第70話 災厄始動
「遊ぶ前に言っておく事があるんだけどさ。エルカさっき、城に逃げ込んでた人達を外に逃がしてたじゃん?」
「……!」
「ああ安心して。まだ殺してないよ。でもその代わり、今この国はボクが作ったドーム状の魔力の結界ですっぽりと覆われているよ。だから、この国から外に逃げる事は出来ないんだ」
エルカはハッとなって空を見上げた。透明で見えにくいが、確かに何か得体の知れない物が空一面に広がっている。イアーナが先ほど言っていた、彼らは決して逃げられないというのはこういう事だったのだ。
「あの結界は、ボクが自分の意思で解くか、ボクが死なない限り消えはしない。エルカがボクを倒せれば、皆生きてハッピーエンドを迎えられる。でもエルカが負けちゃったら、ボクはこのドーム内を爆破する。人も動物も家もお城も皆粉々に吹っ飛んじゃって、残念無念なバッドエンドってわけ。どう? 面白いゲームでしょ」
「ええ、そうね。これからその憎たらしい顔面をボコボコに出来るんだから、こんなに面白いゲームはないわ」
それを聞いたネイクスが薄ら笑いを浮かべ、馬鹿にするように細い舌をチロチロと出した。そして両腕を軽く広げてふわりと浮かび上がり、目線をエルカと同じ高さに合わせて止まった。
(……来る!)
エルカの集中力は、未だかつてないほどに研ぎ澄まされていた。瞬き一つせず、風でなびくネイクスの髪の一本一本の揺らめきすらも注意深く凝視する。ネイクスの呼吸音や鼓動音すらも聞き逃すまいと耳を立てる。そして僅かな空気の変化も見逃すまいと、触覚や嗅覚すらも最大限に高める。
…………だが、そこまでしても気付く事は出来なかった。ネイクスの顔がエルカの視界のほとんどを埋め尽くすまで、ネイクスの接近に気付けなかった。
「!!?」
エルカは反射的に身を引きながらの左フックを繰り出した。しかし、既にネイクスはそこにいない。気配を感じ後ろを振り返ると、ネイクスはエルカの背後五メートル先で、ポケットに手を入れて余裕の表情でふわふわと浮いていた。
「あは、ビックリした?」
「……くっ」
完全におちょくられているにも関わらず、エルカの心にはいつものような怒りの感情はなかった。あるのは焦燥……そして絶望。ネイクスに勝てるイメージが全く湧いてこない。初めてスパーダと戦った時とは比べ物にならない程の次元の違いを実感する。
「だあっ!」
再び押し寄せる恐怖心を振り払うようなドロップキック。ネイクスは防御もせず、避けようともせずに、真正面からそれを受ける。ネイクスはポケットに手を入れた状態で、くるくると回転しながら吹っ飛び、数十メートル先の空中でピタリと制止した。
「うん。試しに食らってみたけど、結構効くね。あまり油断してると痛い目にあいそうだなぁ」
嘘でもお世辞でもない。だが、ネイクスはその涼しい顔を崩すことはない。まともに攻撃を当ててもこの程度のダメージしか与えられない事に、エルカは動揺を隠しきる事は到底出来なかった。
イアーナとの戦いによる体力の消耗……確かにそれはある。だが、たとえ万全の状態でも結果は同じだろう。
「まあ、そういうわけだからさ。もうこれ以上食らってあげるつもりはないけど、悪く思わないでね」
「!!」
エルカの目に一瞬だけ見えたのは、自分に向かって伸びる無数の閃光だった。どれがネイクスの拳なのか、どれが脚なのか、どれが魔法なのかも区別がつかない。確かな事は、その攻撃の全弾をエルカは浴びせられたという事だけだ。
「…………がっ……!」
全身を駆け巡る衝撃。打たれた全ての箇所から血が噴き出し、ドレスを赤く染めながらエルカの体は弧を描いて吹っ飛ばされた。仰向けに倒れたまま、エルカは激痛に顔を歪める。
ネイクスが舌を出しながらゆっくりと歩み寄る。エルカは膝に手をつき、力を振り絞って立ち上がった。まだソウルファイヤの輝きは消えていない。だから、まだ戦える。まだ勝機はある。
精神力だけで体を支え、再び構えを取る。ネイクスにとって、それは実に滑稽に見えた。そして、今のエルカの顔はネイクスが最も好きな顔の一つだった。恐怖で逃げ惑う者を背中から射殺すのも極上の快感を得られるが、ボロボロになりながら無謀にも自分に挑んでくる者を、その希望諸共踏みにじるのはそれ以上だ。
