第65話 大噴火
走る。草原を走る。森を走る。荒野を走る。湖の上を走る。山を突き抜け、谷を飛び越え、ノンストップでエルカとヤドックは走り続ける。そのスピードは、常人にはその残像すらも視る事は適わない。時折すれ違う通行人からすれば、何かとてつもない突風が過ぎ去っていったとしか思えない。
「もう間もなく着きますな。二時まではあと
十五分以上あるから、時間は充分です。もっとも、奴らが時間きっかりで現れる保証などどこにもありませんが」
「……そうね」
「姫様、宜しければこれをお使い下さい」
走りながらヤドックがエルカに差し出したのは、長い布きれだ。エルカはそれを首をかしげながら受け取る。
「ここに来る途中、ベルーゼが渡してきた物です。これで顔を隠せば、姫様の本性が民衆に明るみに出る事はないだろうと」
「へえ。あいつにしては気が利くのね。でも……」
エルカは布きれを放り捨てた。エルカの手から離れたそれは、既に遙か後方に置いて行かれてしまった。
「いらないわ」
「な、何故です? お顔を隠せば、まずバレる事はないでしょう。そのドレスもベルーゼ城にあった物ですから、後は声にだけ気をつければ……」
「何で姫が自分の国に帰るのに、盗賊みたいに顔を隠してコソコソしなきゃならないのよ。気に入らないわ」
天よりも高いエルカのプライドが、顔を隠すといういとも簡単な解決法すらも拒んだ。しかし今回ばかりは、ヤドックも簡単には引き下がらない。
「姫様……お気持ちは重々承知しております。しかし、だからといって十八年の苦労を棒に振るおつもりですか? 今までフロッグの王女として完璧に振る舞ってきたのが、全て水泡に帰すのですよ?」
「……」
エルカは足を止めず、視線も前を見たまま黙りこくる。暫し考えた後、ゆっくりと口を開いた。
「構わないわ。まあ、いいんじゃない? こんな暴れん坊な王女が世界に一人ぐらいいてもさ。もういい加減、自分を偽るのは疲れたのよ。戦う事が何よりも好きな戦闘狂、それがフロッグの王女エルカよ。もうどうでもいいわ」
エルカは半ば自暴自棄な口調で吐き捨てるように言った。ヤドックは次の言葉を探したが、やがて諦めたように溜め息をついた。
「……分かりました。姫様がそこまで仰るのなら、もう何も言いますまい。皆には、事が済んだら私の方から説明しておきます」
当然、そんなのはエルカの本意ではない。出来る事なら完璧な姫として国民達の思い出に残ったまま、その生涯を終えるまで魔界に永住したかった。
ベルーゼに攫われてからは全てが上手くいっていた。途中ヤドックに連れ戻されて多少プランは狂ったが、まだ舵を切り直す事は出来たかもしれない。だが、今度こそ終わりだ。
この切なく虚しい気持ちをどこにぶつければいいのか…………そんな事は決まっている。エルカは今はまだ穏やかな態度を崩さないでいた。それはまるで、マグマの噴火を抑えている休火山のように……。
「むっ! あれは!?」
ヤドックがフロッグをその視界に捕らえる。そして一目で異変に気付いた。そこかしこから煙が上がり、蜂の群れのようにフロッグの周りを魔物が飛び交っている。聞こえるのは怒号、悲鳴、銃声、爆発音。襲撃は既に始まっていた。
「おのれ……! やはり大人しく待っているような輩ではなかったか!」
「ヤドック、とりあえず二手に別れるわよ。幹部クラスの奴がどこかにいるはずだけど、まずは雑魚を掃除してからよ」
「御意! 姫様、くれぐれも無茶はせぬよう」
「あんたもね。もう爺なんだから」
二人が同時に地を強く蹴り、左右に別れてそのままフロッグに突入した。
*
フロッグの街中では兵士達が奮闘していたが、かつてのベルーゼ軍にすら歯が立たなかった程度の兵力だ。ネイクスの軍相手では、どうにもならない。人の死体が増えていくだけだ。
兵士達の誘導により、民達は城の中へと避難していく。しかし、そんな事をしても時間稼ぎにしかならない。もはや袋のネズミだ。
およそ百人ぐらいの逃げ延びてきた人々は、城内のダンスホールに集まり、身を寄せ合って恐怖に震えていた。そこにはエルカの両親、ノット王とアルマ王妃の姿もある。
「あ、あなた……どうしてこんな事に……」
「恐らく、ベルーゼがエルカを取り戻しに来たのだろう。エルカがこの場にいなくて良かったが、ヤドックも出払ってしまっているのは痛恨過ぎる……!」
そして遂に、魔物達の手が城にまで及び始めた。数秒間隔でダンスホール内に響き渡る轟音と震動。外側から何らかの攻撃を受けているのだ。
魔物達がその気になれば、こんな城の壁など容易く壊せる。敢えてじわじわと攻め進むことによって、より深い絶望と恐怖を味わわせて愉しんでいるのだ。
