ベック教授の宣誓供述
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歳を取ると若い頃に遭遇したさまざまなことを思い出す。
身体の老いとは直接関係がないことは私自身が証明している。その理由はきっと、時間に余裕が出来る――じっくりと考えることが出来るからだと思う。
この歳になれば自分が想い描いたタイミングで物事を行っても叱られることはないし、他の人間の迷惑になることもない。特に五年前から高齢を理由に仕事を免除された私には時間が有り余るほどあった。
忘れていたことがまるで昨日の出来事のように鮮やかに思い出されるという現象には、時にいいこともあれば悪いこともある。
俗に言う墓場まで持って行かねばならないことを思い出すときは、闇夜に蛇を触ったような後味の悪さが残るし、楽しかった思い出は、束の間の充足感をもたらす。
毎朝一時間だけ許されて視野の片隅に流れるニューステロップに「時空管理法第四十五条改正」の文字が流れた時に思い出した出来事は前者の「蛇」だった。
結局、その時は最善を尽くしたと思っていても、時を経て思い返せば信念が揺らぐものだ。
私はそのニュース――いわゆる百八十年遡及禁止法が、サイボーグ寿命の三十年延長に伴って二百三十年に延長されたというニュースの詳報を読みながら、若い頃の判断が果たして正しかったのかどうかと思う。
私は目の前のテーブルに乗っている緑青色に輝く猫の置物を手に取って、その重みと硬さを楽しむ。全てが紛い物で囲まれたこの世界で、存在と言う言葉を忘れないための手っ取り早い方法。己の存在さえ夢幻と思えてしまうような時、この置物は私を救ってくれる。
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裁判が行われたのは私が二十五歳のときだった。
あの頃、私はある工房で銅板を打出し加工する仕事を勉強中だった。
早朝五時に工房に入ると、金属と研磨剤の匂いが漂っている。丸一日嗅いでいればそれと分からなくなるほどだったが、あの一日の初めにはその匂いが今日と言う新たな一日の始まりを示す合図だった。
人間が自らの力と手足で作業を行なわなくなって数世紀、それでも工芸とスポーツの分野では己の技量を推し量る必要があるのは当然のことだった。もちろん、工芸分野でも人間の手足の動きを完全再現する補助装置の数々によって、人が生み出す繊細な意匠を再現することが出来た。だが、工作機械は常に人の補助であるという位置付けを成して来た先達の威光は覆し難く、例え工芸製作用に特化したピッカー(人型汎用思考端末)がデザインから完成まで単独で行った作品であっても、それを「芸術品」と評価する風潮はなかった。僅かにピッカー関連の好事家によって収集対象となっているに過ぎない。
私は自らの能力によって形を成す仕事に抗えない憧れを抱き、当時金属打出し加工では右に出る者のいないとされていた師匠の下に弟子入りしたのだった……
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「全員起立」
法廷官吏の声で、被告から弁護人、検事から陪審員、そして全面灰色の人型に整理番号だけが浮かんでいる傍聴人までが一斉に立ち上がる。もちろん全て三次元画像の偽像が、だ。裁判が電脳世界上で行われるようになってから一世紀が過ぎていた。
裁判長と二人の判事が入廷し、官吏が声を上げる。
「着席」
軋む椅子の音まで再現された世界で、私も席に腰を下ろす。
「被告人は前へ」
弁護人と共に立っていた被告(私)が一歩前に出る。
「名前を名乗りなさい」
「ネヴァル・ヘンダーソン」
「座りなさい」
私が被告席に座ると一緒に付き添っていた刑務官が手錠を外す。
「これよりヘンダーソン対国際協約連合体の裁判を執り行う」
裁判長は初老の紳士の偽像で、それに相応しい威厳のある声で続ける。
「検事。起訴事由を朗読してください」
裁判が始まった。私は陪審員や弁護士と一緒になって身を乗り出す――
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事件は次のような経過を辿った。
ネヴァル・ヘンダーソンは金属打ち出し加工の職人だった。万事が人の手を離れオートマチィックに行われる現代。全て人間の手を使い生み出されるという点と、擬似的に違いを付加されていない、同じものはひとつとしてない、という希少価値が工芸品市場を支えていた。
