父また帰る
「……はい、そうです。父は昔、港北高校で化学の教師を。ええ、『化学』の方ですね。……そうなんですよ。私も去年こちらに戻って、同じ学校で教えておりまして」
日曜日。電話に応対する肇のそばで、息子のヒカルはおとなしくおやつを食べていた。
「ねえ、おじいちゃん?」
小さな手にクッキーを持ったまま、ヒカルが傍らの祖父を見上げる。
「シッ。電話中じゃけえ、小さい声でな」
祖父の敏夫は顔の前に人差し指を立てると、
「なんじゃ?」
しわの目立つ顔をヒカルに近づけた。
「バケガクって、なあに? おばけのこと?」
ひそひそ声でヒカルがたずねる。
「ははは。違う違う」
思わず笑い声をあげた敏夫に、
「シーッ! 電話中」
ヒカルが顔をしかめた。
「こりゃあ、すまん」
真っ白な頭に手をやり、敏夫はそっと肇の方をうかがう。
息子はこちらのことなど気にせず、電話相手の長い話に相槌を打っているようだ。
敏夫は孫息子の顔をのぞきこんだ。
「『バケガク』いうたら、同じ読みの『科学』と区別して、そう呼ぶことがあるんよ。じいちゃんの教えとった『化学』のことをな。あ、『化学』いうんは、理科の一種な?」
五歳の子には、ちょっと難しいか。
「りかって、学校で習うやつ?」
「ほうよ。ヒカルは賢いのお」
敏夫が目を細める。
「パパは、こくごの先生なんだよ。こうほくこうこうの、こくご!」
勢いよく言ったヒカルが、
「……こくごは、おばけいないよね?」
急に不安げな顔になった。
「ははは、おりゃあせん。バケモノいうたら、ありゃあ、生物室じゃろ。ほれ、夜中にガイコツが踊るやらいう」
「えー?! ガイコツ?!」
ヒカルの大きな目に、恐怖と好奇心の入り混じった色が浮かんだ。ぽかんと開いた口のまわりには、クッキーのかけらがついている。
「ほうよ。あとは音楽室の、ピアノが勝手に鳴りよるやらのう。まあ、国語と化学には、バケモノはおらん」
「よかったー」
二人は顔を見合わせてにっこりした。
そのとき、背後の肇がようやく電話を切った。
テーブルの息子を振り向いた肇は、電話中に聞こえた二人の会話を思い出して、小さくため息をつく。
(――違うぞ、ヒカル。化学のバケモノはいる。まさに今、おまえの目の前に)
おれやヒカルからすると、バケモノというより、化学バカと呼ぶ方がしっくりくるが。
そうはいってもやはり、客観的には――。
小さく頭を振ると、肇は敏夫に声をかけた。
「父さん、去年も言ったけど、こっちに戻るのはお盆と正月くらいにしてくれよ。それから、むやみに高校のそばうろうろしないで、せめて家の中にいてくれ。そうじゃなくても、三年生は神経質になってる時期なんだから」
「そうじゃった」
敏夫が頭に手をやった。
「毎年、センター試験の時期になると、どうも落ち着かんでの。つい職場の周りを」
「ほんと仕事が最優先だよな、いまだに。どうせお盆は、慣れない乗り物は面倒だとか言って、母さんのとこ帰ってないんだろ。おかげでこっちはただでさえ忙しいのに、ここ数日、目撃情報で大騒ぎなんだからな。今の電話だって、昔の知り合いだって人がわざわざ」
「すまんすまん」
敏夫は豪快に笑うと、
「それで、肇よ。どうね? 今年の生徒の出来は。試験科目は今年も、『化学基礎』と『化学』の二つ?」
懲りない様子で尋ねた。
「父さん、もう何年たつと思ってんだよ。あとおれ、国語科なんだけど」
肇があきれた顔になる。
まったく、化学至上主義なんだから。昔から。
「おまえらの頃とは違うて、基礎じゃ何じゃいうて、今の子らは大変よのう。この子の時代には、また違うてくるんじゃろうが」
両手でココアのカップを抱えるヒカルに、敏夫が目をやった。
「来年からは、センター試験自体なくなって、新テストだから」
肇がにべもなく言い、ヒカルの向かいに置かれた自分のカップに手を伸ばす。
すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつけた瞬間、また電話が鳴った。
「はい、鈴木です。――お、山崎か。……ああ」
電話に出た肇が、またかという顔になると、空いた手の指で眉間を揉み始めた。
「え、親父を見かけた? 高校のそばで? ははは、おまえ老眼入りすぎじゃねーの? ……そうそう、他人の空似だって。もう三年たつんだぜ? 親父が亡くなってから」
【 了 】