第51話 超えてきた死線
時は昨夜まで遡る。今のままではスパーダに勝てる望みは薄い。そう判断したエルカがヤドックを連れだし、自身にまだ教えていない奥義の教えるように命じた。
「……まったく、姫様には敵いませんな」
ヤドックはそう言って上の服を脱ぎ、上半身をさらけ出した。八十を超える年齢とは全く不釣り合いの、一切無駄のない引き締まった筋肉。そして、百戦錬磨を証明するような、無数の傷跡がそこにはあった。
「お見せする前に、一つ簡単に説明させて頂きます。まずお聞きしますが、通常人間の体は本来の力の何パーセントまで発揮できるか、姫様はご存じですかな?」
「確か、大体三十パーセントぐらいだったかしら?」
「その通りです。現時点、姫様はそのたった三十パーセントの力で、魔界の頂点に限りなく近い位置にいるという事になりますな。その姫様がもし、百パーセントの力を発揮出来たらどうなるでしょう?」
「無敵ね。でも、それをやると体がぶっ壊れるから、三十パーセントしか出ないように人間の体は出来てるんでしょ? 全力を出してこっちが先に戦闘不能になったら意味ないわ」
「これから教えるのは、その体にかかる負担を別の物に負担させる事によって、百パーセントの力を出来るだけ長く継続する方法です。手取り足取り教えて会得出来るものではありません。目で見て盗んで下さい」
ヤドックは、両足の間隔を肩幅よりも少しだけ広げた。そして両の拳を握り締め、大きく息を吸い込んだ。
「……ハッ!!」
ヤドックの体の中心で爆発が起こったかのように、周囲一帯に衝撃波が突き抜けた。筋肉が膨張し、血管が浮き出て、白いオーラがその全身を纏った。
(こ……これがヤドックの全力……!?)
エルカは戦慄した。あまりにも常識という概念から逸脱した、その圧倒的なパワーに完全に気押されている。エルカが強くなったからこそ、改めてヤドックの底なしの強さを思い知らされた。いつかはヤドックを超える……エルカのその信念が、ほんの僅かにぐらついた。
「ソウルファイヤと呼ばれる禁じられた技法です。その名の通り、この燃えるようなオーラは魂の燃焼です。魂を燃やす事で発生するエネルギーによって、筋肉や骨への負担を限りなくゼロに近付けます。この状態で戦えば、例え百パーセントの力を出したとしても肉体が破壊される事はありませぬ」
「……理屈は何となく分かったわ。だからと言って当然、ノーリスクなんて都合のいい話は無いのよね?」
「はい。言わば命を燃やしているも同然。長時間使い続ければ、肉体の破壊どころか、確実に死に至ります。持って十分程度といったところでしょうな」
ヤドックはオーラを引っ込め、平常時の状態に戻った。僅かな時間だけだったというのに、ヤドックの額には汗が滲み出ていた。その汗が、ソウルファイヤの危険さを物語っている。
「もっと見せて差し上げたいのですが、私も老体故にあまり無理は出来ませぬ。後は姫様ご自身の力でおやりになって下され」
力のリミッターを外し、魂を燃やす……エルカは考えた事もなかった。口で言うのは簡単だが、ただ気合いを入れるだけとは訳が違う。もちろん、普通は一朝一夕で会得できるものではない。
(儂もリミッターを自由に外せるようになるまで五年、ソウルファイヤを自在に使えるようになるまで十年かかった。いくら姫様でも、一晩ではどうにもならんじゃろうな。せめてその片鱗だけでも出せるようになればいいのじゃが……)
そう思った矢先、エルカの体内から黄緑色のオーラが放出された。それは間違いなく、魂の燃焼によって生じる輝きだった。あまりの出来事に、ヤドックは一瞬何が起こったのか理解出来なかった。
「な……なんと……!」
「あら、出来ちゃったわ」
戦闘の天才……そんな事は昔から分かりきっていた事だったが、ヤドックはこの時ほどエルカの末恐ろしさを実感した時は無かった。まさか本当に一目見ただけで会得できるとは思っていなかったのだ。
「参りましたな……十五年も修行したのが馬鹿馬鹿しく思えてきましたよ」
ヤドックは弟子の成長や才能が嬉しい反面、同時に師匠としての切なさも感じていた。
「でも、見た目はあまり変わってないわね。魂はちゃんと燃えてるみたいだけど、リミッターの方は外せてるのかしら?」
「大丈夫ですよ。昔から姫様はどんなにパワーを上げても、筋肉が増すような事はほとんどありませんでしたから。どんなカラクリになってるのか、私にもさっぱり分かりませんが」