壁に亀裂が走り、人々の恐怖は最高点に達した。そして、そこからはあっという間だった。ダムが崩壊するように、魔物達がダンスホールに流れ込んでくる。万事休す……その場にいた全員が死を覚悟した。
その時だった。ワンテンポ遅れて、別の何かがダンスホールに飛び込み、疾風の如く縦横無尽に駆け回った。それとすれ違う魔物は次々と爆散し、気持ち悪い音を立てて床に肉片をぶちまける。その地獄絵図に、またしても悲鳴が巻き起こる。
時間にして十秒程度で、その場にいた全ての魔物は全滅した。その直後に疾風は足を止め、人々の前にその姿を現した。そして誰もが愕然とする。夢か幻か、それともよく似た誰かか。その顔を知らない者は、当然その場にはいないのだから。
「ひ……姫様?」
「エルカ姫様……!?」
「いや、そんな馬鹿な……」
「こ、これは一体?」
「俺、夢でも見てんのか?」
「ママ……エルカ様って、あんなだっけ?」
「えと……ど、どうだったかしらね……」
ざわつく人々を押し退け、ノットとアルマが前に出てくる。目を凝らしながら歩み寄って見てみると、やはりそれは二人の最愛の娘に間違いなかった。ノットが恐る恐るエルカに声をかけた。
「エルカ……なのか?」
「……ええ。ただいま」
エルカは仮面を付けているかのように無表情で答えた。戸惑いながらも、今度はアルマが割って入る。
「エルカ、あなた一体……一体今何をしたの?」
「見ての通りよ。あんたらが襲われてたから、私がこいつらを皆殺しにした。何か問題でも?」
「な……な……!?」
エルカだ。この娘は間違いなくエルカだ。だが、皆が知っているエルカはこんなだったか……? いや、そんなはずはない! 全員が心の中で、そう自問自答する。
腰まで届く長い髪はバッサリと肩の上まで切られている。その目はかつての聖母のような穏やかさはどこへやら、まるで肉食獣のような鋭い眼光を持っている。見慣れないドレスには、魔物達の返り血がたっぷりと付着している。そして何より、おしとやかさの欠片もない今の言葉遣い。何もかもが今までのエルカのイメージをぶち壊しにするには充分過ぎる。
「言いたい事とか聞きたい事とか山ほどあるだろうけど、詳しい事は後でヤドックに聞いて。説明するのも面倒くさいし、今はそんな暇はないの」
エルカはそう言って、破られた壁の穴から見える空を見上げた。他の者もそれに釣られて顔を上げる。
……何かがいる。ニメートル近い巨体、その巨体に背負われている大剣、長いドレッドヘアー、そして全身に彫られている蛇のタトゥーが特徴的な柄の悪い男が、両手をポケットに入れて上空からこちらを見下ろしている。エルカが、下りてこいと言わんばかりに指招きをすると、男はニヤリと笑って降下を始めた。
男がダンスホールに降り立つと、人々は一斉に端の方に後ずさった。一人中央に残ったエルカに、ノットが声を震わせながらエルカに手招きする。
「エ、エルカ……! 危険だぞ、下がるんだ!」
「いいから黙ってて」
エルカは顔だけ向けて、有無を言わさぬ威圧的な口調で、ノットとの会話をピシャリとシャットアウトした。そして男に再び視線を戻す。
「てめえがエルカだな?」
「ええ。だから何?」
「噂には聞いてるぜ。人間の身でありながら、魔族連中を率いてサウザンドトーナメントを制したってな。一体どれほど強いのか、是非一度戦って確かめてみてえと思っていたんだ」
男はニヤリと笑うと、背負っていた大剣を抜いて構えた。
「六龍が一人、ゴフラ。ネイクス様の命により、てめえをぶった斬らせてもらおう」
「六龍? ああ、そういえば私の仲間の一人が言ってたわね。ネイクスは六人の手下を引き連れてNエリアに現れたって。その一人って事ね。ふーん……じゃああんたがこいつらを率いてやってきたボスってわけか」
一見興味なさげに、エルカも両拳を上げて構える。周りの者達は二人の会話の意味はさっぱり分からないが、それでも何となく察する事が出来る部分もある。
エルカは本当はとてつもなく強かった。そしてその力を用いて、今この国を救おうとしてくれている。それだけは確かなのだ。
「行くぜ!」
ゴフラが大剣を振り上げながら、その巨体に見合わぬスピードでエルカに突進する。目の前まで間合いを詰められても、エルカは動かない。ゴフラはエルカの脳天目掛けて、その大剣を垂直に振り下ろした。
肉と骨が斬り裂かれる感触。血が噴き出し、真っ二つになった肉体が倒れ込む音。それがゴフラが思い描いていた、数秒先のビジョンだった。
「……えっ」