常に死に物狂いで強さを追い求め、その結果魔界最強の称号を得たエルカ。そのエルカが、何の努力もしていないネイクスの足元にも及ばないという現実。これ程までに自分の強さに酔いしれられる事が他にあるだろうか。
ネイクスは、エルカのように強い相手を求めていた。だがその動機はエルカとはまるで違う。ネイクスは互角の勝負をしたいわけでも、ましてや自分を高めたいわけでもない。相手が強ければ強いほど、そこに至るまでの努力や鍛錬を積んでいればいるほど、それを叩き潰した時の快感が増すからだ。現にネイクスは今、心の底から優越感に浸っている。
「でやあああーー!!」
目にも止まらぬエルカの連擊。だがそれは、並みの相手の場合に限る。ネイクスには逆に止まって見えるのだ。
当たらない。どんなに速く突いても、どんなにフェイントを織り交ぜても全く当たらない。ネイクスは手を出さない。それなのに、エルカの体力……精神力……戦意……そして希望……何もかもを奪っていく。
「ほっ」
ネイクスがエルカの両手首を掴み取った。握力を強めると、エルカの手首の骨がミシミシと軋む。
「うっああああ!!」
「あはは、いい悲鳴だね。もっと聞かせてよ」
エルカが足を振り上げるが、同時にネイクスが手を離して身を引いて避けた。
「うぐっ…………ハア……ハア……ハア……」
手首の痛みで手が震え、汗が止めどなく溢れる。目がかすみ、鼓動が早まり、息が切れる。ソウルファイヤも、もう間もなく消えようとしていた。
「そろそろ限界かな? まあでも誇っていいよ。千年溯っても、エルカほど強い人はほとんどいなかった」
「……ふ……ふふふ……」
「あれれ、どうしたの? とうとうおかしくなっちゃった?」
ネイクスがエルカの顔を覗き込みながら言った。もはやエルカには勝ち目など微塵もない。ネイクスはもちろん、エルカの理性もそう告げている。だが、エルカの本能はそれを否定する。
極限までに追い詰められた、かつてないこの状況。それがエルカの中に眠っていた何かを揺り動かす。ネイクスもそれを僅かに感じ始める。さっきまでニヤけていた顔が、無意識のうちに無表情に戻っている事にネイクスが気付き、ハッとなった。何かが押し寄せてくる。見えない津波が目の前に来ているかのような錯覚を覚える。得体の知れない危機感が、ネイクスの余裕を奪い去った。
「人の限界を…………勝手に決めつけんじゃないわよ!!」
「!?」
その津波は拳となり、咄嗟に防御したネイクスの腕を押し流し、顔面のど真ん中を完璧に打ち抜いた。背後にあったゴミの山に突っ込む寸前でネイクスは踏みとどまる。鼻からジワリと何かが出てきた。血……間違いなくそれはネイクスの鼻血だ。この戦いで初めてエルカがネイクスに確実なダメージを与えた。
その事自体は特筆する程の事ではない。問題なのは、それが死にかけのエルカによってもたらされた物だという事だ。それだけではない。ネイクスはあの瞬間、確かに己の身の危険を感じた。エルカに恐れを抱いた。
「……お終いにしよっか。もう充分楽しんだしね。エルカも楽しかったでしょ?」
ネイクスは落ち着きを取り戻し、エルカに向き直って笑いかけた。だが……その目は決して笑ってはいなかった。
*
この異空間に充満する魔気が、今なおヤドックの肉体を蝕み続ける。だがヤドックはあくまで冷静にこの真っ暗闇の中から脱出する方法を模索する。
まず、この異空間はどこまで続いているのか、走り続けて確かめた。答えは無限、もしくは数百キロ以上。天井はあるのか、ジャンプして確かめた。答えは無限、もしくは数百メートル以上。何か変化はあるのか、注視して確かめた。答えはどこまで行っても暗闇。パイソン本体にダメージを与える方法はあるのか、全ての攻撃パターンを試した。答えは無し。パイソンにとって完璧なまでに安全な空間だ。だからこそ、わざわざヤドックの前に姿を現したのだろう。
「あなたも諦めが悪いですねぇ。ですが、流石にもう万策尽きたようですね。それにしても、常人ならとっくに死んでいるというのにその老体でこんな長時間持ち堪えるとは、大したものです」