ネヴァルが所属していた工房は打ち出し加工では北米連合でも右に出るものはないと称えられていた。ネヴァルは新米だったが、独創的な素養があり師匠のプリンストンから目を掛けられる存在だった。
半年前のこと。連合芸術祭に出品した工房の作品の何点かが優秀作品として表彰された。その中にネヴァル作の「猫」がいた。師匠は大いに喜び、ネヴァルを称えたが彼は複雑な心境にあった。その作品は彼の作品ではなかったからだ。
正確には出品番号6981「うずくまる猫#19」は彼と彼の先輩であるターナーの作品と言える。それはターナーがほぼ研磨を除き完成させていたものをネヴァルが仕上げ加工したものだった。
なぜターナーが完成間近の作品を仕上げなかったのか。彼はこの作品をほぼ完成させた日の夕刻、電磁軌道からの誘導信号を誤認識した整備不良の乗用車に跳ねられ死亡したからだった。
ターナーを慕っていたネヴァルは残された作品を丹念に磨き上げ、仕上げた。ターナーの死から一ヶ月後に連合芸術祭に出品する作品の選考があり、この「うずくまる猫#19」も選ばれることになった。ネヴァルは素直に喜んだ。これで天に召されたターナー先輩も喜んでくれるに違いない。
しかし、ネヴァルが思いもしない展開が待っていた。なんと出品作の作者はネヴァル・ヘンダーソンとされ出品されていたのだ。
理由は複合的だった。ターナーが孤独癖のある男で、先輩と慕うネヴァル以外誰にも作品を見せていなかったこと。ネヴェルも無口な男で他人との会話を苦手としていたこと。出品に際して彼が述べた「先輩の作品を磨いただけ」という説明が「先輩の手を借りて仕上げた」と受け取られてしまったこと等々……
見事優秀作品の作者となったネヴァルは思い悩んだ。挙句師匠にこのことを打ち明け、自分を処分して欲しいと頼む。しかし工房の評判を気にする師匠は、このスキャンダルを封じることに決め、ネヴァルにこの件は二度と口外してはならぬ、と告げた。
結果的に工房所属の者が優秀賞を手にしたことに変わりはなく、ネヴァルさえ黙っていれば波風も立たない。それに将来いい職人になるのは間違いないネヴァルに箔を付けることにもなるではないか。死んだターナーも自分の遺志を継ぐ者がいることを素直に喜ぶはずだ。
師匠は無口な弟子を丸め込んで満足した。
しかし、ネヴァルは思わず師匠に従ったものの、寝覚めが悪く、いつまでも忘れることが出来なかった。そして苦悩の果て、普段の彼からは想像も付かない大胆な行動に出たのだった。
ネヴァルはノーザンランド大学歴史学科の卒業生だった。歴史学を学んだ男が金属打ち出し加工の工房に職を得るというのも変わっていたが、ネヴァルからすればそれは至極全うな考えだった。
歴史を愛した彼は優れた工芸品が時代を越え残って行くことに満足を感じていた。歴史に名を残す英傑より、名も無き職人が残した工芸品の方に愛着を覚えたのだ。それは大人しく孤独な彼にとって最もしっくり行く道だった。
決心した彼は母校に忍び込む。
母校のノーザンランド大学にはタイムマシンが一機保存されていた。
それは八十年前の骨董品で、トンネルを数百キロも走行した挙句ようやく時空に飛び立った最初期型から革新的な発展を遂げた、自力で場所も取らずに時空に旅立つことが出来る第二世代の二人乗りマシン。
マシンは研究棟の倉庫に保存されていたが、ネヴァルは学生時代、この倉庫の保善を手伝っていて、その時に倉庫の暗号キーと物理的な鍵のコピーを手に入れていた。
このマシンは展示の役にしか立たない抜け殻であり、時空保安庁や時空管理機構の在籍マシンリストにも「運用不可能」と記されている。それは内蔵する動力源がそっくり抜かれ、タイムマシンの命である物質ニュートリノ化変換機能の媒介元素、MUを使った物質変換機が取り外されているからだが、ネヴァルはある事実を知っていた。同じ倉庫の隅に保管されている一見がらくたに見える動力ポッドと変換機は「本物」であることを。
それはマシンのメンテナンス時に使用されていた機器で、両方とも記録上「模型」とされていて、研究室のほとんどの者が存在を忘れていたが、ポッドと変換機には現在でも動力源とMUが僅かに残っていることを学生時代のネヴァルは確認していたのだった。
彼は夜間、自動監視のみになる倉庫に堂々と正面入り口から入り込む。目晦ましの偽像を装って監視記録には学生の誰かが入ったとされるはずで、数分間の入退出なら研究室の誰かが資材を取りに入ったくらいにしか思われず詳細には調べられないはずだ。ネヴァルはほとんど時差を設けないで行き来するつもりであり、この程度なら数日間、いや、うまくすればかなり長い間隠しおおせるはずだった。
