17 3-5 ジルウィンダーとローレンシア
その知らせがナザリに届いた日から、3旬期が過ぎようとしている。街はまだ、活気を思い出せずにいる。
ぼおっと上の空で人々は道を行く。
メインストリートでラグを広げて店をひらいている雑貨屋の店主は、「らっしゃいらっしゃい!」と客を呼び込むことを忘れたように、過ぎゆく人々を眺めている。
料理店の奥様は、フライパンで焼いていたオムレツを焦がしたことに、香ばしい匂いが立ち込めてきてようやく気づく。
役場の二階、ジョージ町長の執務室では、彼が帰ってきた討伐者に贈るつもりで自腹で買っていた高級茶葉の缶が、一つだけ未開封のままで残っていた。
これでも、のろのろと歩き始めていた。数日前までは店も役場も、まるで眠りこけたように締まりきっていた。
ガシャンと音がして、カフェ店員の青年が運んでいたグラスが、地面に落ちて割れた。カフェのテラス席、頑固オヤジの席の前で起きたことだった。
「──はっ!? も、申し訳ございませんっ」
ワンテンポ遅れて、グラスを運んでいた青年が謝罪した。
「……あっ? ああ、うん──。早く新しいの持ってきたまえ……」
頑固オヤジもワンテンポ遅れて反応した。持ち前の怒りっぽさはなりを潜めていた。普段はテーブルクロスのわずかなほつれにも、文句をつけるようなオヤジだった。
学校の帰り、カフェの前を通りかかったアルフレッドは、ガシャンという音を聞いて立ち止まった。
粉々に割れたグラスと、グラスからこぼれて地面に散った綺麗な色の飲み物。ガシャンという音は、太陽が光を失って墜落した音に似ていた。彼が歩く道の標だった光の、結末の音。
あの日、教室の他の子たちが泣きながら帰っていった後も、アルフレッドは師範室の前から動けずにいた。一人になっても涙は流れなかった。悲しいと認めることを、頭が拒否していた。
事実を咀嚼し理解することを放棄したまま、ただそこにいた。役場から帰ってきたジオンディーヌの「……あんた、まだいたんか」の声で、ようやく首を動かした。
「……シアは、渦を閉じたんだ。渦を閉じるのは、魔導師にしかできないことなんだ。ジルウィンダーの大発生を終わらせたのはシアだ」
帰ってきたジオンディーヌは、独り言のようにポツリポツリと呟き出した。
数年に一度、世界のどこかに現れる白銀に輝く光の渦。
ありとあらゆる種類の魔物を、大量に吐き出し続ける渦。
現れるのも勝手、ひらくのも勝手だというのに、渦が消えて大発生が終わること、『ひらく』に対して『閉じる』と言われるそれは、自然には起きてくれなかった。閉じない限り、渦は延々と魔物を吐き出し続ける。
閉じるチャンスは魔導師含めた様々な武器の討伐者が、連日ひたすら戦い続けた末に作り出せるものだった。渦から出現する魔物を倒すことで、渦のエネルギーを弱めていくことができた。ある程度渦のエネルギーが弱ってはじめて、閉じるために近づくことが可能になる。
そして閉じる役目はその方法と渦の性質ゆえ、魔導師が一人で完遂しなければならない役目だった。もし完遂することができなければ、再度近づけるようになるまでまた数日戦い続ける必要があった。戦いの期間が伸びれば、伸びた分だけ犠牲者が増えていく。
最短で終わらせるために、閉じる役目を担う魔導師は、それを一人で完全に成し遂げられる力を持つ者が選出されるのが通例だった。
渦のエネルギーに負けない力と心を持つ者。
持てる力を全て使って閉じた後、渦が消える際の爆発に巻き込まれる前に、速やかに安全な距離まで離れることができる者。
力尽きてそれが叶わなかった場合は──渦とともに、大陸から消え散ることさえ恐れぬ者。
「……閉じて、戻って来ることは──不可能では、ない。実際、それを成し遂げた者も過去にはいる。だけど、ものすごく厳しい仕事だ。今回シアが担ったのは、そういう仕事だったんだ」
遠距離から攻撃することが可能で、危険な局面を空中浮遊や転移魔法で回避できる魔導師は、他武器の討伐者に比べれば犠牲者として名を届けられることは少ない。
そんな魔導師の、避けられず誰の助力も得られない任務が渦を閉じることだった。
