章 第八「20120511fragment■///告別」
おやつの時間はもうおしまい。苦い果実を、呑み干せ読者————
ベッドの上でうずくまる玻那華の瞼越しに、締めきったカーテンを通して朝の光が射し込む。一晩中泣き腫らした目で視界は霞んでいた。その夜も結局、一睡もできないまま朝を迎えた。目覚まし時計の上に手を置き、アラームが鳴ると同時に切る。
あの日から三日、学校には行っていない。水道水で喉を濡らすことで辛うじて生きているような状態で、食事にも手をつけない日が続いていた。だがそれでも、今日は何もかもきちんとすると決めていた。
気だるく身を起こす。ベッドから一歩も動かずに過ごしていたせいで全身の関節がきしむ。寝間着も下着も全て脱ぎ捨て、三日ぶりに着替える。ワイシャツを着て上着に袖を通す。三日前に祖母がクリーニングに出した制服から漂う柔軟剤の香りを新鮮に嗅ぎ取った。全てが三日前のまま時間が止まっていた部屋のあちこちで少しずつ時間が進んでいく。
ジャンパースカートにベルトを巻いて初めて、玻那華は自分がすっかり痩せこけてしまっていることに気づいた。元々からして、特別背が高い訳でもないのにひょろひょろしていて肉付きの良い方ではなかったが、今の玻那華は一層体格が貧相になって髪も肌もかさついており、とても一二歳の女の子とは思えないみすぼらしい有り様だった。
溜まっていた寝間着を集め、脱衣場へ持って行く。
「シャワーぐらい浴びたら」
玻那華が黒っぽいものと白っぽいものを仕分けているところに忍海が通りがかると、溜め息混じりにそれだけ言って立ち去った。
せっかく着替えた制服を脱いでシャワーに打たれた。溜まった皮脂汚れを掻きむしると髪が抜けた。
三日ぶりのお風呂ですっかりぱさついた髪にドライヤーを当てて居間に出ると、テレビでは東金で起きた罔象の襲撃について報じていた。神社本庁の箝口令を遵守していたのも今は昔、大勢の市民を巻き込んだこの一件を機に、マスコミは不安がる国民を味方につけて政府を批判する側に立つと決めたようだった。その論調は極めて過激だ。
「三日前からずっとこんな調子だよ、全く……」
忍海の苛立つ気持ちに玻那華は内心共感した。ニュースの報じ方に対して、きっと同じ感想を抱いているのだろう。神騎や罔象を実際に見たこともない人たち、自分が事件に巻き込まれた訳でも家族や知り合いが被害に遭った訳でもない人たち。彼らが並べ立てる正論に玻那華は反感を覚えた。この人たちは一体、何を心配し、何に対して怒り、何のために口を開くのだろう。
「食べれそう?」
体力の落ちた玻那華の前に承一が温かなお粥を出す。
「戻さないように、ゆっくりな」
かさついた喉の奥から消え入りそうなか細い声でいただきますを言うとまず一口、お粥を口に含んだ。心配そうな面持ちでその様子を見守る承一。卵とお米に絡んだ控えめな塩気が胃の細くなった玻那華の口に合っていた。吐き戻すことなく黙々と食べ進める玻那華の様子を見て承一もようやく人心地がついた。離れた場所から忍海も見ていた。承一と玻那華は年の離れた従兄妹同士。厳しく接することしかできない忍海に代わって玻那華のケアはずっと承一が担ってきた。
三日もの間絶食状態だった玻那華がものを食べている姿に承一が頬を緩ませているのをよそに、玻那華はニュースを食い入るように見ていた。テレビ画面下のテロップに行方不明者の氏名が繰り返し流れる。その中に伊能彩雲の名前を見つけた。
午前八時半、真言宗の僧侶としての正式な装束に身を包んだ承一と共に忍海と玻那華はセレモニーホールへ向かった。玻那華は車に揺さぶられている内に静かに吐き気を催していたものの、生憎お粥しか入っていない胃は空っぽも同然で吐き出すものは何もない。目眩を伴う頭痛で瞼の裏がちかちかする。
葬儀を執り行いたいと彩雲の両親から相談を受けたのは、行方不明になってから僅か二日後のことだった。
もしかしたらあの子が何事もなかったかのようにある日突然帰って来るかも知れない、そんな残酷な期待に裏切られながら娘を待ち続けることに耐えられそうにないのです。そう語った両親の表情はただただ疲れが滲んでいるだけで、その頬に涙が伝うことはなく、目は虚ろだった。聞いていた忍海も承一も頷くばかりで、自分たちの知ることを敢えて白状しようとは決してしなかった。なぜあの日、彩雲が学校を抜け出して事件現場へ向かったのか、そこで一体何があったのか。真実を葬り去るつもりなのだ。