学生時代、空いた時間のほとんどを使って倉庫に入り浸り、マシンに座って瞑想することの多かったネヴァルは、慣れ親しんだマシンに素早く動力ポッドと物質変換機を組み込む。そしてマシンをスタンバイ状態に操作すると、予想通りマシンはオールグリーンを示した。
ほっとした彼が数値を確認すると、変換機はマシン本体と人間一人、二回の実体化が可能で、動力もおよそ百年遡れる分が存在していた。
百年どころか数ヶ月前まで行って帰ることだけが望みの彼は、もうひとつ大切な作業を行なう。それはマシンに組み込まれた直近過去往還防止装置の破壊。これは物理的な衝撃では破壊出来なかったが、この自壊用暗号キーもネヴァルに発見されていた。杜撰な過去の管理者が一連の暗号キーを記憶したチップをマシンのメンテナンスハッチ裏側に貼り付けていたのだった。
ネヴァルはマシンを操って三ヶ月ほど前のある日、ターナーが事故に遭った日の早朝に向かう。
過去に存在していられる時間は、歴史の修繕効果として知られる、侵入者を排除しようとする様々な現象により長くとも十分。しかもTP――時空保安庁なる組織が時空犯罪を未然に防ぐべく活動しているので、その時間は更に短くなる。二、三分もすれば彼らがやって来るからだ。
ネヴァルは何日もかけてターナーを救う工作を練習し、全ての作業が三分以内で完了するようにしていた。
まずは事故現場となる二級道路に埋め込まれた電磁軌道に障害を発生させ、事故を起す車輌を停止させる。続いてターナー家のセキュリティドアに細工して本人が表に出てくるのを二分ほど遅延させた。
先輩が事故に遭わずに工房へ向かったのを確認したあと、マシンを駆って一ヶ月後のある日に到着、工房の作品を配送中の貨物車に忍び込み、予め用意した自分の作品と先輩作「うずくまる猫#19」の容器を差し変える。
しかしネヴァルの奮闘もそこまでだった。
車輌から出て来た彼を待ち構えていた「見えない」男女二人が取り押さえる。
「ネヴァル・ヘンダーソンだな?時空管理法第32条並びに45条違反の現行犯で逮捕する」
彼はTP――時空保安庁の機動執行班に逮捕されたのだった。
間違いを正そうとした彼の行動は同情を呼んだ。しかし、似たような事例は過去、幾度も発生していた。曰く、濡れ衣を晴らすために真犯人を捜した、曰く、肉親の事故を防ごうとした、など。
過去は現在からやって来て作り変えても、現在には全く影響を及ぼさないことが確認されている。
過去とは進む船が残して行く航跡に例えられる。航跡をかき乱しても進む船には何の影響も発生しないのと同じで、現在は過去の改変によっては変えることが出来ない。つまり過去に死んだ人間は現在に復活することはない。
それでも時空に侵入し、過去を変えようとする輩(TCと総称される)は絶えない。それはゲーム的感覚で過去を作り変えたいという痴れ者や、ネヴァルのように現実は変えられなくとも何かしないではいられない心理にある者が引きも切らないからであった。
そうした人々は過去で真犯人を殺そうとしたり、飛び込んで来た車の進路を僅かに変えたりして、結果別の人間が事故に巻き込まれそうになったりと、心理としては同情するものの犯罪としては許されないものが多かったので、二十四世紀の世界では極刑や禁固50年などの刑も仕方なしと言うのが一般論となっていた。
こうしてネヴァルは時空犯罪者として逮捕・起訴され、裁判に掛けられることとなったのだった。
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弁護側は心情面に訴えようと試み、ネヴァルの師匠や同僚、学生時代わずかに交流のあった同窓生、一人住まいの隣人などを証人に仕立てた。
師匠は彼が将来を嘱望される逸材であったことや先輩への罪悪感からこの犯罪に走ったことを、同僚は普段の真面目な生活態度をそれぞれ証言した。
同窓生は生真面目な性格と整理整頓が行き届いた彼の生活振りを、隣人は挨拶を絶やさず、孤独な割には周囲を気遣う優しい人間であった、と証言する。
そして弁護側証人たちは過去に人的にも物的にも被害がほとんど発生していないことを理由に、最後に決って減刑を嘆願するのだった。
