう告げるとネビーは「邪魔だ邪魔」と友人だか知人達を手で払って私とルル達の部屋へ移動。
移動中もネビーは「飲もうぜ」と絡まれて「俺はやることがあるから勝手に飲んでろ」と追い払った。
「やるってこんな大勢が来てるのに何をする気だ! そういう性癖だったのか!」
「バカやろう! 逆だ逆。俺に見張りをつけた上でお前らみたいなバカとかアホから隠して常識的に口説き落とすんだよ! 祝い酒じゃなくて横取りに来たなら邪魔者だ邪魔者!」
「仕方ねえからそこらで勝手に祝い酒だ。また後でな」
「とりあえずあちこちでどういう女か聞こうぜ。あとネビーが口を割らなそうな馴れ初め」
「おう。ジンだジン。ジンとルカを探そう。ルルちゃん一緒に居ないかなぁ」
「レイちゃんは俺だからな」
「いやお前だと年が離れ過ぎて気持ち悪いからやめろ」
「4つ差だ!」
「そうだっけ。お前老け顔だな」
そんな風にネビーの部屋へ近くへ移動。彼の部屋の扉は開けっぱなしだった。
「俺の見張りになってくれる方。レイスだな。兄ちゃんと遊ぼう」
返事を待たずにネビーはレイスをリルの膝の上から拉致。隣のネビー部屋に乗り込んで「おじゃまします!」とロイとヨハネと合流。
女性1人に男性3人だけど扉は開けっ放しでレイスがいるから良いのかな。私としては良い。ヨハネはまさかの涙目。
「まだ興奮がおさまりません。素晴らしい舞台でした。そもそも琴だけでも素晴らしかったです。今度演奏指導して下さい」
「町内会で小公演をして下さるそうだからその時にお願いしたらよかだと思います」
ロイはそう告げると私とネビーに食事とお酒を用意しますと部屋から出て行った。
ネビーも私も追いかけようとしたけどヨハネに「主役ですから」と止められた。
「指導というより聴いてみたいです。こちらこそよろしくお願いいたします」
「素晴らしい演奏でしたからこちらをお受け取り下さい」
「お金は要りません!」
「前祝い代です」
「へえ、前祝い代なんてあるんですか? それなら俺は今までやらかしてます」
「無いです。単に自分の気持ちです。自分達のお披露目会でも少しお金をもらうのに今夜のあの芸術が無料なんて許されません」
私が受け取らないのでヨハネとネビーで押し問答。
延々と続いていたけどロイが手ぶらで戻ってきて状況を察して「ヨハネさん祝言時にまとめてお願いします」と援護してくれたので押し問答は終了。ロイは状況把握も場の納め方も早いと思った。
お皿やお箸は自分の物と思って部屋から持ってきてネビーの隣に招かれて着席。上座に促されて両側にロイとヨハネ。レイスは「兄ちゃんの見張りだからここ」とネビーの胡座の間。
レイス本人は「なに?」みたいなお顔をしている。
そこへリルがすすすっとお膳を2つ持ってきてくれた。あれこれ乗っている。リルが作ってくれた飾り切りもある。ここだけ料亭?
