章 第一一「20120519-0520fragment■///ごせんぞさま」
夕方になって、暇を持て余した大工衆数人が稚雁の指揮の下布団一式を本堂に上げた。大人たちを思い通りに動かせたことで稚雁は得意満面である。
「本当に、これが必要なことなんだろうね」
「ええ。わたくしは嘘なんかつかないわ。いつだってね」
「どこぞのお姫様だろうと、約束は守ってもらうよ。本堂の備品には」
「本堂の備品には手を触れない。夜が明けるまで勝手に外には出ない。まずいことが起きたら必ず助けを呼ぶ。へいきよ。はなかがいっしょだもの」
「いつもみたく百鬼夜行を引き起こして一晩で荒れ寺になりました、なんてやめてくれよ」
「心配ご無用よ、わたくしは今晩は寝ないから。心配ないわ。あのお布団はつき合ってくれるはなかのためのものだし」
そこら中から隙間風が吹く本堂で一晩過ごさなければならないなど、玻那華には全く寝耳に水だった。五月とは言え夜は冷えるし、いくらお寺の子どもでも夜のお堂は怖い。
「玻那華様には誠にご迷惑をおかけしてばかりで……」
「相楽さんが謝らないで、お姫様のわがままにはわたしも慣れてきたし」
申し訳なさそうな相楽に玻那華はつい見栄を切ってしまう。稚雁のわがままはいつも突然だ。誰にも相談せずじっくり考えた末の結論なのか、本当に今閃いた思いつきなのか見分けがつかない。いきなり一晩本堂で過ごすと言い出したのも、一体どんな理由があるのか一切説明してくれない。忍海は断固反対していたが、相楽の泣き落としで渋々承諾したのだった。
「姫様は一度やると決めたことはどんな無理を押し通してでも必ず成し遂げるお方です。何も起きない内に、どうかお許し頂きたい……」
あのときの相楽のげっそりした表情から、皆何となく察したのだった。どんな無理を押し通してでも、と言うのは人並みならぬ努力をして、などという意味ではなく超自然的な働きかけによって、という意味に違いなかった。もはや誰も反対せず、玻那華が見張っていることを条件に認められたのだった。
「万事順調ね。はなか、わたくしたちも支度を済ませましょう」
「支度って?」
「儀式を執り行うのよ?俗世の垢を洗い流さなきゃ」
「……お風呂ってこと?」
「ご明察」
長月家の浴室には一般的な一人用の湯船しかないものの、痩せっぽっちの二人なら仲良く入れるだけのスペースはある。
「はーあ、ごくらくごくらく……」
玻那華に抱っこされるかたちで湯船に浸っている稚雁が呟く。手持ち無沙汰の玻那華がする後頭部のマッサージを稚雁は気に入っている。
「儀式の前って言うから、もっと特別なことするのかと思ってたけど……」
「何を期待していたのか知らないけれど、いつも通りで充分よ。いつも通りで充分……」
「……ちかちゃんには、もう答えがわかってるの?」
「答えって何の?」
「何のって……」
「ちかりにはわからないわ。ちかりは何にも知らないから。ただ、わかる人に聞きに行くことができるだけ」
その言葉の意味を、玻那華はしばらく考え込んでいた。棟梁が話してくれた器の話と、何となく重ね合わせることができる気がした。
「ありがとう、はなか」
「どうしたの?急に……」
「ここでの生活は楽しかったわ。できることならもっとここにいたい。面倒なことをぜんぶ脇に押しやって……でも、そんなことしたって本末転倒だものね。玉前家の息女として、駄々をこねてちゃいけない。わたくしは戻らなくちゃいけない。あなたが先へ進まなければならないように」
「……フドウは治るんだね?」
「ええ」
「危険な仕事なんか投げ出してわたしといっしょにふつうの子どもみたく暮らしていたい、それがちかちゃんのほんとの気持ち?」
自分の腕に抱きすくめられた小さな女の子は何も言わなかった。
時折、目の前にいるのが誰なのか分からなくなる。安易に多重人格と呼ぶには統率が取れ過ぎているが、しかし彼女の眼、彼女の耳、彼女の口、彼女の足を通して何十という人々が入れ替わり立ち替わり見て、聞いて、語り、歩き回っているかのように見える時がある。稚雁の味方で、助言する立場のようだが所詮は肉体すら持たない残留思念だ。それがかつて人であったのなら、稚雁に味方するふりをして稚雁を利用し、自分の願いを成就させようとする不届き者もいるだろう。そんな、普通なら精神分裂さえ引き起こしかねない状況に置かれて尚、彼女本人の人格はかわいそうなほど一〇歳の女の子相応のか弱さを保ち続けているのだった。
本堂に入ると、不動明王を祀った祭壇の前に布団と文字コードの対応表を収録した古い巻物、書道の道具一式が置かれていた。稚雁が命じて用意させたものはそれだけだった。残念ながら長い夜の暇を潰せるアイテムはないらしい。まだ時刻は一九時を過ぎたばかりと言ったところだが、これでは布団に入って暖を取るしかあるまい。
玻那華がせっかく締めた本堂の戸が稚雁の一存で全開になる。月が明る過ぎるし風がびゅーびゅー音を立てて吹き込む。布団にくるまりながらも、玻那華はすっかり湯冷めしていた。
「開けておかなきゃだめ……?」
月明かりの射し込まない本堂の最奥に納められた不動尊に背を向けるかたちで正座した稚雁は何も答えてくれない。儀式は既に始まっているようだった。玻那華ももちろん起きているつもりではあったものの、何しろ百鬼夜行に巻き込まれずに済む夜が久し振りだったので僅か五分で眠りに落ちてしまった。ぱりぱりに乾いた蛹の裂け目から瑞々しい蝶が舞い出るかのように、身を清めた巫女の精神が人知れず変容を遂げる様を玻那華は見逃した。月だけがそれを見ていた。
