高校教師の憂鬱
この作品には、アレは描写が出てきます。生物がキライな人にはオススメできません。
公立学校の教師なんてなるもんじゃない。塾の講師や、運やらコネで私立学校に転がり込めた大学時代の友人の話を聴く度に後悔する。
俺は教師7年目をしょぼい県立高校の2年生の担任教師として勤めている。はっきり言って、あまり質のいい学校ではない。通ってる連中のほとんどが中学時代のツケがまわって、ここ以外に選択肢が無いような奴等ばかりだろう。俺はそんな奴等の面倒を見てやれるほどの余裕もゆとりも持ち合わせてはいなかった。
「はぁ〜…」
知らずに溜息がもれる。俺は面倒見る気が無くても、上がそれを許してくれないのが現実だった。今日はこのクソ暑い中、目下登校拒否中の生徒「臼井良夫」の家に家庭訪問に行かなければならないようだ。俺のクラスの生徒らしいが、春先から来ていないようで俺は写真を見るまで顔を思い出せなかった。
「…ここか」
書類の住所を頼りに臼井の家に探したが、なかなか見つからず。路地の奥まった袋小路で、やっとそれらしい家を見つけることができた。表札を確認すると、薄くなった文字でかすかに「臼井」という文字が確認できた。
―ピンポーン
呼び鈴の鳴らしてみるが中から反応は伺えない。そういえば、以前放課後に電話した時にも誰も出なかったんだった。両親共働きなら、それもあり得るだろう。
「うちになにか御用ですか?」
驚いて顔を上げると、引き戸の隙間から女がこちらを見ていた。日に当たっていないような青白い肌と、ギョロっとした眼が特徴的な女だった。
「う、臼井良夫君のお母さんですか? 私、臼井君の担任をしています近藤と申します」
と、一気にまくしたてた。
「ヨシ君の先生だったんですか。どうぞ上がってください」
ヨシ君ってなんだよ。とは思いつつ、女の態度の急激な変化に押されてしまった。まぁ、最初からそのつもりだからいいんだが。
「お邪魔します…」
玄関に入ると薄暗い室内に眼がなじまず、暫く強すぎる花の匂いしか感じられなかった。俺は花なんかに詳しくないが、このむせ返るような匂いは明らかに異常だろう。…強すぎる。
まずリビングのような部屋に通され、お茶が出て来た。当然だが、臼井良夫の姿は無い。しかし、こういう親は不登校を続ける子供を甘やかしてしまい、それがまた不登校を続けさせている場合がある。まず親と話すのも効果があるだろう。
「・・・というわけでして、あまり長期にわたっての休み続けると、学業にも支障がありますし。進学にも響いてくると思いますよ。そこでお母さんからも…」
うちの生徒にまともな進学先があるとも思えないが、まぁいいだろう。あとは適当に理由らしいのを聞き出せば上に報告できるだろう。
「先生。せっかく来ていただいたんですから、ヨシ君の小学校の頃の写真なんてご覧になっていきませんか? ヨシ君、この頃は泣き虫でね〜…」
一方、母親はというと、俺の話なんざ聴いてはいないようだった。気持ち悪い女。最初に感じた印象に加え、子離れできていない様子をみて、俺は少し臼井良夫に同情した。
俺は少し語気を強め、「息子さんが学校に通えないようになってもいいんですか!?」と言い放った。
「これからの息子さんの人生を、お母さんが全部面倒見てあげられないんですよ?」
と、今度は語りかけるように畳み掛ける。これくらいでいいだろう。
「…ヨシ君の面倒は、全部私が見るんです」
…この親と話していても埒が明かない。俺はそう悟った。
「なら、今。臼井君はいますか?」
「ヨシ君なら、ずっと自分の部屋にいますよ」
渋々、といった感じだったが部屋まで案内してもらった。
もう嗅覚が麻痺してしまいそうだ。玄関にも、リビングにも、今通った廊下にも強烈な花の匂いが立ち込めている。しかし、その中でも臼井良夫の自室の前は強烈だった。冷房のききも、この時期とは言え異常に強い。
「ヨシ君、先生がお見えになってくれたわよ」
…扉の向こうからは、なんの反応も返ってこなかった。