「ふーん。まあでも、確かに凄いわこの力。これなら、あのスパーダにも充分に通用しそうだわ」
エルカは手を開いたり握ったり、太股を上げたり下げたりして感触を確かめた。早く確かめたい……今の自分が、一体どれ程の強さなのかを。そんなエルカの考えを見通しているかのように、ヤドックが釘を刺しにかかる。
「姫様。何度も申し上げますが、これは肉体の破壊と引き替えに命を削る技法です。断じて多用はしないで下され。どうしても使わなければ勝てない時のみ、十分間だけ使用を許可します」
「十分ねぇ……長いんだか短いんだか。まあ、一応肝に銘じておくわ」
*
殴られた。スパーダがそう認識したのは、それが起こってから一秒も経過してからだった。気がついた時には自分の体は吹っ飛んでいて、闘技場内の壁という壁を次々と突き破っていたのだ。闘技場近くにそびえ立つ岩山に突っ込んだところで、ようやくそれは止まった。
しかし、一息つく暇など全くない。既にエルカは砂埃を上げながら、すぐそこまで迫ってきていた。そのエルカが、腕を大きく振りかぶった。単純な右ストレート……スパーダも、今度はまともに食らってやるつもりはない。
(防御……いや、あれは無理だ。避けるしか……)
その刹那の迷いがアダとなってしまう。エルカは直前で更に加速した。スパーダは防御も回避も出来ず、超高速のスピードを乗せたストレートを腹のど真ん中に食らった。
「がはっ……!」
「まだまだああーーーー!!」
エルカの拳の猛ラッシュ。スパーダが岩山を背にしていようが関係なく、突進しながらそれを続けた。スパーダの全身という全身に拳を叩き込み、トンネルを掘り進むようにスパーダの体を岩山に押し込んでいく。反対側まで突き抜けたところで、遠心力を目一杯つけた回し蹴りをぶち込み、スパーダを遙か彼方へと吹っ飛ばした。
「……くっ、ハア、ハア、ハア……!」
エルカは、限界ギリギリまで水中にいたように息を切らした。一時的にソウルファイヤを解除し、膝に手を突いた。今まで味わったものとは明らかに質の違う疲労感。これが魂を、命を削るという事なのだと、エルカは理解する。今のうちに少しでも休息を……そう思った矢先であった。スパーダがこちらに向かって猛スピードで飛んでくるのが見えたのは。
「ふうう……休ませる暇は与えないって事ね。上等だわ、クソッタレ」
スパーダが着地した。百パーセントのエルカの乱打をあれだけ食らっただけあって、流石のスパーダも無事では済まなかった。全身ボロボロで、出血も止まる気配がない。
しかしそれでも、休息が必要なのは自分ではなくエルカの方だという事を、スパーダは理解している。あれだけの力を、いつまでも出し続けられるわけがないと。だからこそすぐに戻ってきたのだ。
「……お前は俺の想像を遥かに上回っていた。パワーだけなら明らかに俺を超えている」
「そりゃどーも」
「だが勝敗は別だ。さっきの光は、お前の魂だろう? あんな無茶な使い方を長時間続けられるはずがあるまい。精々、あと七~八分といったところだろうな」
「……」
事細かにバレている。ソウルファイヤの致命的な弱点を。
「時間切れになれば、もはやお前に打つ手はない。だが、お前が勝てない理由はそれだけではないぞ。何だか分かるか?」
「知るか!」
話を打ち切るように、エルカが再びソウルファイヤを発動させた。真正面からエルカがスパーダに襲いかかる。スパーダが身構えた瞬間、エルカが視界から消えた。津波のような殺意が背後に迫っている事にスパーダが気付いた時には、既にその背に衝撃が走っていた。
「うぐっ!」
エルカは吹っ飛びかけたスパーダを、髪の毛を掴んでふん捕まえた。
「ウルァァーー!!」
エルカが空いた方の手で背中に連打を仕掛けた。片手にも関わらず、マシンガンのような拳の弾幕を浴びせ続ける。スパーダの背骨が軋み、口からは止めどなく血が溢れ出す。
エルカは攻撃するのに夢中で、スパーダの指が自分に向いている事に気付いていなかった。そこから勢いよく発射された糸が、瞬時にエルカの全身に巻き付いた。こんな物は、今のエルカには簡単にほどかれる……そんな事はスパーダももちろん分かっている。だが確かに一瞬の隙は出来た。
スパーダは数歩分の距離を置き、蚕の繭のように糸で全身ぐるぐる巻きになったエルカに向けて、さっきのお返しと言わんばかりに魔法弾を連射する。エルカの体は流されるままに、森を突き抜けてまた別の岩山にぶつかった。それでも尚スパーダの攻撃は止まない。