検察側はそれらに余裕を以って対応していた。彼の生活態度や性格を掘り下げて逆質問することもなく、証人の些細な記憶違いなどで揚げ足を取ったり、証人が答えに窮したりするような意地悪な質問も控えられた。
彼が真面目で法に触れる行いなどするはずの無い正直な人間であり、孤独で多少変わり者との評判はあっても地域社会に存在を認められた人間であったことは事実であり、それを論点にするつもりはなかったからだ。
彼ら検察には磐石の論理があった。
「いかなる理由があろうとも、過去を寸分たりとも改変することは罷りならない」という歴史関連法の大前提だった。
検察側の証言者はその「歴史を護る」観点から集められた。
著名な歴史学者に始まり、「歴史絶対防衛論」なる著書がある時空研究者、頑固な歴史擁護論者であるタイムマシンの専門家、TC――時空犯罪者の「侵入」をボランティアで監視する歴史“環境保護”団体代表等々……
中でも二回目の公判に登場したTP――時空保安庁の女性執行官の証言は大向うを唸らせるものだった。
検察官 「質問します。あなたは犯行当日、何をしていましたか」
証人 「職務に従い、本部に待機しておりました」
検察官 「それはTC、時空犯罪者を現行犯逮捕するために出動待機していた、と言うことでしょうか」
証人 「その通りです」
検察官 「本件とあなたの関わりですが、その日、出動要請があったのは何時ごろですか」
証人 「最初の要請は現地時間午前五時半と記憶しています」
検察官 「現地とは本部所在地のことですね」
証人 「その通りです。ちなみに所在地の位置は守秘義務によりお答えできません」
検察官 「結構です。最初の出動の内容を答えられる範囲でお答えください」
証人 「出動年紀は二十世紀前後、場所はアジア、任務の内容は保護対象Aに対し危害を加えようとしたTCから保護対象を護りTCを逮捕すること。これだけお答えします」
検察官 「ありがとうございます。次の出動はいつでしたか」
証人 「本部に帰還したのが午前七時半頃、それから待機に入り二時間ほど後でしたから現地時間午前十時過ぎだったと記憶します」
検察官 「記録では午前十時十二分出動とあります。そしてこれが被告人逮捕につながる出動となりましたが、その時のことを少し詳細にお教え願えますか」
証人 「……最初から、ですか」
検察官 「最初からです」
TP機動執行第十三班『ギャンブラー隊』の班長、クリスティ・スクワイアTP大尉はその日二度目の出動に相好を崩した。
時空監視センターが至急第一報として伝えて来たのは「二十四世紀後半に侵入あり」で、緊急出動班として待機していた十三班員(クリスティを入れて総勢四名)は等しく班長と共に笑顔で出発した。
無理もない。一度目の出動が二十世紀の中国。毛沢東を長征の最中に殺そうとしたTC二人組を難なく捕まえ、現在に連れ戻したのが二時間前。四世紀遡るのは僅かに四十分程度。逮捕に要した時間もたった三分間で、出動から二時間余りで容疑者を捕縛し現代に戻って来た。文字通り朝飯前の出来事で、シャワーを浴びて少し遅い朝食を採り、待機室に落ち着いた直後、再びの召集に駆け付ければ僅か三ヶ月前に遡れという。行くのに一分と掛からず年紀要約も必要ない。その世界は英雄たちの世界ではなく自分たちの世界だった。
クリスティはTP作戦部の超エリート部隊である機動執行班に選抜され八年目、班長に起用されてから二年が過ぎていた。逮捕件数は百四十七。あと三件で左肩に示される通称「撃墜マーク」、逮捕件数を表す線が金色の一本線(百)と黄色の太線(五十)になる。毛沢東保護(と言っても護られた当人は全く気付いていないが)の一件で既に一本稼いでおり、本日二本目も楽勝感が漂う。一日二件の逮捕はないことはないが、珍しい。一ヶ月間何もなしの方が圧倒的に多いのだ。
それにしても、最近では珍しい事例だった。いわゆる過去遡及禁止法によって現在から百八十年前までの間は例え遡及免許を保持する者も、TP職員ですら緊急出動時以外特別の許可無くしては遡れない。そもそも正規製品のマシンには直近過去往還防止装置と呼ばれるリミッターが設置されていて、これを外すなり破壊するだけでも法令違反となる。
まだ自分たちが存在している時代に行くことはそれだけで時空犯罪を誘発する。ユリウス・カエサルや始皇帝の事跡を妨害するより、自分の過去にプラスの「もしも」を持ち込む方が容易いし魅力的だからだ。従って、遡及禁止法で定められる期間内での犯罪は、通常の過去侵犯よりずっと罪が重い。実体化しただけでも懲役三十年の判決が下されるほどだ。当然時空監視センターの重点監視年紀であり、TPの機動執行班も常に待機して犯罪に備えていた。