「すいません。寝ちゃってるみたいですね」
俺が扉の前に立とうとした瞬間、母親が目の前に割り込み扉を背にして立たれてしまった。あからさまな拒否反応だろう。
しかたなく俺は二言三言声をかけ、臼井家を後にした。
臼井家を訪問してから、日を空けてまた俺は、あの寂れた表札の文字を見ていた。前回訪れた時には日も沈みかけていたので気がつかなかったが、臼井の家は近所のマンションの影に隠れ、日中でも暗かった。
あのむせ返るような匂いの中、俺はまた臼井良夫の部屋の前に立っていた。外もかなり蒸し暑いが、やはりここは冷房が強すぎる。
「あの…先生、ヨシ君の面倒は私が見れますから」
部屋の中は変わらず無音。そしてこの母親も前回から考えを改めるつもりは無いようだ。正直、この親子がどうなろうと関係ない。しかし俺がよくても上がいろいろ五月蠅いのだ。
俺は我慢できなくなり、「いい加減にしろ! いつまでそうやってるつもりだ!」大声を出しながらドアを数回叩いた。
しかし、母親が隣で奇声を上げるだけで、扉の向こうからは何の反応もない。仕方なく俺は、母親を説得することにした。
リビングで出せれた茶には口をつけず、母親を説得し始めてからもう30分は経っているだろう。しかし、変化は全く無いようで時間だけが過ぎていった。
「…もう、お母さんの話はわかりました。臼井君と直接話しをさせてください。」
…俺はあまり気が長い方じゃないが、よくここまで耐えられたと思う。だが、この女の相手はもう勘弁して欲しい。臼井良夫本人と話さないことには、話が先にすすまないだろう。
「臼井は家に居るんですよね? なら私が直接話してきます。」
「…ですから先生。ヨシ君は今寝ていて」
母親の言葉など、もう聴く気にもならない。俺は「待ってください!」というパニックだかヒステリーだかわからないような声を無視し、臼井良夫の部屋の扉を開けた。
臼井の自室はカーテンが閉まっているためか暗く、部屋の輪郭しか捉えることができない。それに加え廊下以上に強烈な花の匂いと冷気に全身に悪寒が走る。俺が扉を勢いよく開けたにもかかわらず、その音に反応する気配は部屋の中には皆無だった。
…ほんとうに臼井はいるのだろうか? そんな疑問を抱きながら、手早くカーテンを開ける。パニック状態から戻った母親が
「そんなことしたら、ヨシ君が〜〜!!」
と、奇声を上げて飛びかかってきた。反射でソレを避け、午後の陽射しに部屋の中が照らされ、俺は息を呑んだ。
部屋の右端、勉強机の隣に置かれたベッドの上に眠っているのは頭蓋骨が陥没した「臼井良夫」本人だった。包帯を巻いているが、そんなもの気休めにもならないだろう。ベッドのシーツは乾いた血がこびりつき、茶褐色に染まっている。妙に綺麗な寝巻きだけが浮いた色彩を放っていた。
…一瞬だった、一瞬でその映像が飛び込んできて、それから吐き気がこみ上げてきた。なんだ、これ? 死んでるのか? 全身から力が抜け、ヘナヘナとその場に座り込んでしまった。
「・・・先生。だから言ったじゃないですか、ヨシ君は寝てるんだって」
母親が場違いなほど優しい笑みを浮かべ、その屍体を優しくなでる。
「ヨシ君はもうすぐ元気になるんだもんね〜。それなのに先生が起こしちゃってごめんね」
母親の声だけが脳に届くが、状況を理解するにはいたらなかった。
「ママのせいで痛い思いさせちゃったけど、でもママが治してあげるからね…」
…この女は狂っているのだろうか? やっとそれだけを理解した。しかし、
「そうだ、先生がヨシ君の勉強を見てあげてくれませんか? 私も先生のお話を伺ってから、ヨシ君が学校のお友達に勉強でおいてけばりにされるのが心配になったんです。」
母親は焦点の定まっていないような顔でこちらを振り向き
「安心してください、ヨシ君と一緒になればママが先生の面倒もみれますから・・・」
俺の前に立つと、すでに何かがこびり付いた金槌を、俺めがけ振りかざした。
…ほんと、公立学校の教師なんてなるもんじゃない。