「しゃら……くさい!」
気合一閃、エルカが巻き付いていた糸を全て吹き飛ばす。そして岩山を蹴り、ミサイルのように水平にスパーダに向かって飛び出した。あっという間にスパーダを視界に捕らえ、エルカはその勢いのまま殴りかかった。スパーダは避けようとしない。そのエルカの拳を、自らの手で受け止めた。
「!?」
エルカは、時間経過でパワーが弱まってきたのかと思ったが、それは違うという事にすぐに気付いた。スパーダもいよいよ、真の力を見せ始めたのだ。今まで手加減していたわけではない。今のエルカは、スパーダを更なる高みへと押し上げるには充分だったという事だ。戦いの中で成長するのは、エルカだけの特権ではない。
エルカがもう片方の拳を繰り出す。しかし、これも同じように止められた。ならば足だ。その判断はスパーダの方が速かった。スパーダのつま先がエルカの顎を打ち上げ、みぞおちに肘鉄を食らわせた。一瞬エルカの息が止まり、吐き気が込み上げてくる。最後にはスパーダの回し蹴りがエルカの側頭部を捕らえ、エルカは倒れながら地面をスライドしていった。
「ゲホッ! ゴホッ! ……ハア、ハア」
エルカは何とか身を起こすが、ソウルファイヤが消えている事に気付いた。まだ十分は経っていない。強いダメージによって、一時的に引っ込んでしまっただけだ。
しかし、エルカは僅かながらにショックを受けた。自分の命を削っても、まだスパーダにここまで食い下がられてしまっているという事実に。
「……少し、俺の過去の事を話してやろう。お前が俺に勝てない理由と関係のある話だ」
スパーダが、ゆっくりとエルカに歩み寄りながら語り始めた。
「俺は、昔は脆弱な魔族だった。ダカシアも、ラチュラも、ジュリイもそうだ。お前の所の魔物達と大差ないぐらいにな」
「……は?」
スパーダの口から出た意外な言葉に、エルカは顔を上げた。だが、スパーダはともかく他の三人は納得できる。ゴブリンにバンパイアにサキュバス……お世辞にも強い種族とは言えない。
「弱肉強食は魔界の唯一のルールだが、かつてのSエリアはそれが特に顕著だった。弱者は奴隷や戦争の捨て駒にされ、それにすらなれない者は消されるだけだ。そして俺は生まれた時からその道を歩んでいた。親の顔すらも知らない。だが俺は、一日足りとも野望を捨てた事はない。いつの日か必ず魔界の頂点に立ち、今まで俺を虐げてきた者達を、この手で支配してやるという野望はな」
「……ベルーゼに聞かせてやりたい話ね」
「他の奴隷達は俺を笑ったよ。奴隷如きが何をほざいているんだ。雑魚は雑魚らしく、大人しく強者に尻尾を振ってろ、とな。だが、そんな身の程知らずの俺についてくる者もいた。それがあの三人だ」
ダカシア、ラチュラ、ジュリイだ。彼らも変わりたかったのだ。弱い種族に生まれ落ちたからといって、諦めたくはなかった。そして、スパーダについて行けば頂点を目指せると思ったのだ。
「俺達四人は進んで戦争の捨て駒に志願した。常に最前線で戦ってきた。当然、何度も死にかけたさ。何度も何度も、何度も何度も何度もな。だがその度に生き残った。脆弱な身でありながら、ただ頂点に立ちたいという執念だけで自分を支えてきたのだ」
スパーダは今まで飲んできた苦渋、舐めてきた辛酸、味わってきた屈辱、恥辱、苦痛を思い出し、初めて感情を込めて言った。
「長い年月を経て、やがて俺達四人はSエリアの支配者となった。かつての支配者とその取り巻き共は、今も生かしてある。殺してしまっては意味がないからな。弱肉となった者の苦しみを味わってもらわなければなるまい?」
「ふっ……ご立派なものね。で、それが私があんたに勝てない理由と何の関係があるの?」
スパーダは、まだ分からんのかと言いたげな目でエルカを見下ろした。
「お前は今まで自分より強い者と、一体どれくらい戦ったことがあるんだ?」
ヤドック……そしてスパーダ。エルカの脳裏に浮かんだ名前はこの二つだけだった。
「人間界に敵などいまい。察するにお前は、最近魔界に来たばかりで、実戦をまともに経験したのも最近の事だろう。だが、この魔界にもお前より強い者はほとんどいなかった」
「……まあ、そうね」
「はっきり言って、今の俺とお前の実力は総合的に見れば拮抗している。だが、自分より強い者との戦いの経験の差は、必ず最後に表れる。地力の差という物はそういう物だ。何が言いたいか分かるか?」
「……」
「お前とは……超えてきた死線の数が違うという事だ。圧倒的にな」