彩雲の遺影の前で承一が読経する間、玻那華はやり場のない憤りに身を震わせていた。八鶴湖で蛟に襲われ死んだ彩雲の魂がこんな場所にはないことを玻那華は知っている。玻那華は六つの時に死のにおいを知った。ここにはそれが立ち込めていない。今、空っぽの棺の前で承一は一体何を鎮めようとしているのだろうか。
玻那華は真実を話すべきだった。忍海と承一の隠蔽に加担したくないのなら、そうしなければならなかった。
あの日、フドウを発見したとの和泉からの知らせを受けて、玻那華たちが辿り着いた時には全てが終わっていた。湖の浅瀬に腰かけるように静止したフドウの胸部装甲は無惨に剥ぎ取られて、コクピットが露出していた。その中には誰もいなかった。
「あやちゃん……?」
忍海と承一の制止も聞かずに、岸辺に下りた玻那華がコクピットを探る。
「あやちゃん……あやちゃんをどこにやったの?」
カタタタタタッ……フドウの内部で寂しげな駆動音が響く。
「ねえ!あやちゃんはどこ?!教えてよ!!いっしょにいたんでしょ!?」
玻那華の悲痛な叫びに、フドウは応えようとした。両脚と右腕を食いちぎられているにも関わらず。残された左腕が湖を指し示す。静かな湖面は見たこともないような赤色に染まり、岸辺には季節外れの彼岸花が咲き乱れている。
過呼吸になり、嗚咽に苦しみながら玻那華はフドウに乗り込み起動させようとした。満身創痍の騎体が糸で引っ張られたかのように宙に浮かぶ。
「玻那華ちゃん、一体何を……」
フドウの背面に白い光の点が現れ、円を描く。真円の光背は徐々に太くなり、やがてめらめらと燃え始めた。その勢いは神騎全体を覆い尽くさんばかりだった。
「あれは……」
「間違いない、迦楼羅炎だ。一〇〇年運用されたフドウの歴史の中でも僅か三回しか観測されなかったと云う……」
それは紛れもなくフドウに扱える最大の絶技だった。しかし、いかに強力な技を繰り出そうとも、それをぶつけるべき相手はどこにもいない。泣きじゃくる玻那華が、過呼吸のために気を失うとその怒りの炎も吹き消えて騎体は再び地面に横たわった……
それが、あの日見た全てだった。彩雲は神騎の操縦手だった。彩雲は罔象との戦いの果てに喰われて死んだ……。
告別式に参列した三四人のクラスメイトたちの中には、これが初めての葬儀になる子も多かった。いつも通りの制服を喪服代わりに着込んだ群れのあちこちからすすり泣く声が漏れている。皆動揺していた。その中にいて、一人玻那華は彼女の両親に真相を伝えることだけを考えることで正気を保っていた。
式が終わった後、彩雲の両親は会場の出口で、立ち去る参列者一人一人に挨拶していた。玻那華の番が来ると、二人はほんの少しだけ笑みを浮かべた。
「玻那華ちゃん、今日は本当にありがとうね。つらかったでしょう」
言わなきゃ、言わなきゃと思うほど唇が震えて、喉が渇いて上手く話せなくなる。その仕草を見て彩雲の両親の心には気の毒さが込み上げた。
彩雲と玻那華が初めて出会った時、お寺では玻那華の両親の葬儀が執り行われていた。そうして今日、この子はまた身近な人の死に直面している……
「あ……、あの……」
「玻那華ちゃん、彩雲にとってあなたは唯一無二の親友だったよ。あの子の勉強机には今でも玻那華ちゃんと初めて会った時に撮った写真が飾ってあるんだ。玻那華ちゃんにとっても、彩雲がそんな子だったら嬉しいな」
「それは!……、もちろんです……」
「こんなこと言うべきじゃないかも知れないけど、彩雲のこと、玻那華ちゃんには忘れないでいてほしい。でも覚えておくのは楽しい思い出だけで良いから。どうか玻那華ちゃんは自分の人生を生きて。あの子も、それを願ってると思う」
忍海の運転する車の中で揺られながら、玻那華はまどろみの中で彩雲との記憶を思い起こしていた。言うべきことはとうとう言えずじまいだった。真実を隠す沈黙と、言葉を並べてついた嘘。罰に値するのは一体どちらの方だろう。
「お前を家に送ったら、あたしは一旦会場の片づけに戻るよ」
「わたしも……」
「お前は留守番だ。承一と戻るまでおとなしくしてな」
「……ねえ、おばあ?」
忍海と二人きりの車内で玻那華はあの日からずっと疑問に思っていたことを口にした。