現実は全く違っている。エルカのたった二本の指で、その自慢の豪腕によって振り下ろされた大剣は止められていたのだ。周りの人々も、あまりにも現実離れした光景に目を点にする事しか出来ない。
無表情だったエルカの顔付きが、少しずつ変わっていく。休火山が、遂に活動を始めた。徐々に、徐々に、そのマグマは頂点へと昇っていく。至近距離にいるゴフラは、それを嫌というほど肌で感じていた。
「ぐぎゃ!!」
エルカはゴフラの顔面に拳をぶち込み、その勢いのままゴフラの後頭部を床に叩きつけた。その衝撃で、地震が起きたかのように国全体が大きく揺れる。
拳で顔を押さえつけられたままのゴフラが、脱出しようと藻掻き始める。エルカは自ら拳を離して立ち上がり、間髪入れずゴフラの脇腹を思い切り蹴り上げた。天井から吊り下がっていたシャンデリアに頭から突っ込み、それと共に再びエルカの目の前に落ちてきた。辺りに最高級のシャンデリアの破片が、粉々になって散らばっていく。
「がふっ……な、な、何て奴……うおっ!?」
顔を上げたゴフラが、ビクリと身を震わせて後退した。エルカが鬼の形相で、シャンデリアの破片を踏み潰しながら、一歩一歩ゆっくりと歩み寄ってきているからだ。ゴフラは息を飲み、慌てて大剣を握って立ち上がる。
「こ、今度はさっきのようにはいかねえぞ! これならどうだぁ!」
ゴフラが大剣を軽々と振り回し、今度は連続的な斬擊を繰り出す。その斬擊の全てをエルカは紙一重で躱していく。
(くそっ! 何故だ……何故掠りもしねえんだ!?)
大剣が止まった。いや、またしても指だけで止められていた。紙をつまむように、いとも簡単に。ゴフラが押しても引いてもビクともしない。それはエルカによって完璧に固定されていた。
「……私はね、今までこの本性を隠して、フロッグの姫として恥じない自分を演じてきたわ」
突然エルカが語り始めた。ノットもアルマも民達もそれに耳を傾ける。
「どのくらいそれをしてきたと思う? 十八年よ、十八年。分かる? あんたら魔族にとっては大した期間じゃないかもしれないけど、私ら人間にとっての十八年はとても長いものなの」
「……う、うおああー!!」
ゴフラが右手を大剣から離し、エルカの顔に殴りかかる。しかし、それすらも当然のようにエルカは軽く受け止めて話を続ける。
「戦いが好きな私にとって、魔界での生活は充実していたわ。でもあんたがここに攻めてきたせいで、私はここに戻らざるを得なくなった。そして、こうして大衆に曝す必要もない私の本性を曝す羽目になった。どうしてくれんの? 私の十八年の苦労は一体何だったの? ねえ……ねえってば…………」
「……う……あぁ……あ…………」
「聞いてんのかよこのクソボケ野郎がああぁぁぁぁーーーーーッッッ!!!!」
鼓膜を突き破るような怒声と共に繰り出される嵐のような拳。ゴフラの目にはもはや何も映らないほどの超スピード。その拳がゴフラの鼻骨、頬骨、鎖骨、胸骨、肋骨、大腿骨と、前半身を形成する骨という骨を無遠慮に体内で砕いていく。最後には遠心力を目一杯つけた回し蹴りを、ゴフラの顔面に叩き込んだ。
「うっぎゃああああ!!」
ゴフラが絶叫しながらぶっ飛んでいく。そしてバーカウンターに突っ込み、その衝撃で陳列されていた酒瓶が落下して、中身がぶちまけられた。震えながらゴフラが身を起こすと、既にエルカが目の前で手を伸ばしてきていた。
「や、やめ……た、たふけへ……たふけへくえ……」
エルカはゴフラの髪を鷲掴みにして引き起こし、その顔面を自分の膝に何度も何度も何度も何度も打ち付ける。髪を掴んだまま背後に回り、今度は背中を高速で繰り返し踏みつける。ぐちゃぐちゃと音を立てながら、皮や肉を突き破りながら骨や内臓を破壊する。後ろ半身の骨もこれで全損……いや、もはや既にさっきまでゴフラの胴体だったそれは、原型という物を全く留めていなかった。残った頭部も下に落とした後、同じように何度も踏み潰す。十八年溜め続けた鬱憤を丸ごとゴフラにぶつけるかのように、怒りや憎しみを全てその足に乗せた。
更に全身返り血塗れになったエルカが、ようやく我に返りその足を止めた。そして、床に転がる肉の塊に唾を吐き捨てる。
「……ちっ、しまった。こんなに早く殺すつもりじゃなかったのに。こんなんじゃ、まだ半分ぐらいしかスッキリしてないわ」
エルカによるゴフラとの一方的なペアダンスが終わり、ダンスホールはしんと静まり返る。あまりの壮絶さに、誰もすぐには言葉を発する事が出来なかった。エルカは煮え切らない気持ちのやり場がなく、ただ天を仰いで溜め息をつくだけだった。




