第六章 氷の心
「あれ・・・今日も弥生いないんだ。」
小雪は自分の席に着いて、空っぽの弥生の机に目を向け、呆れたように呟いた。
4時間目の授業は英語だった。
英語では出席番号が1から20の人と、21から40の人というように、クラスが分けられる。
小雪は(有森)なので、当然前半のクラスであるが、(高橋)と(藤沢)である弥生と澪は後半のクラスだ。
前半のクラスが主に教室移動をするため、小雪は授業が行われる間多目的室に移動していた。
ちなみに先ほどの言葉は、教室に戻ってきたときに発せられた言葉である。
最近、弥生は授業中と放課後以外ほとんど音楽室に入り浸りだ。
以前は当然のように一緒に食べていた昼食も、3人で取ることが少なくなっている。
今日もどうやら弥生は綱紀に会いに行ったらしい・・・教室内に弥生の姿は無い。
・・・この間の綱紀の曖昧な発言は気になるものの、とりあえず綱紀は弥生を突っぱねてはいないようだ。
ということは、少なからず弥生に好意を持っているということなのだろうか。
相変わらず小雪はあの男は苦手だ・・・苦手ではあるが、弥生の好きな相手ではあるし、彼女には優しいのならば問題はとりあえず無いことになる。
弥生が幸せならば、自分に何も言う資格はない。
少々複雑ではあるが、少しはあの男に好意的に接しなければならないだろう・・・小雪は考えれば考えるほど憂鬱になる。
あの男と仲良く・・・どうやってしたらいいのだろう。
あれほど自分の言いたいことを言って生きている人間はそういない・・・しかもそれは相手が傷つこうが傷つくまいが全く関係が無いのだ。
そんな男を好きだとはっきり断言できる弥生は、ある意味すごいなと小雪は思う。
「小雪、ご飯食べようよ。」
そんな事に頭を廻らしていたとき、お弁当を持った澪がやってきた。
小雪は考えるのを一時中断して、
「うん、そうだね。」
と言って、弁当を手にして席を立ち、澪に続いて教室を後にした。
放課後、いつものように小雪が音楽室に行くと、ピアノの前にある椅子に綱紀が無表情で座っていた。
小雪が入ってきたにもかかわらず、何も弾くことをするわけでもなく、何処か一点を見つめ、ただ椅子に座っている。
「先生・・・あの、弾かないんだったら弾かせてくれませんか?」
小雪は綱紀の様子を不審に思いつつも、綱紀に近づいて話しかける。
綱紀はその時ようやく小雪の存在に気づいたかのように、ゆっくりと表情を変えること無く小雪の方を向いた。
「ねぇ・・・一つ聞いて良い?」
「はぁ?」
突然の綱紀からの質問に、思わず小雪は間の抜けた声をあげる。
「良い?」
再度問われたため、小雪はとりあえず頷く。
「何で君はいつもトロイメライばかり弾いているの?」
綱紀からの問いは、小雪の言葉を一瞬詰まらせる。
どう伝えたらいいのだろう・・・駿の好きだった曲・・・なんて言っても分からないだろうし、言いたくも無いし・・・。
「あの・・・その・・・とても大切な人が好きだった曲なんです。だから・・・。」
そこまで言ったとき、小雪の視界は突如暗転した。
「ねぇ澪、小雪は?」
掃除を終え教室に戻ってきた弥生は、自分の席に座って鞄に教科書を詰めていた澪のところに行き、尋ねた。
「もう音楽室に行ったんじゃないかしら。さっきバイバイって言ってたもん。あんたによろしくって言ってたわよ。」
澪は弥生の問いかけに手を止めて、言った。
「そうなんだぁ・・・一緒に行こうと思ったのに・・・。」
残念そうに弥生は顔をしかめる。
「えっ、一緒に行くって・・・弥生、部活は?」
澪は不思議に思って尋ねる。
すると、弥生は満面の笑みを浮かべた。
「今日は休みなの!!だから初めて放課後に先生の所に行けるって訳。だからどうせ行くなら小雪も誘おうかなって思って。」
「そうなの。まぁ、仕方ないじゃない。先行ってると思うから追っかけたら?まだ帰ってないはずだから。」
「そっか、じゃあ私行くわ。澪、明日ね。」
弥生はそれだけ言うと、急いで鞄に教科書を詰め、教室を後にした。
「バイバイ・・・あ〜、行っちゃった。本当に思ったらすぐ行動するんだから。」
澪はそう言って苦笑するが、全くもって弥生らしい行動だなと一人納得して、部活に行くために自らも教室を出た。
