章 第一〇「20120512-0519fragment■///姫巫女の見る夢」第一幕
「まさかここまでとはね……」
「申し訳ありません。何とお詫びすれば良いか……本当に申し訳ありません……」
朝食の席に着いた玻那華の様子に唖然とする忍海に、相楽はぺこぺこと平謝りし通しだった。当の玻那華はこの世のものではないものでも見たかのようにげっそりして、目の前に出された朝食に手をつけようともしない。
昨日は激しい夜だった。
ことの発端はと言えば、長勝寺の母屋に泊まることになった稚雁が言ったわがままが全ての元凶だった。
「わたくし、はなかといっしょに寝るわ」
「なりません」
即答する相楽に稚雁はふくふくしたほっぺたをぷくーっと膨らませた。
「例え姫様でも言って良いわがままと口にしてはならないわがままがございます」
「それはどういう意味かしら」
「そのまんまの意味にございます。我々は長月様にご厄介になる身、ご迷惑をおかけする訳には参りません」
「どうしてはなかと寝ることがご迷惑になるのよ!」
「どうしてって、それは……」
両者は折れず、次第に口論のようになっていくのを見兼ねた玻那華はとうとう言ってしまったのだった。
「あの!わたしは構わないから。知らないお家に泊まるのって不安だよね。わたしの部屋においで?」
「はなか……」
「玻那華様、お優しい心遣いは痛み入るのですが」
「女の子同士がいっしょの部屋で寝ることのどこが問題なの?相楽さんにはなにか反対する理由があるんですか?」
「ですからそれは……」
相楽は口をつぐんだ。言葉が喉まで出かかっているのを抑えているような、気になる仕草をしていた。
「決まりだね。玻那華、応接間の押し入れにあるお客様用の布団を一式お前の部屋に持って行きな」
「いえ、お二人は応接間でお休みください。後生ですから、せめてそれだけは従ってください……」
理由を尋ねてもやはり答えてはくれなかったものの、懇願する相楽の様子があまりにも必死だったのでとうとう玻那華も承諾した。
玻那華と稚雁がお風呂から上がって応接間に入ると、既に寝る支度は整えられていた。しかし様子がおかしい。
「何にも、ない……なくなってる?どこかに動かしたの?」
応接間にあったテーブルや座布団、本棚その他全てが隣の部屋に移され、押し入れの戸まで外されていた。あるのは畳の上に敷かれた二組の布団だけ。
「やれるだけのことはやりました。これで安全なはずです」
「相楽さん、これって……」
いくら安全だと言われても今のこの状況そのものに身の危険を感じる。
「さあ、もう夜八時を過ぎていますからお休みください」
「いや、八時だとまだ眠れないかな」
「ふあぁああ……」
大きなあくびを品良く手で押さえる稚雁。
「そうね。相楽の言う通りもう寝ましょう」
「寝るの?そっか、ちかりちゃんまだ小学生だもんね……そっか……そっか……」
言われてみれば、一日中眠って過ごしていた昨日までとは一変、お葬式に出て大勢の男たちの給仕をして過ごした玻那華の身体には疲労が溜まっていた。きっと横になったらすぐに眠れるだろう。だがそれでも小学生の稚雁より先には寝たくない。年上としてのプライドがある。
きっちり閉じられた戸の向こうで相楽が何やらまじないらしきものを唱えているが、気にしないことにして布団に入る。
「相楽がごめんなさいね。驚いたでしょう?わたくしのことになるといつもあんなふうに大げさなの」
「へいき。たいせつにされてるんだね。あんなに心配してくれる人がいて、少しだけうらやましいかも」
「はなかのおばあさまだって、はなかのことがだいじなはずよ」
「それは、わかってるけど」
「複雑なのね」
稚雁の小さな手が玻那華の髪を撫でる。
「尊敬すると同時に憎む気持ちがある。愛しく思うと同時に疎ましい。どれも相手をたいせつに思えばこその感情よ。それで良いのだと思う」
「ちかちゃんと相楽さんはどのくらいのつきあいなの?」
「生まれた時からずっと。相楽はもともとお母様の侍従だったのよ。ほとんど勘当に近いかたちで嫁いだお母様に、幼馴染も同然だった相楽だけがついて来てくれたの」
「……感動?」
「勘当。お母様は一人娘だったから、両親はお婿さんを迎えるつもりでいたの。でもお父様に一目惚れしたお母様が責任とか権利とか、何もかも放り出して結婚してしまって。母方のおじい様とおばあ様には、わたくしは会ったことがないわ」
「ふくざつなんだね……」
とろんとした目で稚雁を見つめる。稚雁の小さな身体を抱き寄せると、玻那華はそのまま眠り込んだ。
「うぅ……はなかの身体、痩せ過ぎててくっつくと骨に当たって痛い。もう少しお肉をつけるべきね。三日間何も食べてなかったって聞いたけど……」
左胸の辺りに耳を近づけてみる。まだぺったんこなおかげで心臓の脈打つ音がよく聞こえる。
ふっ、と大きく息を吸い込むと、瞬間的に全身の筋肉が硬直した稚雁の頬に涙が一滴流れた。それは稚雁が流したものではなかった。その声も稚雁のものではなかった。
「自分自身が死に近づくことで死者に寄り添おうとしたのね。優しい子に育ってくれて本当に嬉しいわ、玻那華。でもあなたの身体は宿している精神ほど強くはない。幼い頃から熱ばかり出していたのを今でも思い出す。無理しないでね。稚雁ちゃんには私からよく頼んでおくけど……」