クリスティら十三班は現在から出発後、たった三十秒で三ヶ月前のある日に到着した。マシンと年紀との整合性を図るタイムラグ修正に要する時間も僅か二秒、時空往還の通路でもある亜空間虚数域から侵入警報があった地点を観察する。
「あいつだ」
班長の冷静な声に三人の班員もすぐにそれを認める。男の身なりは今時の学生風だが明らかに挙動不審で、数秒毎に振り返っては左右を窺い歩道の端を壁に触れんばかりに歩いている。
「ライブラリィ照合にヒット。奴さんは『この時代』に『二人』いますね。本物とほんの少し若いのが」
「同期に乱れ(ラグ)があります、ほんの僅かですがね」
「決まりだな」
クリスティは部下たちの声に頷く。すると一人が、
「おっと、どうやら奴さんのターゲットはあそこらしいですよ」
男がとある家の庭に侵入する。どうやら馴染みの家らしく迷わず裏手に回り込んで消えた。
「やりますか」
動こうとしないクリスティに部下の一人が尋ねる。既に『この時代』に実体化しているだけで犯罪は成立している。いつでも現行犯逮捕が出来た。
しかしクリスティは頭を振る。
「『レクター』。本部に送信。『被疑者を発見するが、どうやら殺人や暴行ではない。泳がせた後に執行する』とね」
クリスティのピッカー、人型戦闘・通信端末のレクターがタキオン通信をTP本部に送信、返事は瞬時だった。
「本部より。認可する」
遡及法で縛られる過去百八十年以内の場合、暴行や殺人、そして歴史的な人物や出来事を改変するのではなく、影響の限られた名も無き人々の営みが改変されるのであれば、TP機動執行官は己の判断で事象を未然に防ぐのではなく「現行犯」で逮捕出来る。個人的な理由の場合、未遂より現行犯の方が「何をしようとしたのか」が判明しやすいからであった(いずれにせよ現在には影響がない)。
部下にも聞こえるようオープンとなったクリスティのピッカーの声に部下の一人が口笛を吹く。
「面白いことになりそうだこと」
やがて民家の庭木の陰から男が滑り出した。
「彼が出て来た家だけど、住人の一人が今日死亡することになっているね」
「それも後一分で」
執行班の四人はマシンの全周モニターをスクロールしながら周囲を眺め渡す。やがて。
「時間だ」
「クリス、あそこ!」
部下が指差す画面には、道路の先、立往生した自家用車の列が映っている。ドライバー達が外に出て何か話し合っている。
「電磁軌道の故障か?」
クリスティは頭を振る。
「いいや、違うね。ライブラリィを確認してみろ。あそこの住人はトラックからの信号誤認識で暴走した車に自宅前で撥ねられ死亡する。そしてその時間は『三十秒前』だ」
「BINGO!」
「奴は?」
件の男は隣家の陰に立ち止って、問題の家を見ている。
「ほら、死ぬはずの男が出て来た」
その住宅から男が一人出て来た。例の男は出て来た男が何事もなく立ち去るのを見届けると早足で道路を横切り、前に開けている公園に入って行く。
「ボス。逃げますよ?」
「捕まえなくていいんですか?」
部下たちが不審げにクリスティの顔色を窺う。クリスティはそれを手で遮って、容疑者が公園の繁みに入り込むのを観察し続けた。男はやがて辺りを窺うと伸びをするような格好をして……消えた。
「世界警察に手柄を横取りされますよ」
TPの逮捕権は『過去』のみで、容疑者が『現代』にいる場合はIP(世界警察)が捜査逮捕する。
「慌てなくても大丈夫だよ。奴はまた現われる」
「……何か匂うんで?」
クリスティは自信たっぷりに、
「こいつには続きがある」
検察官 「この犯罪に続きがある、と考えた理由は何でしょう?」
証人 「説明するのが難しいのですが、勘と経験、そして資料を総合した結果です」
証人 「もう少し詳しく教えて頂けませんか」
検察官 「そうですね、先ずは被疑者の行動です。意図した計画が成就した場合、大抵のアマチュアは安堵した表情になります。プロでさえ相好を崩すことが多いのですよ、手に入るカネのことでも考えるのでしょう。それが彼は緊張した表情のままだった。こういう時は何かがこの後に控えているのですね。そしてライブラリィの情報。被疑者と助けられた男を共通検索したところ、真っ先に上がったのが同じ職場。そしてほとんど四六時中一緒に作業をしている仲であったこと、あと、これが決め手ですが、男の死亡直後に被疑者が受けた名誉。男を助けただけで終わるとは思いませんでした」