クリスタはお酒と盃と升、クララは汁物を持ってきてくれた。旅館で部屋食みたいに上げ膳据え膳。
ユリアはたんぽぽ2輪を「おほしさまふたつです」と私に渡してくれて、父親と一緒にいたいみたいでロイの胡座の上に座った。
その愛くるしさに私はメロメロ。無邪気な子どもはとても好き。無表情気味だったロイもデレデレなお顔。
途中でロイとヨハネとレイスとユリアが帰宅することになったので部屋にルカとジンとルルが来た。
それまでは穏やかだったのに私達の居る部屋に次々人が来始めてほとんど自己紹介もなく「おめでとう」とか「お前はコソコソしやがって」とか「本当にお嬢さんだ」に「お嬢さんの中のお嬢さんらしいな」や「芸妓ってこんなに凄いのですね」みたいに言われ放題。
私が返事をする前に次の人やネビーやルカ達に前の人が追い出されて入れ替わる。
自己紹介をしてくれた人もいたししない人もいるし、名乗らない女性達に「あんたは騙されてるだろうから私がこの女に話を聞いてやる」と言われてルカとルルが言い返したり、ネビーも「俺を騙さなくても自力で生きていける方だ」とかジンも「詐欺でも経験だし貧乏性達からお金のむしり取りは無理だから」みたいに皆自分勝手に言いたい放題。
「お祝いですのでこちらをどうぞ」となぜか小さい海老を渡してきた人もいた。3人できたネビーより若めに見える友人らしき人達。
「食べたことはあるけど動いているちび海老さんは初めてです。ありがとうございます。飼えますか?」
返事がないなと来客を見てネビーを見たら彼に「逃げますよ」と小さな声で言われた。
「に、逃げます! くすぐったいです」
贈られた海老が私の手の掌から逃げようとする!
あたあたしていたら畳の上に海老落下。捕まえ方はすくい上げ? 摘むの? 潰れない?
「お逃げにならな……」
私はようやく気がついた。誰か、おそらくネビーがカニと私の話をして試されたというか同じことをされた。つまり遊ばれた。
「ネビーさん……」
「いや、別に。ほら面白いだろう。あはは」
ネビーの友人達は漁師バレルみたいな照れ顔で「もう1回」と言ってくるしルルが雑草たんぽぽでおおはしゃぎとかペラペラお喋り。
ルルは酒瓶から直接お酒を飲み始め、ルカとジンも「明日は午後から出勤しよう」と言い出してどんどん飲み出すし、ネビーはネビーで来客が来るたびに「祝酒だ」と何度もお猪口にお酒を注がれている。
定期的に食事を運んでくれていたレイとロカが「お母さんとお父さんが泣き笑いして大騒ぎに巻き込まれてる」と笑って「あれは疲れるからもう何もしないでここにいる」と部屋に増えた。
エルと一緒にいたはずのジオはどうしたのかと思って聞いたらロイとリルに預けてジオはルーベル家にお泊まりらしい。
慣れないお酒は苦手だったけどリルが用意してくれた梅酒は好みだと発覚。
ちびちび飲んでいたら眠くなり「もっと隠さないと」とネビーに言われてルルとレイとロカの4人は私の部屋へ連れて行かれた。
酒瓶を掴んで離さないルルに「まあまあ飲みなよ」と言われ、レイにも梅酒を注がれて、ロカは学校があるから寝ると私の布団で爆睡。なぜか布団は横向きで縦になってはみ出して寝ている。
外がこんなに騒がしいのに眠れるんだと感心していたら次はレイも「仕事があるからお休みなさい」とロカの隣に並んで就寝。それで布団が横向きな理由が分かった。お布団運ばないのね。
「ルルさん布団を運んできてお2人を移動しますか?」
「私達のせいで世話焼きや仕事ばっかりで苦労してた兄ちゃんがついに自分の幸せを考えだしたぁぁぁぁぁ。姉ちゃんが欲しかったのに妹ぉぉぉ! うわぁぁん! ルカ姉ちゃんみたいなのが増えて欲しかった! リル姉ちゃんも妹みたいだし妹ばっかり!」
隣に座っていたルルにいきなり抱きつかれてそのまま畳の上に転倒。お酒くさい泣きじゃくる美女に頬ずりされて困惑。
ルルは似たような話を繰り返し、話しかけても会話にならないので私は気がついたら眠っていた。やはり私の神経は図太い。
起きたら私は布団の中に1人だったので「夢?」と首を傾げた。
ん? と顔にそっと指で触れたら化粧が落とされている。
机の上に私が贈られた桜の枝が2本、文も結ばれたままで見覚えのない美しい花カゴに生けられていた。