「……もう、帰りなさい。親御さんも心配してるだろうから。次は……来たいと思えたら、来なさい」
ポツリポツリと渦の話を語っていたジオンディーヌは、そう言ってアルフレッドに帰宅を促した。
ちょうどその時、玄関のドアがノックされてからひらき、アルフレッドの母親が姿を見せた。母親は教室に上がると、何も言わずにただアルフレッドを抱き締めた。家でも度々教室の大先輩の話をしていた彼を慮って、せめてものことだった。
それからジオンディーヌに短い挨拶をして、アルフレッドを連れて邸宅に帰った。
その後の彼は不思議に静かだった。帰宅して食事をしているときも、表情は変わらず息を詰まらせることもなかった。5歳になったテッドが、兄や街がなぜいつもと違う様相なのか完全には理解していない弟が、自分のシチュー皿に入っていた肉塊を一つ分けてくれたときも同じくだった。
学校にも授業が再開した日から行き始めた。まるで今まで通りの日々だった。変化のあった部分を見つめないようにしていたので、そのように過ごしていた。
「お待たせいたしました。ご迷惑おかけしてしまい申し訳ございません」
ふと、ぼんやりしていたアルフレッドの思考が目の前の景色に戻ってきた。カフェ店員の青年が、新しいグラスをオヤジの席に持ってきていた。地面に飛び散っていたグラスの破片と飲み物は、いつの間にか片付けられていた。
アルフレッドはカフェの一角から視線を剥がして歩き出した。足取りはオース通りの方角に向かっていた。
散らかった思い出をグラスの破片のように、箒で掃いて片付けることはできそうにない。だけど、今日はじっと浸ってみようと、そのような心持ちになっていた。
オース通りに建つジオンディーヌ魔法教室の前にアルフレッドはやって来た。教室に来るのは大発生が終わった日以来だった。庭に面した窓があいていたが、指導の声などは聞こえず静かだった。
アルフレッドは教室の庭に足を踏み入れた。玄関のドアの前まで歩いていって、しばらく閉じているドアを見上げていたけれど、ややあってドアから離れた。ドアの近くの木に片手をついて体を支えながら両の靴底を叩くと、地面を軽く蹴ってふわりと宙に浮いた。
いつもより高い視点と風に体があおられる感覚。教室の中に入って練習する活力はまだ取り戻せないけれど、ここにある思い出に包まれたくなったから空を飛んで教室の屋根に登ろう。それだって、シアに導かれて魔法の世界を知ったからこそ思いつけたことだった。
教室の屋根の高さまで飛び上がったアルフレッドは、屋根に降り立つと空中浮遊を解除した。ごろりと屋根に寝そべって、空を見上げた。
濃紺の瞳に映るのは青い空。雲のように頭の中を流れていくのは憧れの人との記憶。
もしかしたら彼女から見たアルフレッドは何人もいる弟妹の一人に過ぎなかったかもしれないけれど、アルフレッドにとってのシアは魔法という存在を教えてくれた、彼にとって一番の魔導師だった。
10歳のアルフレッドが覚えている過去は探しても少ない。めぐる記憶はもう去年の今頃の時点まできていた。教室の庭先でカラフルなキャンディーのお土産をもらったこと。訓練会の日の朝、ミナキ高原まで送ってもらったこと。ミナキ高原で過ごした夜のこと。
トリプルキネシスによって浮かび上がり、スイスイと空中を進む乗り物と化した何の変哲もない木箱。心地良い夜風を切るスピード。一緒に遊んでもらった、最後の記憶。
きゅっと長いまばたきを一つ、アルフレッドはしていた。ほとんどの思い出がナザリの街にあるなかで、その記憶はミナキ高原にあった。
エゼルフィ魔導師学園が学舎を構える地。去年初めて参加した、ミナキ高原訓練会が毎年行われている場所。毎年恒例のその時期は、今年もまた近づいてきている。彼が──アルフレッドが、寝そべっているこの間にも。
むくりと、アルフレッドは起き上がった。靴底を叩いて空中浮遊の魔法を発動して、教室の庭に着地した。手早く空中浮遊を解除し、玄関のドアのそばに行ってドアをノックした。
思い出の眠る場所、ミナキ高原訓練会に今年も行きたいという意志を、ジオンディーヌに申し出るために。