ライブラリィ検索を暫く続けた後、クリスティは別の日・場所に移動するよう命じる。マシンは亜空間を瞬時に駆け抜け、二週間後に移動した。
「で、ここに奴さんが?」
部下は半信半疑だった。
「まあ、見ていろって」
無軌道貨物運送車に作業員が丁寧に荷物を積み込んでいる。作業用ピッカー(ロボット)にすら触らせないのは、非常に貴重な品物だからだろう。それを証明するように車体には「美術品運搬専用」の文字が記されている。
「見ろ!」
クリスティは内心の安堵を悟られぬよう、語気を強めてカーゴの先を示す。
「おっと凄いな、ボス」
部下は感心して首を振った。積み込みを眺めている数人の中に例の男がいる。いや、正確には容疑者の過去の姿が。
「ネヴァル・ヘンダーソン……ほう、工芸家か。なるほど」
クリスティは擬似窓に何かを打ち込み、暫く思案した後で、
「待ち伏せるならこことここしか……このクルマは首都工芸館へ向かう。途中で奴が待ち伏せているはずだ。この二箇所の可能性が高い。先回りする」
「大体筋書きは読めましたが」
部下の一人が腕を組む。
「こんなことをするほどのものなんですかね?何一つ戻りはしないのに」
「さあね。百年は喰らうだろうからそれほどのものなんだろうよ、奴さんには」
クリスティは頭を振ると、
「さあ、急ぐぞ!」
証人 「逮捕執行時、被告は全く抵抗しませんでした。逮捕の宣言直後に『申し訳ありません』と素直に頭を下げました。以上です」
検察官 「ありがとうございました。お聞きしてもよろしいですか」
証人 「何なりと」
検察官 「証人ご自身の意見をお聞きしたいのですが、証人は歴史改変についてどうお考えになりますか」
証人 「……多少、教条めいて聞こえますが、よろしいですか」
検察官 「よろしいですよ。お考えの通りにお答えください」
証人 「歴史は船の航跡のようなもの、とはよく使われる比喩です。この比喩では歴史改変という行為を、その航跡を横切る別の船の例えで表します。実際、航跡に例えた歴史はそれを横切る改変者により乱れはしますが、船自体に影響はない。ですが、そこには我々の後ろに離れることがない影の存在に等しい祖先の方々が棲んでいる。因果律が否定されようが、我々は祖先が暮らした過去を切り離して存在するわけには行きません。過去は一切触れてはならない聖域です。その過去を乱す行為は現在の我々の存在を卑しめる行為であり、それが個人のエゴイズムによって成された場合、断固糾弾されるべきであると考えています」
検察官 「大変素晴らしいご意見、ありがとうございました。最後に繰り返しとなりますが被告人はあなたに現行犯逮捕された直後、『申し訳ありません』、と言ったのですね?」
証人 「間違いありません」
検察官 「以上、検察側の質問を終わります」
§
DR.(ダーアー)、ルートヴィヒ・ベックは北米連合立ノーザンランド大学歴史学科の主任教授で、御歳百歳、偽像でも古風なスーツを着こなし、絹の白いハンカチを手に堂々とした立ち振る舞いだった。
教授がヘンダーソン裁判で検察側証人として証言台に立ったのは、公判三回目の午後のこと。
この人選には多くの人間が驚いた。被告は教授の教え子であり、学生時代の彼を相当かわいがっていたとの評判があったからだ。弁護側が最初に証人を依頼したとの噂もあり、当然ながら弁護側証人として立つだろう、と噂もされた。しかし教授は弁護側の依頼を固辞し、逆に検察側の依頼を二つ返事に受けたのだった。
教授は検察側にとって最後の証人だった。
「私は宣誓に基付き、真実を語り、裁判が公正に執行されることを妨げる行動は致しません」
教授は宣誓が終わると、さあ、どうする、といった風に検察官の方を向いた。
「先生。さっそく質問いたします。被告は先生の教え子だということでよろしいでしょうか?」
「間違いない」
「詳しく教えていただけますか」
「ヘンダーソン君は二年前まで私の大学で歴史学を専攻していた学生だった。成績は優秀で、私からすれば近年まれに見る真面目で優等な学生だったと思う」
「先生は被告に直接ご指導をしたのですか」
「そのとおり。大学最終年度に一年間、私の研究室で日夜勉学に勤しんでいた」
「当時の被告に何か気になることはありましたか」
「気になるとは」
「他の学生とは違うような性癖とか」
「性癖と言うものでもないが、歴史に対し少々面白い見方をしていたと思う」
「面白い見方とは何ですか」
身を僅かに乗り出した検察官に対し、教授は苦笑いを浮かべる。