チョークで黒板を引っ掻くような不快な音で目が覚めた。
「う、うぅ~~……ん、こんなにぐっすり眠れたのいつぶり?」
寝ぼけまなこをこすると、目の前には不動明王の祭壇がでんと構えていた。一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなりかけたもののすぐに経緯を思い出す。後ろを向けば、稚雁もいる。筆を持って一心に何かに取り組んでいる。どうやら硯で墨を磨り下ろす音が、不快な音の正体であったらしい。さっき見た時よりも月が西へ傾いている。まだ夜明けまでは時間がある。
「ちかちゃん、まだかかりそう?」
「稚雁?いいえ、人違いね」
普段ツインテールにしている長い髪を珍しくポニーテールで一本にまとめている。振り向いた稚雁の眼差しは、確かに別人のようだった。
「私は長月サネ。こんばんは、玻那華さん」
稚雁の身体に霊が取り憑いて対応表の抜けを埋めている。状況を頭では理解していても、実際に目にするとやはり混乱する。口調だけでなく、声まで変わっているのだから無理もない。
「そうそう、あなたにとってははじめましてなのよね。悪いけど、少し待っててもらえるかしら。これをぺぺっと仕上げちゃうから」
恐る恐る近づいて見てみると古い巻物を開いた横で、新しい紙に対応表を最初から書き起こしている。
「すごい……誰もわからなかったのに。ぜんぶ頭に入ってるの?」
「このくらいのこと、私の時代なら暗誦できて当たり前よ。もう分かる人が誰もいないなんてね」
雑談しながらも、すらすらと巧みな筆捌きで書き進めていく。
「……ねえ、私のことは何て聞いてた?」
「えっと……長月サネさん、三〇〇年前にフドウに乗った最後の脇侍って、おばあちゃんから」
「……それだけ?」
「あなたが誰よりもフドウを乗りこなしていたって……」
言い淀む玻那華に気を悪くしたサネは大きく溜め息をついた。
「人の世の儚さを、死んだ後でまで思い知らされるなんてね。まあ良いわ。対応表はこれで完成。うーん、身体が重い。身体に重さがある。久し振りの感覚」
筆を置いてぐっと伸びをして立ち上がり、開いた戸の外へと歩くと、サネは円筒形の朱塗りの欄干に腰掛けて見せた。墜落すれば命はない高さだ。見ているだけでヒヤヒヤする。
「まだ夜が明けるまでは時間があることだし。少しお話ししましょうよ」
言われるまま、玻那華は立ち上がってサネの隣に座った。サネの声色には逆らえない何かがあった。崖の真下から吹き上げる風が玻那華を肝まで冷やす。
「まずはおめでとうと言うべきかしら。フドウの脇侍の座をよその娘から奪還した訳だし」
「よその娘……?」
稚雁の口から不意に発せられた言葉の意味を、玻那華は最初読み取ることができなかった。風が吹きすさぶせいで聞き間違えたのだと思いたかった。
「あの髪の短い跳ねっ返りの生意気な女よ。名前は確か」
「あやちゃんのことを言ってるの?」
「そう、伊能彩雲。風流な名前よね。決闘であなたが負けた時はがっかりしたわ。私としてはよそ者にフドウを譲り渡す気なんて更々なかったけど……会ってみたら思ったより気骨のある子だったから特別に許してあげたって訳」
骨張った薄い拳をぎゅっと握り締めて、玻那華は必死に衝動を堪えようとした。
「……やめて」
「結果は散々だったわね。あの子も身の程を弁えていれば早死にしなくて済んだのに。私も許しを出すべきじゃなかったのかも知れないって、今でも少し責任を感じてる」
「……もうやめて」
稚雁をぎっと睨みつけて、玻那華が口走る。
「あなたが誰だろうとあやちゃんを侮辱するのは許さないから!」
普段の稚雁とは違う妖しい光を放つ瞳をまともに見た瞬間、甲高い耳鳴りと共に全身が麻痺を受けた。落差二〇mはある崖の上でゆあーん、と頭から滑り落ちそうになる玻那華をサネが押さえて抱き起こす。
「ご先祖様を敬いなさいって、忍海に教わってないのかしら。あなたの怒りの矛先は的外れよ。伊能の息女が、本来なら縁のなかった剣術を習い始めたのも、フドウを知ったのも、それに乗る羽目になったのも、蛟に喰われて死んだのも、全てあなたがしっかりしてなかったから。責めるなら、あなた自身を」
長月サネの言葉は途中で途切れた。稚雁の両眼からは妖しい輝きが消え、代わりに大粒の涙が溢れた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、はなか!……わたし、何てひどいこと……!!」
筋肉の硬直は解けたものの、まだ動けずにいる玻那華を抱き締めて、稚雁は年齢相応に大声で泣き叫んだ。言うまでもなくさっきまでの言葉は稚雁が言ったものではないし、稚雁が謝らなければいけないことなど何ひとつなかった。そんなことは分かりきってはいたものの、年上としてかけてやるべき気の利いた言葉を玻那華が思いついたのは、自分もひとしきり泣いた後のことだった。
次回予告
無謀な計画を推し進める巫女に、少女は否応なく協力を迫られる。時を同じくして現れた敵を前に、響き渡るは怒れる如来の雄叫び——
次回!木造ロボ フドウ「玻那華の初陣」
今こそ、全ての諸金剛に礼拝せよ
次回は8月9日(月)更新です




