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ルルから聞けてネビーは今年というか今月で27歳になるそうだ。
叩き上げで20代で地区本部兵官で地元区民に呼び戻されてついでに出世とは大変優秀。おまけにどこかで浮絵販売中。
そりゃあモテるだろうし「お隣さんというだけでやっかまれそうだから逆にこれで良かったです」とはルル談。そのルルは18歳で末っ子のロカは今年で13歳だそうだ。
小物屋でルルが選んだ朱色の薄帯揚げと大きな鱗柄の帯留めを購入。
自分の身を守る為のものなので自分で買うと言ったけど「バカで余計な嘘を増やしてしまったので」とネビーが買ってくれた。
その後のちび饅頭などの購入時は何も言われなかったし当然だと思うので自分で買った。
御礼に今夜いる家族達に豆大福を買おうとしたら「御礼合戦は疲れるんでロカに勉強で」とネビーにもルルにも拒否された。
先に聞いて要らないと言われたら御礼は買わない。こうして欲しいと言われたら無理なのか出来るのかこのくらいなら出来るか話す。
彼等の親戚周辺や長屋周りはそうらしい。お裾分けはまた別。例えば趣味で川釣りをして大漁でも食べきれなくて腐るし川に返すくらいなら配ったり一緒に食べたほうが皆で幸せ。
どうせ不要なものだから御礼は要らないけどお裾分け合戦が御礼みたいなもの。
ネビーが御礼にお酒をもらって「飲もうぜ。酒はある」と人を誘ったら食べ物を持った人達が集まる。
一方的にタカる奴とは付き合いたくなくなるけど話して楽しいとか他のことで助けてもらってるとか総合判断。お金では信頼関係は築けないのでそれがお付き合い。
私が今日から踏み入れたのはそういう世界でこういうことは実家の世界と近いので聞いたり聞かれたりで2人と話が合った。
それでようやく帰宅。正直歩き回って疲れた。
しかり建物などが東地区とは全然違うし1区とも違うし下見したお店や道や商店街とは違うところを勧められたしワクワクして楽しかった。
私は一先ず音を上げるまでここで生きていく。
帰宅したらルル達の部屋へ招かれた。私の部屋へどうぞと話したら「1人暮らしの女性の部屋には妹と一緒でも上がりません」とネビーに断られた。貞操観念を教育という名で洗脳をされた私より律儀。驚き。
「約束通り演奏します。その前にルルさん弾いてみますか?」
「先に下手な演奏の方がええですけど新品に触るのは気が引けます。なので先にお願いします!」
「昨日の曲を昨日みたいに弾いて欲しいです。ルルのやつ絶対に驚くんで。あと単に聞きたいです。飲みながら何だか気になって話より曲を聴いていました」
誰も聴いてないだろうから稽古気分と思っていたけど聴いている人がいた。
あの後飲みに行った同僚も「嫁に会いたくなったというか土産でも買っていこう」とか「また花見がしたい」と感じてくれていたらしい。
「積恋歌の印聴部にしましょうか」
「いんちょうぶ?」
ネビーもルルも首を捻った。専門用語か一門の中での言葉だったのかも。
「その曲における印象的な特に聴かせたいところです」
「ほうほう。今の説明で漢字が分かりました。ルル知ってたか?」
「ううん」
ルルが首を横に振った。
「そもそも積恋歌って何の曲ですか?」
「兄ちゃん知らないの? 知らなそう。せくらべだよ。紅葉草子に並ぶ有名古典文学なのに。ルロン物語や月夜のかご姫も知らなそう」
「鶏頭でバカな俺の頭の中は中官試験の範囲でいっぱいなんだよ。有名なのはあらすじとか少しはギリギリ覚えてる……はず?」
ネビーって自分はバカって言うのが口癖なのかな。
「いざお見合いしようとしてもそれじゃあお嬢さんにモテないよ」
「いいや。その時は先輩とかロイさんに頼ってハイカラ攻めだから問題ない」
「付け焼き刃じゃ話が合わないってすぐ袖にされるよ」
「はいはい。試験合格後はそっちの勉強しとく。ウィオラさん、お願いします」
「はいは短く1回」
「はい」と返事をしたネビーは呆れ顔。