「別に過激な思想ではないよ。文明とか英雄とか戦争とか発明、進化、そういった事象に興味を抱かなかっただけだ」
「では、被告は何のために歴史を学んだとお思いですか」
「それは彼に直接聞くのが良いのではないかね」
「分かりました。では質問を変えましょう」
検察官はコホンと咳払いをすると、
「先生は被告の今回の行動についてどうお考えになりますか」
すると教授は被告の方を見て、突然穏やかに尋ねる。
「ヘンダーソン君。なぜ、このようなことをしたのだね」
たちまち警告灯がチカチカと点滅し、
「証人は聞かれたことにだけ答える様に」
と、音声・字幕双方で警告される。
ところが、教授は続けて、
「ヘンダーソン君。君は歴史改変が大変な罪悪であることを学んだはずだ。その君がなぜこんな犯罪に手を染めたのだね」
音声・字幕の警告がけたたましくなる。
「証人に警告します。指示も無く被告人に話し掛けてはいけません」
しかし教授はまるでそこにネヴァルだけが存在するように話し続けた。
「君は取り返しもつかぬことをしでかしたのだぞ!」
「証人は黙りなさい!」
裁判長が木槌を打ち鳴らし、官吏が教授の前に立ち、発言を制止する。すると教授は目の前に指で四角を描く。そこに現われたのは擬似窓。教授は素早く何かを打ち込むと、一瞬にして偽像空間が乱れた。そこに「居た」者から見れば、突然視界がぼやけ、法廷は一瞬のうちに灰一色の空間となった。
「さて、これで私も立派な犯罪者となったわけであるが」
教授は感慨深げに法廷を見渡すと、
「皆さんには申し訳ないが私が行う最後の講義に付き合って頂くことになる。なに、ほんの短い時間だ。この空間閉鎖などプロフェッショナルな方々の手に掛かれば十分と持たないことは分かっている。だからわたしの時間は後九分余りだ。先を急ごう」
教授はそう言うと目の前に擬似窓を出現させ、何かを打ち込むとそれを拡大し、法廷で金縛り状態となった人々にも見えるようにした。
それは大いなる歴史のダイジェストとも言えるもので、主に人間同士による大会戦を次々と映し出す偽像だった。
ベック教授は十秒ほどその偽像を見つめていたが、やがて、静かに話し始める。
「歴史と言うものは、例えそれが間違いであっても触ってはならないものだ。それは時空保安庁なる組織が時空を遡って行われる歴史の改竄を防ぐことで守護されているが、歴史自身が身を護るとしか思えない現象も度々観測されている」
教授は言葉を切ると、再び十秒ほど下を向く。と、
「それだけでなく歴史というものは」
教授はちらり顔を上げると再び偽像を見つめるようにして、
「時として不可解な結果を示す。例えば、磐石揺るぎない支配体制を誇る世界帝国が、たった一人の英傑の出現によって白蟻に穿たれた鐘楼のように崩れ去ったりする。
ローマやモンゴルの例を見たまえ。更に、自らの重みで沈んで行く帝国もある。ヒスパニア然りイングランド然りロシア転じてソ連邦然りアメリカ合衆国然りだ。その時代において最強鉄壁を誇る強大国が、ほんの数百年後には衰弱し滅びる。古代は未だしも近世では我々が今正に学ばんとする歴史と言う教材が在ったのに、だ。歴史を学ぶ者が念頭に置くべきは、この歴史の再現性だ」
「こうした在り様は一体何故起きるのだろうか?これはひとえに人間と言う生物が内在する愚かな感情に由来する。いいかな?人は変化に乏しい平安の世に長く在ると、その和を乱し混乱を渇望するに至る。そんな馬鹿な、と思う者は歴史を注意深く掘り下げてみるがいい。栄枯必衰の物語は古今東西どのような世界にも存在し、英雄の叙事詩は多くの血河と汗涙に満ち溢れている。歴史に名を残した勝者の影で数万数十万の死が存在し、大きな変化が訪れる。それは一見、それまでの淀み腐敗した河川を大雨が一掃するように、乾季の平原に雨季の恵みが訪れるように世界が一新され、よき時代が現われたように感じるだろう。ところが、歴史を洞察すれば、この変化の時期においてさえ後の停滞と混乱の萌芽がある。英雄の一生というものを観照する場合、この点を考慮に入れるべきであるし、見逃してはならない」
「歴史は人間が作る。神ではないことは二一九二年フレマーとコリンズが因果律を完全否定したことにより定説となった。その後二二〇九年、タイムマシンの完成によって歴史が現代の航跡であることが実証され、未来は未知の闇であり我々が切り開き進んで行く『変えられるもの』であることが確認された。このことは、人類の未来にとって大きな前進であった」