カタカタカタカタ……微弱な震動で目を覚ました玻那華は、かすかな物音に耳を澄ませた。天井の裏で梁が軋む音がする。
「地震……?」
言いながら、明らかに地震とは性質が違うことには気づいていた。家屋だけでなく空気までもが小刻みに振動している。
「起きて、ちかちゃん。なんだか様子がへんだよ」
揺すってもぐっすり眠り込んでいて起きる気配がない。一段と震動が強まると、何やら呻き声らしきものが漂ってきた。暗い押し入れの奥から、いるはずのない女の声が聞こえる。
「誰かいるの……?」
玻那華が問うとぴたりと震動が止み、声も途切れた。外の様子を見ようと襖まで歩いて手をかけるがびくともしない。
「開かない……!どうして?!」
しゃく、しゃく、と雪を踏むような音に振り向くと髪の長い女が、押し入れから床を這って現れた。両腕がなく、蛇のように這い回るその姿に玻那華は完全に肝を潰した。
「菖蒲伴天連邪宗門、岸辺の苛草疎んじて八重に垣立てさようなら、囲いで囲って勝ったつもりの濡れ烏帽子、花散里で籠目を覗いたあんたが盗んだ後ろの正面返しておくれ」
おぞましい声しか出せない喉奥から懸命に猫撫で声をひり出してそう繰り返しながら、押し入れから室内を覗き込んでいる。稚雁が眠る布団は目と鼻の先だ。どうにかして稚雁を連れて外に出なければ。しかしどの襖も固く閉ざされている。その内再び震動が始まった。今度はより強く、床が波打つかのように揺れた。無数の腕が襖を破って突き出し、玻那華の身体に掴みかかる。たまらず悲鳴を上げる。
「誰かが盗んだ後ろの正面、誰かに盗られた後ろの正面、後ろの正面盗ったのだあれ」
腕を欠損した女が押し入れから這い出て玻那華へ接近する。強い風に木々がざわめき、雲もないのに雷がこだまする。月明かりで露わになった女の醜い容貌に玻那華は腰を抜かした。暗い押し入れの奥から亡者や魑魅魍魎が後から後から湧き出す。
白い乳液上の物質が空中に伸びて、その場に固まって動けなくなった玻那華をつまんで稚雁の許へ引き戻す。瞼を閉じたまままじないを呟く稚雁の口からその白い物質が編み出されている。玻那華を助け出したそれはエクトプラズムと呼ばれるシャーマンの技だった。窮地を察知した稚雁が眠りながらにしてこれを引き出したのだった。しかしそんなこととは知らない玻那華はますます混乱した。
今や部屋全体が揺れている中で布団の上だけが静かで安全だった。さながら荒れた波に厳として直立する岩のように。稚雁の巫力がこの部屋に充満する危険な霊威から守ってくれている。そう悟った玻那華は、それからずっと何があっても離すまいと決めて稚雁を抱き締めて長い夜を過ごした。
そんな訳で玻那華は一睡もできずじまいだった。
「はなか、ひどい顔してるわよ?朝食の前に顔を洗ったらどう?」
稚雁は何食わぬ様子で朝食を食べ進めている。
「う、うん……そうだねちかりさん」
「どうして急にさん付け……?」
確かめなければならないことがいくつもある……。そう考えてふと、昨日の晩相楽の様子が変だったことを思い出した。
「相楽さん、幽霊みたいな、妖怪みたいなのが押し入れからいっぱい出てきたんだけど」
「あれらは姫様の魂魄に絡みついた残留思念です」
「……なんて?」
「姫様は生まれながらのシャーマンです。その身に具わった強い巫力で高位の霊魂を招きもしますが、同時に成仏しないまま此岸をさまよう想念の類いも引き寄せてしまう。そういうものが、姫様がお眠りになる間姫様の夢と共鳴し、力を得て暴れるのです」
「相楽さんは知ってたんだね」
「姫様が幼い頃は、従者たちが毎夜交代でお側について番をしておりました。すぐ近くに人の気配がないとぐずって大泣きされるものですから。泣き止まないともっと酷いことになるんです。何しろ毎晩のことなので稚鶴様にお任せしておく訳にもいかず……いやはや、あの頃は大変でした」
「人様の前で小さい頃の話はやめてよ。恥ずかしいでしょう?」
「今のは照れるとこじゃないよ」
恐ろしい目にあった後で、玻那華のツッコミもいくらか辛辣だ。
その後の話で、部屋から一切の物品を運び出したのは物が飛んで怪我をしないためであり、相楽が部屋の外で唱えていたのは玻那華が逃げ出して被害が広がらないよう部屋に閉じこめておくためのまじないだったと分かった。
「姫様がお目覚めの間は、姫様ご自身の力であれらを抑えておけるので問題は起きないのですが……」
「それってつまり……あんなのがずっと、ちかちゃんの頭の中にいるってこと?ちかちゃんはへいきなの?」
「要するにラジオといっしょよ。ザーザーって嵐のような電波の波の中から聞きたい声に合わせてダイヤルを回すの。それで、残りはぜんぶ無視する」
「……もし、ダイヤルを合わせまちがえたら?」
「まちがえない。一度もまちがえたことないから」
こともなげにそう言い放った童女の眼はいつか見たときと同じく澄み渡っていて、内に秘めた狂気はどこにも見えなかった。あれだけのものを心に抱えながら純粋さを保っている目の前の童女に、玻那華は言い知れぬ畏れを抱いた。
次回は8月2日(月)更新です