「……ふむ」
ヤドックは顎に手を当てて考える。無敵の能力など、存在するはずがない。どんなピンチだろうと、ヤドックは今まで己の知恵と力で切り抜けてきたのだ。
ヤドックは一つ見落としていた事に気付いた。自分が立っているこの地面。これには確かに質量がある。確かに靴の裏が地面に触れている。ヤドックが片膝を立て、ノックするようにコンコンと地面を叩いた。
「なるほど」
ヤドックが拳を握り、そのまま照準を定めて腕を振り上げた。
「はは、何がなるほどなんです? まさか壁や天井がないなら、地面を破壊すればここから出られるとでも思っているんですか? 無駄ですよ。この空間はそんな……」
パイソンの言葉を待たず、ヤドックの拳が打ち下ろされた。ミサイルでも落とされたかのような爆音と衝撃と共に、地面に白い亀裂が延々と四方八方に走り抜けた。
「なっ……なあぁ……!?」
常識を覆す出来事に驚愕するパイソン。完全無欠と自負していたその異空間は、落とした水晶玉のようにあっけなく砕け散った。辺りには、さっきまでヤドックが見ていた街並みが広がっていた。無事に戻って来られたのだ。
「そ、そそそそんな馬鹿な! あり得ないぃいぃ! こんな事は絶対に!」
「さて……死ぬ覚悟は出来ておるじゃろうな?」
「く、くそ! ならばもう一度……!」
パイソンが、再び異空間に閉じ込めようと手を翳す。しかしヤドックは一瞬で間合いを詰めてその腕を掴み、力任せに捻じり折った。
「ギャアアアーーー!!」
「邪魔じゃ」
ヤドックの掌底がパイソンの顔面に突き出され、頭部を粉々に破壊した。首元から血を噴き出し続ける残った胴体を蹴り飛ばし、ヤドックは改めて城に目を向ける。しかし、城の方は妙に静まり返っている。
「……むっ!? この気配は!」
感じる。一度体感したら忘れられない、ネイクスの魔力を。しかも、空を見ると魔力の結界で国全体が覆われているのが分かった。とてつもない胸騒ぎがヤドックを襲う。ヤドックは慌ててその方向へと足を向けた。
(奴も来ていたとは……。恐らく、フロッグタワーの方か。姫様もそこにいるのじゃろうか?)
城から数キロ離れた所に、開国と同時に記念として建てられた、四角錐状の高さ三百メートルの高層タワーがある。そこを目指してヤドックは全速力で街中を駆け抜ける。あっという間にフロッグタワー前の広場に到着し、辺りを見回す。
そして……ヤドックが最も恐れていた光景を目にする。
「ひ……姫様!!」
フロッグタワーの頂上に立つネイクス。そして、正面からネイクスに片手で首を掴まれ、外に投げ出される形で持ち上げられているエルカ。
ネイクスが眼下のヤドックに気付き、薄ら笑いを浮かべてからその手を放した。唯一の支えを失ったエルカは、人形のように真っ逆さまに地面に向かって落ちていく。
「くっ!」
ヤドックが慌てて落下地点に駆け寄り、エルカの体を受け止めた。ヤドックは直ぐさまエルカの容態を見る。息はある……しかし、生きているのが不思議なぐらいに全身ズタボロで、完全に意識を失っている。
フロッグタワーから飛び降りたネイクスが、ヤドックの目の前に着地した。ヤドックはネイクスを見上げ、かつてない怒りの眼差しを向ける。
「やっぱりパイソンじゃ駄目だったか~。不意打ちで異空間に閉じ込めちゃえばもしかしたらと思ったけど、ちょっとばかし格が違い過ぎたみたいだね。まあ、別にいいけど」
手下がやられても、ネイクスは当然のように意に介さない。むしろ、どこか嬉しそうだ。
「お爺さんはどうする? ボクと遊ぶ? 遊ばないなら、もうここに用はないから爆破させちゃうけど」
ヤドックはエルカをそっと寝かせ、ゆっくりと立ち上がった。マグマのように湧き上がる怒り、そして闘志。内に宿る全ての殺意をネイクスに向ける。
「……少しばかり、おいたが過ぎるようじゃな。親に代わって、儂が貴様を折檻してやろう」
ヤドックの筋肉が膨れ上がった。その勢いで服が吹き飛び、古傷だらけの肉体が露わになる。そして、ヤドックの体内から放出される白い炎。その圧倒的な威圧感に、ネイクスは今までにない興奮を覚えていた。