「それと同時に過去を改変しても現在にいかばかりかの変化を望み得ることには繋がらないことも立証される。過去は単なる記録であり、記録を改竄しても現在の本質に変化がないように、歴史はどのような試みを受けようとも変えることが出来ないものだ」
教授は一息吐くとネヴァルを見て、
「君は私が教えた中でも優秀なカテゴリーに入っていた。いや、むしろ……最優秀と呼んだ方がよいのかも知れない」
そして悲しげに頭を振ると、
「歴史が単なる記録であることなど八歳の子供でも知っている。変えられないものであることもだ」
教授は再びため息を吐くと、
「君が歴史の改変を試みるとは、な」
そして右手を上げてネヴァルを指差す。
「君が歴史を改変することが死を以ってしても拭えぬ大罪であると認識していなかったのなら、君を指導した私の責任は重大だ。よって私は自分の責任を自身が行える最高度の罰によって償うと共に、全ての時空改変犯罪に対する抗議と警告を込める」
教授は右手を胸に当て深々と頭を垂れ、
「さようなら。諸君」
ベック教授が手を前に振ると、法廷の真中に十三階段が現れる。古めかしく装飾の全くない階段とその上にある絞首台。人々が身動き出来ずに見守るしかない中、教授は自宅の階段を昇るかのように軽やかとも思える足取りで昇り切り、そこに下がる忌まわしい輪の中へ頸を入れる。その瞬間、足元の床が消える。最期に何かを訴えることもない、全く芝居気のない最期だった。
法廷は騒然となった。偽像とはいえ法廷内で死刑が演じられたのだ。目を背けることも出来なかった人々の中には失神する者も出た。
教授が自らに刑を執行した直後、人々の金縛りが解けた。廷吏が教授の偽像に駆け寄り、ゆっくりと揺れているグロテスクな遺体の前で擬似窓を開いて何かを確認する。
「間違いない。転移終了です」
その声に駆け寄った「灰色顔無」の陪審員のひとりが横から割り込むように擬似窓を操作した。
「私はロイドインダストリの技師だが」
と前置きすると、
「この偽像はリアルな中継映像だ。この人は本当に死んだのだ、と思う」
その場にいた法廷取材記者の手により配信された報道は、たちまち報道各社がニュース配信して、それはこの現実に未だ対応出来ないで呆然としていた法廷内の人々の視野の隅にも流れていた。
結審は教授の死から一ヵ月後のことだった。
「判決を下す前に言って置きたいことがあります」
裁判長が口を開くなり、報道各社の配信が瞬時に行われ、ニュースとして視野の隅に流れる。
――判決は極刑か?裁判長、判決前に説諭
「この裁判は大変異例なものでした。検察側証人であったルートヴィヒ・ベック教授が自死したことは大変遺憾なことで、既に法廷侮辱として被疑者死亡のまま送検されているところです。とはいえ、教授が示唆したとおり被告の行いは現在に生きる全ての人々に対する侮辱であり、自らのエゴによりあのような行動を起したことは間違いなく非難されるべきことなのです――」
五分後。判決は音声とテロップ両方で、誰にでも間違いなく伝わるように流れた。
「被告人を終身刑に処す」
§
既に私の身体で生身なのは脳の一部だけだ。それすら、「一体」ではなく「一人」と数えられるため、「人間」の象徴として残されているに過ぎず、生命活動に寄与することもないし、それを自分で意識することも出来ない。
私への施術は、あの裁判の直後に行われた。死刑と言う制度が全面廃止された後、最も過酷な刑と言われるものの一環として。
ベック教授に見捨てられたと憤った頃もあった。それは相手が既にこの世にないことで一層強められ、仕舞にはベック教授を刺し殺したり頸を絞めて殺したりする夢を見るようにすらなっていった。目覚めと共に夢であることを突きつけられ、相手に報復する手段とてないことを思い出す。その絶望の繰り返しで精神を病みかけたこともあった。もちろん自殺も考えた。残念ながらこの身体がそれを許さなかった。
サイボーグはこの度の寿命の再延長で百八十まで生きることを許された。自死を封じられたサイボーグは百八十(施術からではなく生身の生年から数えるのだが)を待たずともその意思を公表すれば死ぬことが出来る。しかし、その権利は無論、終身刑を務める囚人にはない。私の刑期は先月まで後二年だったが、これにより自動延長され三十二年先となった。電脳には自殺防止のチップが埋め込まれているし、施設の医療班のメンテナンスは完璧と言ってもよい。
私は、あと四半世紀以上この置物を眺め続けることになったのだった。