章 第十六「20120618-0619fragment■///シャーマンの本分」第一幕
起きてはならないことが起きてしまった、と会議の席で稚雁は繰り返し強調した。蛟が霞ヶ浦を出て以来、彼らの目的は常に海にあった。海への脱出だけは防がなければならなかったと幼い巫女は言うのだった。
「ええ、あなたが言うのだからきっとそうなのでしょうね。でもそれは既に起きてしまった」「これからの話をしましょうよ。彼らが海へ出た今、一体何が起きるって言うの?」
数時間前の出来事以来ずっと緊急のニュース速報が流れたままのテレビ画面を苛立ち紛れに指差しながら、里亜が言った。建設的に話を進めようとする由亜と里亜の問いに対して、稚雁はなぜか語ることをためらっているようだった。ふと玻那華の個室がある二階へ続く階段を見やった。一緒に戦場から戻った玻那華は基地に戻るなり閉じこもったまま顔を出す気配がない。
「……元々海に住んでいた毒蛟が、退いていく海に取り残されて湖のヌシになった話は知ってる?」
「ええ、聞いたことはあるけど。今回の騒ぎの発端になった霞ヶ浦の伝承よね?」「大太郎法師とゆかりのある山や湖沼には今でも霊的な力がその頃のまま残っている……霞ヶ浦もそういう場所ね」
さすがは修験道に通じる者たちだ。大太郎法師と言えば太古の昔に日本の国土を創り上げた巨人だが、そんな話が引き合いに出ても動じる様子もない。
「そうは言っても、霞ヶ浦の毒蛟は別の妖鬼に倒されて吸収されてしまったんでしょう?最初に湖を出た時とは別物になってる訳だし、それの目的は魚だったときとは違うんじゃないの?」
「その通り。わたくしも最初は、長い眠りから覚めた妖怪が元々棲んでいた広い海へ出たがっているんだと思ってた。でも彼らの目的ははじめからそんな所にはなかったのよ。それが今日はっきり分かったの」
電話の着信音が鳴り響く。おもむろに取り出したスマートフォンで由亜が二言三言話すとすぐに忍海に手渡した。
「和泉さんから」
初めて触れるスマホに忍海がぎこちなく耳を当てる。
「あたしだ。ああ、今見てる。それで、テレビ以上の情報は?」
報道が始まった当初、テレビ局は海を泳ぐ無数の罔象に対してヘリコプターでの追跡を敢行していたものの、数時間が経った今は神社本庁が圧力を加えたためか実況中継の類いは全て取り止めになっていた。
神社本庁によって「庚型」と命名された新型罔象によってレイラインにこじ開けられた亀裂には無数の罔象が殺到した。中には味方同士の押し合いへし合いでレイラインに触れ、一瞬の内に滅却されてただの鉄クズに戻ってしまった個体もあったものの、ほとんどは傷ひとつ負うことなく海へ出た。そこまでは、あの場に居合わせた巫の四人が自分の目で見ていた。
〈罔象の一群を追跡したところ、まっすぐ東へ泳いだ後北上し、日本海溝付近で消息を絶った〉
「見失ったのか」
〈見失ったと言うよりも、相手が海底へ潜水して追跡不能になった、と言う方が我々にとっては好ましいわね。でもほとんどはその前に脱落している。結局のところ、彼らは古びたスクラップでしかないもの。海水の浸食にはそう長くは持ち堪えないんじゃないかしら〉
「だがいずれにせよ奴らはそこを目指し、辿り着いた訳だ。目的は何だったんだい?」
〈不明、と言うしかないわ。今のところは。今、専門家の調査チームが反応の消えた地点へ向かっているところよ。真相が明かされるかは全くの未知数〉
「まあいい、引き続き頼む」
通話は切れた。忍海がスマートフォンを里亜に返す。
「玉前さんは、もっと他に知ってるんじゃないの?」
「あの人たちの目的は、わたくしたちの想像を遥かに超えているんだと思う。予感はある。でもそれが一体なんなのかが、わからない」