小雪は今の状況に頭がついて行って居なかった。
ただ分かるのは、倒れた自分の上に覆いかぶさる綱紀に、両手首をがっちり掴まれているということだけだ。
「なっ・・・何するんですか!?やめてください!!」
小雪はそう叫んで、必死に綱紀の体を押し返そうとする。
しかし、いくら細身であるといっても綱紀は男だ。
小雪が抵抗してもピクリとも動かない。
無表情でただ小雪を見下ろしている。
「声が震えてるよ?・・・もしかして僕のこと怖い?」
「そんなこと・・・無いです。冗談はやめて早くどいてください!」
本当はすごく怖い・・・だがこの男にそのことを悟られたくは無い。
小雪は自分を奮い立たせて言った。
「退かない。」
綱紀ははっきりと一言そう言った。
「どうして・・・!」
「さぁ、どうしてかな?」
「とぼけないでください!!いい加減にしないと人を呼びますよ!」
小雪は綱紀を睨みつける。
「呼べるもんなら呼んでみれば?もっとも、教師と生徒、どちらの言い分を信じてくれるかな?」
綱紀は平然と言った。
「このっ・・・!」
「君の負け。」
綱紀は今度は片腕で小雪の両腕を押さえつけると、もう一方を小雪のあごに手を掛ける。
一生懸命小雪は顔を背けようとするも叶わない。
綱紀の顔が徐々に近づいてくる。
唇が・・・重なった。
小雪はあまりのことに頭がついていかない。
・・・思考が完全に停止した。
どのくらいの時間そうしていたのだろうか・・・綱紀はしばらくすると唇を離した。
「何で・・・こんなことを・・・。」
放心状態のまま、小雪は綱紀に尋ねた。
あまりに突然のことで、キスをしたという事実を理解することに時間がかかった。
しかし、冷たい唇の感触が、それを真実だと教えてくれている。
意味が分からない・・・この男に好かれているわけでもないことぐらい彼の態度を見ていれば小雪にだって理解できる。
嫌がらせ?いたずら?それにしてはあまりにも悪質すぎる。
じゃあどうして・・・?
「それは・・・。」
綱紀がその時言葉を告げようとしたとき、がたりという物音がした。
小雪も綱紀も反射的に顔をその物音がしたほうに向ける。
そこには・・・弥生が立っていた。
顔を真っ青にし、小刻みに体を震わせている。
「弥生、違っ・・・!」
小雪は弥生の誤解を解こうと叫び、綱紀を退かせようともがくが、綱紀は全く退こうとしない。
弥生は何も言わずにそのまま踵を返して、教室から走り去ってしまった。
瞳に涙を浮かべて・・・。
(絶対に誤解された・・・それにきっとすごく弥生を傷つけた。)
小雪は鋼紀のほうに向きなおると、彼をキッとにらみつけた。
「弥生は・・・弥生は先生のことが好きなんですよ!貴方は知ってたはずなのに・・・どうして好きでもない私にこんなことをするんですか!?ただの嫌がらせにしては・・・酷すぎます。」
鋼紀に向って小雪は感情を爆発させた。
怒りと悲しみがこみ上げてきて、小雪は泣きそうになったが、この男の前で泣き顔を晒したくなくて一生懸命我慢する。
綱紀にこんなことをされて腹が立つのもあったし、弥生を傷つけたことも悲しいけれど、何より嫌だったのは・・・駿以外の人にキスを許してしまった自分だった。
小雪が一気にまくし立てると、綱紀は目をスッと細めた。
そして冷たい表情で小雪を見つめると、小雪の顔の真横に勢いよくこぶしをつきたてた。
ガツン・・・鈍い音が教室に響き渡る。
小雪は驚きで目を見開いた。
「ただの嫌がらせ・・・?違う、こんなの序の口だよ。これは、復讐みたいなものだからね。」
いつもよりトーンの低い声で、綱紀は言う。
「復・・・襲?」
意味が分からず、小雪は聞き返した。
いきなりキスされて怒る権利は自分にあるはずなのに、綱紀は憎悪すら感じる無表情でただ小雪を眺めていた。
「君がこの学校にいたことには・・・正直驚いたよ。それでいて・・・運命だとも思った。かわいい弟を死なせた張本人にこんな所で会うなんて、思いもしなかったからね。」
小雪の頭の中は真っ白になった。
かわいい弟を死なせたって・・・まさか・・・。
「貴方・・・もしかして、駿の・・・。」
小雪は確かめるように綱紀に尋ねた。
声は・・・震えていた。
