諦めるなんて、できない
何事にも諦めが肝心なんだと、ぼくは学んだ。
運命は何の前置きもなく訪れるのだと、分かった。
「ほら神音、タオル」
「んー? あー…、そっか。ありがと、羽音」
渡したタオルでガシガシと勢いよく髪を拭き始める神音に、半ばため息をつきたくなるのを我慢して、持っていたもう一枚のタオルで彼の服を拭いてやる。
吸水力の高いためか、気前よく水分を吸って重くなっていく。
白い白い柔らかなタオルは、その繊細な色を濁った赤と泥に汚染させていく。
部屋につけられたテレビだけが、無感情に音声を流し続けていた。
「お腹すいた、なぁ」
「…言うことがそれ?」
「うん。え、だってすっげえお腹すいてんだぜ?」
新しい服に着替えながら、神音はきょとんとする。
ことの大きさを理解していないように。
何も考えていないみたいに、笑いながら。
「なら、なんか作るよ。何食べたい?」
「そーだなー…」
その場にべたりと倒れこみながら、神音は宙を睨む。真面目に考えるときはご飯が関係するときだけ、そんな気まぐれすぎる兄貴を見ながら、ぼくは洗濯機に向かう。
もう全部一緒に洗ってもいいかな。どうせ神音のだし。ダメになったら、その時はその時だ。よし、入れちゃえ。
「はーのーんー」
「はいはい、何さ」
「羽音が足りないー」
訳わかんねえ。
相変わらず兄貴は変な表現しかしない。空腹はどこへ行ったんだ。
後ろからよっかかって来られても重いだけなんだけどな。
まあ大丈夫か。
後ろに背後霊よろしく兄貴をぶら下げて(といってもぼくの方が身長低いけど)、ぼくはキッチンへ向かった。
その途中で、点けっぱなしのテレビから、飛び込んだ音。
『本日午後5時頃、奏商店街で三人の遺体が発見されました。いずれも喉を深く切られており、警察は殺人の疑いで捜査を……』
「あにきー」
「どーしたー?」
「ニュース流れてる」
「そりゃ、俺の華麗なテクニックに見惚れてだな」
にしし、と笑う神音。ぼくは笑わず、リモコン操作でテレビを消した。
喉を深く、切る。兄貴の荷物に、そんなことが出来るものはなかった。
あったのは、葉っぱの形をしたプレートの付いたチョーカーだけだ。チョーカーの紐が千切れてたとか、プレートから錆びついたような匂いがしたとか、そんなのは気のせいだ。
あんなもので人が殺せるはずがないし。
そんなことができるやつは、限られてる。神音は、違うから、大丈夫。
「神音、何食うか決めた?」
「羽音が作るやつなら何でもいいや」
へらへら笑う兄貴が、このニュースに関係なんかしてないはずなのに。
……。いや、分かってる。兄貴がしたんだってことはわかってる。
ぼくが認められないのは、プレート一枚で三人もの人間を殺してしまったという事実だ。
別に殺人が悪いとか、そういう道徳観の問題じゃない。念のため言っておくけど、ぼくは殺人を肯定してるわけじゃない。
問題なのは、たかだかチョーカーの飾り程度のものが、人殺しの道具になってしまったということだ。いや、人殺しの道具にしてしまったということだ。
それは、ぼくと神音の、永遠の別れを意味する。
この国には唯一、殺人の免罪符を与えられた人たちがいる。
その人たちは、人を殺すことが生きることだ。息をすることが、そのままイコールで人を殺すことにつながる人たちだ。
殺人鬼の集団。
彼らは、鉛筆一本で人を殺せてしまう。どんなものでも、手にしただけで人を殺す道具に変えてしまう。それは、その存在になった瞬間に身につく、あるいは潜在的に眠っていた思考が目覚め、どうやればそれで殺せるのかを脳が指示するのだという。
兄貴は、それにとてもよく似ていた。
殺人鬼の一人と認められると、家族とは住めない。
この国で誰よりも豪勢で豪華な暮らしを、完璧なセキュリティを施された監獄ですることができるだけ。
外に出るには、監視者が何十人も付く。そもそも、滅多なことでは外出できない。
ただそこから出ることもかなわず、同じ殺人鬼となってしまった同胞たちとともに、閉ざされた世界で生きることになるのだ。
そんなのは、嫌だ。
兄貴と、神音と離れてしまうなんて、嫌だ。
『家族になれそうな気がする』といって、人さまの財布を盗んで生きてきたぼくを家に上げたお人よし。
何も考えず定職にもついていないのに、ちゃんと暮らせるだけの安定した収入がある。
何のかかわりもないはずのぼくを、妹だと言って可愛がる…そんな神音と、離れてしまうのが嫌だ。
いつの間にか心地よくなった居場所。この人のそばが、ぼくのいる場所だったのに。
何事にも諦めが肝心なのだと、ぼくは学んだ。
運命は何の前触れもなく訪れるのだと、分かった。
けれど諦めるなんて、出来ない。
一緒に、いるために。
「羽音ー?」
「うん?なにー」
「早く、なー?」
「もう少しだから。待て」
「命令かっ!?」
「うん」
「うはー、仕方ないなぁ」
笑いあう、この時間を奪うなんてさせない。
諦めるなんて、絶対しない。