「ルルさんは龍歌を好まれるようなのでまずはこちらのような気持ちを乗せて。逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし」
あなたに逢うことが全く無ければあなたのつれなさを恨むこともこの身の辛さを嘆いたりすることもなかったのにどうして出会ってしまったのだろう……。
私はそのような気持ちは知らないけれど菊屋で見てきた。
恋とは理性ではないもので、うっかり客に恋をしてしまったり若衆に焦がれたりと悲しい恋を何度も目撃。
積恋歌は古典文学せくらべの曲。まだ煌国が出来たか出来ていなかった頃に作られた話らしい。
紅葉草子はお金持ちのお嬢様とうんと格下幼馴染の恋物語。古典文学せくらべは神社の息子と遊女になってしまう幼馴染の恋物語。どちらも悲恋物だけど人気がある。
夢の無い話だけどその分「家の為の結婚」とかで大小はあっても切なくなる気持ちは身近なので多くの人が共感するのかもしれない。
この国の結婚は家と家との結びつきで今より古い時代の方が有無を言わさずが多かった。
花街で学んだけど少し前までは可愛らしく笑っていたのにある日死ぬと泣き叫ぶことになるとは恋とは恐ろしい。
龍歌は大袈裟なものという常識は実際はそうでもなかった。
「昨夜のように大きく変更しないで少し弾き方を変えますね。そうですね、今度は忘れじの行く末まではかたければ今日を限りの命ともがな」
ルルは悲しそうな表情だったけど徐々に笑顔なので演奏の変化はしている手応え。ネビーはぼんやりしているだけなのは不満というか私はまだまだということ。
「いつまでもお慕いします」という誓いが今後も変わらないなんて分かりません。
人の心は移ろいやすく明日になったら忘れられてしまうかもしれない。
それならば幸せな今日を限りとして死んでしまいたい。
恋がもたらす幸福とは私が人生で幸せだと感じた時とはどう違うのだろうか。
菊屋にはひたすら節制しながら耐え忍んで働いて格を上げて借金を減らし、必死に働いて10年もお金を貯めた幼馴染と手を取り合って花街から去った遊女もいた。
あの幸せそうな笑顔で並んで歩いて花街大門を出た2人はどうなっただろう。どうか幸あれ。
「昨夜の席は大して曲なんて聴いてないだろうと遊んでいて今みたいでしたけどどうですか?」
手元を見たり気持ちを込めるように演奏する為にあれこれ思い出していた。手を止めて顔を上げるとネビーはまだぼんやり顔。ルルははにかみ笑いを浮かべている。
「違います。確かに同じ曲なのに違う曲みたいです。速さはそんなに変わらないし旋律も同じですけど強弱とか少しの速度の差とか……あとは何か分かりません! 花柳界のお嬢さん……よく考えたらお嬢様ですよね。門下生を抱えている芸事の家の本家の次女って。大豪家のお嬢様じゃないですか?」
意外に気がつかれないけどルルは気がついたみたい。
「縁切りして家出ではなくて両親も私の身分証明書をそのままにしてくれているので肩書きは一応そうです。誘拐しても身代金は出ないし結婚しても何の得もないお嬢様。それはお嬢様とは呼びません。就職には役に立ちました」
就職というか受験だ。区立女学校の講師になるための試験を受けるのには女学校の卒業証明書と身分証明書が必要。
この国は平等ではないので大豪家の娘というだけで点数が加算される。採用試験は花街勤めで減点でお客のツテでついに贔屓。
身分証明書の肩書きは縁談にも役立つと思っている。
「ロマン男は聞くけどロマン女性は初めてです。それに逞しいですね。お嬢様なのに家出して危ないのに旅をして別の地区へ来てもう5年なんて。これだけ素晴らしい演奏が出来るのなら芸妓で生きていけそうですけどどうして女学校の先生なんですか?」
ルルの問いかけに特に嘘をつく理由はない。多くは語らなくて良いとは思うけど。
「琴も三味線も、いえ音楽自体が好きなのでそういう方が増えると嬉しいです。奏者として拍手されるよりも門下生に教える方が好みで」
私にも姉のような結婚をさせてくれるのなら家出なんてしなかった。同じように音楽を好むそれなりに気の合う人と生きていくのなら我慢どころか歩み寄っただろう。