「どうしてわたしたち二人を試したりしたの?最初からわたしを乗せてくれてれば、あやちゃんがあんな目に遭わなくて済んだのに……。あやちゃんのお父さんとお母さんを悲しませなくて済んだのに。嘘だって、つかなくて済んだのに……」
「フドウの脇侍を決めるあの試合の時、お前には闘わなければならない動機があったのかい」
玻那華は言葉に詰まった。剣術の稽古もあの時の試合も、忍海に命令されたからやったまでのことで、それ自体が目的だった。
「あの子にはあった。あんたを守りたいって気持ちが。不動明王はそれに応えた。だからあの子は勝った」
「わたしを、守る……?」
「やっぱり、気づいてなかったね。自分も剣術を習いたいと言い出した六年前からずっと、あの子はあんたを守るために技を磨いていたんだ」
「わたしを……?何から……?」
「あたしとか、残酷な運命とか、その他色々さ。本当に……意地っ張りな子だったよ」
彩雲との思い出に耽っているのは忍海も同じのようだった。しばしの沈黙の後で、再び口を開く。
「闘う理由を持たない娘に、神騎は応えちゃくれない。そりゃあたしが命じればお前はフドウに乗っただろうよ。だがそれじゃあ駄目だったんだ」
今なら忍海の言葉も理解できた。思えば長い間、祖母の命令に対してそれが何のためになるのかを考えたことがなかった。だが八鶴湖の岸辺でフドウに乗って以来、自分の心に炎が宿ったことに玻那華は気づいていた。怒りだけではない、慈愛に満ちた不動明王の炎が。こんなに熱い気持ちを抱いたことは、祖母の言いなりになって生きていた玻那華にとって初めてだった。
境内の駐車場に入れずに、忍海の運転する車は車道で停まった。駐車場は完全に塞がれていた。
「何だい、こりゃ……」
降りて見てみると、長い荷台を連結した一〇tトラックが二台も停まっている。防水シートに覆われていて荷物の正体は不明だ。
「この辺りで工事をやるなんて話は聞いてないが」
「申し訳ありません、どなた様もいらっしゃらないご様子でしたので不躾とは思いながら停めさせて頂きました。近くに停めておける場所もなかったものですから……」
慌てて降りて来たトラックの運転手がぺこぺこと頭を下げる。半袖の作業着を着て、いかにもガテン系といった逞しい体格の大男だが、言葉遣いだけが違和感があるほど丁寧だ。二人が話している間、玻那華は銀色の荷台にプリントされた黒い文字を目で追った。
「玉、前、神社?」
「玉前神社!まさか、あなた読み方を知らないの?」
突然小さな女の子の声が玻那華の無知を叱責した。見ると運転席の窓から身を乗り出して叫んでいる。ほっぺたを膨らませていかにもご立腹のご様子だ。
「姫様!危ないですからおとなしくしててください!」
「わたくしに命令しないで!」
「姫様……か」
大男がすっ飛んで行って女の子を肩に担ぎ上げる。その溺愛ぶりに忍海はいささか呆れ気味だ。
忍海と玻那華の前で下ろされた女の子が目配せすると、大男が折り畳み式の台を取り出した。それに立つと玻那華よりも少しだけ目線が上になる。
「これでよし」
姫カットの前髪から覗く気の強そうなくりくりした釣り目、ぷっくりした口元に浮かんだ自信に満ちた表情。長い髪をツインテールに結んだその子は、確かにお姫様と呼ばれても遜色ない気品を具えていた。衣装は形状こそ巫女装束のようであるものの、黒地に金の装飾を散りばめた上にふりふりのレースやリボンでくまなく飾り付けられたゴスロリ仕様。端整で無駄のない装束をごてごて飾り立てて、一歩間違えれば不格好になりそうなものを愛らしくまとめたそのセンスもさることながら、それを着こなすその子もただ者ではないようだった。
「わあっ……かわいい……」
自分よりもずっと幼いその子に感心しきった玻那華の様子に満足げな表情を浮かべた女の子に、大男が耳打ちする。
「姫様、こちらの方々にご挨拶を」
「ええ、言われずとも分かってるわ」
ぽんぽん、とスカートをはたいて整える姫君の言葉を、玻那華は待った。
次回予告
突如訪れた残酷な別れ。しかし、失意に沈む少女待ち受けていたのは新たな出会いだった。少女は知る、自分が孤独ではないと——
次回!木造ロボ フドウ「気になるあの子は一宮の姫巫女」
今こそ、全ての諸金剛に礼拝せよ
次回は7月25日(日)更新です