「兄・・・だよ。まぁ、腹違いの兄だけどね。・・・俺は母さんの姉さんの子供。両親が早くに亡くなったから、養子という形で駿の家族になることになったんだ。皆本当に良い人たちで・・・特に駿は、僕のことを本当の兄みたいに慕ってくれた。」
昔のことを思い出しているのだろうか・・・遠くを見つめているような目をして、綱紀は話を続けた。
「僕は駿のことが本当に可愛かった。その駿が・・・死んだと聞かされたのは僕がアメリカに留学していたときだった。僕が知らせを聞いて急いで駆けつけたのは葬式が終わって、駿が火葬された後だった。・・・義母さんは、(駿は女の子を守ったのよ、偉いじゃない。私には誇りだわ・・・だから鋼ちゃん、小雪ちゃんを責めないでね。駿の守った女の子が元気に生きていけるように、見守っていきましょうね。)って、泣き笑いしながら言ってた。」
小雪は胸が熱くなるのを感じた。
駿のお母さんがそんな風に思ってくれていたなんて、思いもしなかったのだ。
今でも、おばさんとおじさんは優しいけれど、それでもやっぱり自分の事は嫌なのではないかと、小雪はずっと思っていたから・・・。
「けど・・・僕はそうは思わなかった。」
小雪はその言葉にびくりと反応する。
「大事な弟を殺された・・・そうとしか思えなかった。なんで他人の犠牲になって死ななきゃいけないのかって・・・ずっとそう思ってた。その後、教師になった僕は・・・君のいる高校への赴任した。最初会ったときは、驚いたよ。最初から会えるなんて予測していなかった・・・それなのに、駿と一緒に映っていた写真の子と、顔がほとんどそのままの子が僕の目の前に現れたんだから。初めは・・・ここまでするつもりは無かった。ただ・・・君を見ると思ってしまうんだ。駿は死んでしまったのに、どうしてこの子は生きているんだろうって。・・・何でここに居るのが駿じゃないんだろうって。友達と笑いあって元気に過ごす・・・君じゃなくて駿にあった未来だったかもしれない。それなのに・・・。」
綱紀はくやしそうに顔をゆがめた。
瞳には悲しみの色が浮かんでいる。
小雪には何も言い返せなかった・・・否、言い返す資格がなかった。
綱紀のいうことは何一つ間違っていなかったのだ。
自分さえ助けなければ・・・駿には未来があった。
学校に通い、その後は就職して、結婚して、歳を取り、やがてこの世を去る・・・そんな平凡
であり、幸せな未来が。
それを奪ってしまったのは間違いなく自分だった。
「しかも君はまるで駿のことを忘れてしまったかのように、悲しい顔1つ見せない。その上、駿が死んだ場所では男と会っている君が居た・・・無神経にもほどがあるよね。君は分かってたはずだよね、駿の気持ち。」
「違います!勝司君とはそんなんじゃ・・・!」
小雪は否定する。
昨日確かに勝司は公園に来ていた・・・その姿をどうやら見られたようだ。
誤解だ・・・駿以外には、今の自分には考えられない。
そう伝えたかった・・・でも、とても綱紀に言えなかった。
何を言っても嘘に聞こえそうだったから・・・。
「まぁ、君達の関係性は僕にはどうでも良い。だから・・・この行為はささやかな復讐。ちょうど高橋さんにも目撃してもらったしね。君達の友情・・・これからどうなるんだろうね?」
氷のように冷たい微笑を浮かべて、綱紀は言う。
「・・・!」
小雪ははっとする。
今日、弥生は確か部活だったはず・・・だからここには来れないのだ、本当ならば。
なのに、今日、ここに来た・・・もしかすると・・・。
「先生が・・・仕組んだんですか?」
半信半疑のまま、小雪はいぶかしげに問う。
「そうだとして・・・君はどうするの?言っとくけど、君に僕を責める権利は無いよ。僕がしたことなんて序の口だよ。駿の苦痛に比べたら、ね。」
「・・・。」
確かに、責める権利は、無い。
分かっている・・・だから口答えする気もなかった。
口をぎゅっと結んで、小雪が喋らなくなると、綱紀は小雪の体から離れた。
そして、準備室の方へと向う。
しかし、途中で立ち止まった。
「もう、ここには来ないで。分かっているよね?君は僕にとって・・・憎しみしか思い出させない。見るのが・・・正直辛いから。」
振り向かずに、綱紀はそう言うと、扉の向こうに消えた。
小雪はしばらくその場を動くことが出来ず、ただぼんやりと天井を見上げていることしかできなかった。