姉は看板奏者で私は堅実に家業を守っていく。野心を抱かなければそういう考えが自然な流れ。その場合だとお見合いを沢山して選び選ばれるような今時の結婚。
それか私が「どんな手を使っても我が家を音家にして自分も一座の名奏者や名役者になる!」みたいな野心家なら良かったのだろう。
ネビーは相変わらずぼんやりしている。そんなに感激するように必死になって演奏してないけどな、と眺めていたらパチリと目が合った。
「痛い」
私と同じだ。私も今急に何だか胸の真ん中がキュッと痛くなった。
「うんと痛くは無いけどなんか息苦しい。んー、あー、はあ……。良い演奏過ぎて呼吸を忘れたんだな」
深呼吸をするとネビーはトントン、トントンと胸を拳で叩いた。私もそうだったのかなと真似をする。演奏中の呼吸なんて意識したことがない。
「今の演奏の後にルルのベンベン琴なんて聴きたくねえ。聴いたことないけど嫌な予感。鍛錬を兼ねてロイさんにせくらべの本を持ってるか聞いてくる。ユリアとレイスと遊びたいし母ちゃんの迎えも兼ねて。まあ別行動で放置するかもだけど」
「いってらっしゃい。私は夕飯を食べてから帰るって言うてあるからまた夕食で」
「おう。ウィオラさんありがとうございました。またそのうち」
手を振られたので小さく手を振り返した。ネビーとはお別れでルルに琴を弾いてもらった。
曲は練習中だという桜吹雪。花見の定番曲で確かにベンベン琴だ。
「力が強いんですね。体に力は入っていなさそうです。ほんの少し遠くで斜めになってみましょう。それから桜の枝をそっと触るように弾いてみて下さい。えいっと触ると散ってしまいますよね?」
彼女に座る位置をわずかに移動してもらった。
「いつも言われます。もう少しそっと弾いてって。桜の枝をそっと触るように……」
「風で遊ぶ桜の花びらを思い出して桜の木の下で枝に手を伸ばして少し枝を下げて匂いを楽しむ。そういう風に弦に触ってあげて下さい」
「私に教えてくれる奥さん、すこぶる上手ですけどこういう話をされたことはないです」
「教え方は色々です。生徒さんに合う合わないもあります」
ネビーが所属する6番隊の花見の宴席で弾いて欲しいか。美女のルルの演奏の方が喜ばれそう。柔らかい音色になってきた。
旋律の誤りは練習しかない。本人の努力次第。どういう曲風にするかは先生が指導するから口を挟まない。
「三味線を持ってきます。6番隊の宴席でルルさんが琴で私が三味線と歌はきっと喜ばれますよ。皆さんルルさんを見たいでしょう」
「練習しているからみっともなく無ければ披露したいです。少し良くなった気がします」
美女が嬉しそうに愛くるしい笑顔とは眼福。12歳から子ども達に教えることになって菊屋でも講師をして「上手くなった」と笑ってくれるのは楽しかった。
私は部屋を出て自分の部屋から三味線を持ってきた。
「だんだん力が抜けてきましたね。これならもうベンベン琴とは呼びませんよ」
私も三味線を弾いた。うるさい! とご近所さんが乗り込んでくるならあまり弾けないけど誰も来ない。
かまどと厠のある部屋は壁も少し厚めとは聞いていて向かいの棟はわりと離れていて私の部屋は端なのでお隣さんはネビーだけだから部屋で稽古出来そう。大家は嘘つきだな。
「桜の吹雪は春たより」
学校行事が楽しみ。弾くのも歌うのも好きだけど音楽を聴くのもとても好みだ。花街近くの音楽関係のお出掛け先はちょこちょこ通った。
「桜、桜、はなびらひらりと舞い落ちる」
ルルが手を止めた。
「ウィオラさん素敵な歌声です。道芸をしたら大喝采ですよ」
「肝が座っていますけど道芸は舞台より怖いです。聴くつもりのない方々を惹きつけるのは大変」
「道芸をしたことがあるんですね」
「ええ。実家でも南地区へ来てからも何度か」
花街で数えられない程したとは言わない。まあ道芸で単独公演は数える程だ。
「兄はそれなりに人気者で自分がそこそこモテる自覚もあるから家族以外の女性の世話は焼きません。困っている女性を見つけて助けても他の誰かに任せます。昔からです」
突然何?