「起きてはならないことが起きてしまった、あなたそう言ったのよ?私たちも確かにそう思うけど、ことの重大さを本当の意味で理解しているのは玉前さんだけなんじゃないかしら」
「なにか言えるとしたら、今のこの状況はわたくしたち自身が招いてしまったということ。それだけよ」
「確かさっきもそう言ってたわね。詳しく聞かせてもらえる?」
敢えて核心を避けているような曖昧な言葉にむっとしながらも、由亜は根気良く尋ねた。
「端的に言って、今のやり方ではわたくしたちに勝利はないと思う。既に死んだ者たちに二度目の死は訪れない。正しく調伏しない限り、あの人たちは何度でもわたくしたちの前に立ちはだかるでしょう。わたくしたちが憎しみを募らせ、あの人たちがそれを吸収することでその姿はどんどん人間から遠ざかっていく。それは本来、あの人たち自身も望んでいないはず」
「これは戦争なのよ。そんな生やさしいこと言ってたら」
「これは戦争なんかじゃない、ぜんぜん違うわ。これは弔いよ。異質なものと出会った時、こちら側の思惑を貫き通せばそこには必ず怨恨が残る。障礙神はそれを媒介にして現世に業を為す。わたくしたちのご先祖様はこういうものへの対処法を熟知していた。そこに学ぶべき。災いの火種となる厄介な存在に対して、福の神と同等にもてなすことで荒ぶる力を鎮め、元いた場所へお帰り願う。そういう知恵を、わたしたちは既に持っているのだから」
議論は最後まで平行線を辿った。結論が出ないままお開きとなり、小角家の二人は基地内に与えられた個室に入っていった。夜は更けていた。
「はなか、お風呂空いたよ。いっしょに入ろ?」
「今日は入らない」
「女の子がお風呂に入らないなんてありえないわよ?熱があるわけじゃないんでしょ?」
部屋に閉じこもったままの玻那華の返答に稚雁は呆れ気味だ。全く、会話だけ聞いていたらどちらが年上か分からない。
「ゆあとりあったら、一番風呂譲ってあげたら二時間近く出てこないんだもの。もううんざり、二度と譲ってあげないんだから」
おどけた調子で呟いてみても、室内から反応はない。
「はなか、入ってもいい?」
「いいよ。別に、鍵締めてないし」
金属製の重い扉を開けると、玻那華は基地の個室に設えられた寝台の上で毛布にくるまってうずくまっていた。その横に腰かけると、丸くなった玻那華の背中を優しく撫でた。
「今日はつらかったわね」
「……二人に言われたことについて考えてたの」
「あんまり考え込まない方がいいわ。ちかりたちのこと、年下だと思ってばかにしてるのよ」
「ううん、違うの。最初のうちはわたしにもそう思いたい気持ちがあったけど、頭を冷やして考え直してみたら二人の言う通りだって気づいた」
「はなかが闘う理由は身勝手なものなんかじゃないわ」
「あやちゃんのこと、どうしても諦められなかったの。ちかちゃんに、あの子はあやちゃんじゃないって言われても、そんなはずないって本気で思ってた……」
「今はどう思う?」
「……わかんない。もし、あやちゃんが生きてて、フドウにそっくりのあの罔象から助け出せたとして、ぜんぜん別人だったらって思うと……そっちの方がずっと怖いもん」
玻那華が此岸をさまよう罔象に対して伊能彩雲として呼びかけたから、それは彩雲の姿を手に入れた。以前から稚雁が指摘していたことだった。彩雲を乗せた罔象姫に対して、玻那華は今日親友を助け出すどころか近づくことすらできなかった。
「……自分の感情を抜きにして、もっと大きな目的のために役割を果たすっていうのはどんな気持ちがするのかな」
震える声で尋ねる玻那華にかける言葉を、稚雁は慎重に選んだ。
「……はなか。明日、ちかりに付き合って。見てほしいものがあるの」
「え……?」
稚雁の真剣な眼差しを、玻那華は見つめ返した。
「はなかには自分が剣を向けている相手が何者なのか、ちゃんと知っておいてほしいから」