副隊長が同じことを言っていた。それでネビーは「お隣さんでロカの先生だから特別」みたいなことを口にしたから特別扱い。
「私と違って素直なんで両親の話をしっかり聞いたのと家族が大事とかで理性? 良く分かりません。今は立場もあります。縁者のいないお隣さんってだけであちこち連れ回した訳じゃないと思います。たとえロカの先生になるとしてもそうです」
「あの、それはどういう意味でしょうか」
問いかけたけどなんとなく言いたいことは分かる。ドキドキ、ドキドキとどんどん鼓動がうるさくなっていく。
私が恋話の中心なんて初めて……ジエムがいた。久々にジエムの悪行を思い出してイラッ。
「兄はバカなので、もうオジジに片足を突っ込んでいる年齢なのに自分のことも分からずに何か変な勘違いをしていましたけどいつもと違います」
「あの、その、どういう意味でしょうか」
ルルは私に顔を近づけて揺れながら私の顔を覗き込んだ。ふーん、みたいなお顔。
「あんなに照れたり惚けたりする兄を見たことがないです。男色家なのかと思ったこともあったけど春画を隠していたり色話をしたりするから男色家ではなさそうです。人気爆発しそうなのでここら辺では内緒なんですけど次女姉の嫁ぎ先は卿家で兄は特別養子です。跡取り認定を得る為に励んでいます」
……。
⁈
既にわりとすごい肩書きや地位を確立しているネビーに珍しい家柄がつくとはとんでもない話。
「き、卿家の跡取り認定って家系以外でそのような方法……あるのですね。抜け道か特例で。兵官は公務員ですからなにか該当しそうです」
「その通りです。どう見ても偽物お嬢様ではないけどやはりそうですね。知識があるということはそうです」
卿家は役人の手本家系。3代続けて上級公務員を輩出すると拝命出来る。
数は多くない庶民層の最上位とか時に華族にも勝ると言われる家。
様々な恩恵がある代わりに色々と規約もあって縛られる。卿家は別名国の犬。賄賂や不正を見つけて申告すればする程得があるし逆なら厳しい罰則や下手したらクビや卿家除名。
華族は敵に回しても良いけど卿家には敵対するなと言うし役人嫌いなら卿家を責めろとも言う。
信用評判世間体が大事な家なので花街で派手に遊女と遊ばないし、中流層でそこまでのお金持ちではないので贔屓しても無駄。
そこらで女遊びは絶対にしない。せいぜいコソコソ1人と不倫や1日登録者とその場限りに貯めたお金で花魁とたまに。嫁に密告されない程度とは花街での知識。
嫁に出ていかれる方が恥なので卿家の男性は優しくて素敵なんていうけど卿家は卿家とつるむから中々知り合えないとは女学校時代の話題。
花街では無視されがちで女学校にはそこそこ憧れられるのが卿家の男性。
「ルルさんが親戚の為に結婚って卿家のお嫁さんを目指しているってことですか?」
「もう何人か会っていますけど私だと卿家の男性は合わなそうです。私って見た目はかわゆいお淑やかお嬢さんだけど中身は長屋の溌剌オババなんで。長屋の元気な娘くらいならええんですけど。なので変わった方を探してもらっています。なぜ落ちないのか分からないですけど私も恋をしたいです」
「内緒や秘密なのになぜ今日のついさっき会った私にそのようなことを……」
ネビーが私に惚れたみたいに見えたから、というようなことを先程言われた。
「お嬢様ってニブいですか?」
「……あの」
「家族も親戚も友人も居なかった土地で5年も自力で暮らした上に長屋に乗り込んできた大豪家のお嬢様とは兄にぴったし。立ち振る舞いに仕草などで卿家の女性よりも厳しい家だったと分かります。兄はお嫁さんはお嬢さんが昔々のかなり昔から夢なのでいきなり隣にお嬢様が現れてドキドキなのでしょう」
南地区へ来て1回だけ高熱を出したけどその時みたいに熱くなる。ルルの推測なのでハズレだろうけどこれは恥ずかしくてならない。
「あんなに綺麗な音色を奏でる方は悪い人ではありません。かわゆい照れ照れ顔なので意味なく諦めないように、パッと見は格差婚でも実は少々違うと教えてあげようかと。兄が卿家跡取り認定されるとかなり特殊な存在です。私は人の恋路には敏感です。副隊長さんも何か感じたんだと思います。本人達次第なので余計なことは言いません」
「か、か、かわゆいって愛くるしいって意味でしたよね。照れ顔? 照れ顔ですか⁈」
いつ⁈
私はいつそんな顔をしたの⁈
ルルはニッと歯を見せて「半年、1年後にどうなっているか楽しみです」と悪戯っぽく笑った。




