第二十一章 尻尾
声を掛けられたとき、何の驚きも感じなかったわけではない。
予想していたことが起こる・・・それが良いことであるなら一向に構わないが悪いことであれば始末が悪い。
実際、今回は後者の例である。
小雪が掃除から帰ってきたとき、教室にはもう誰も残っていなかった。
掃除場所である美術室はいつもだと床を掃いて机を拭くだけで済む場所であるのだが、今日は美術室の隣に位置する美術倉庫も掃除することになり、そのため掃除が通常より長引いてしまった。
おそらく、先生が先にホームルームをしてしまってそのまま皆を帰したのだろう。別に珍しいことではなかった。掃除が遅くなった数人のために待つなど、集団で動いている以上できない。
小雪と一緒の掃除場所だったほかの友人たちは鞄を掴んで早々に教室を出て行った。皆部活があるのである。
その点急がなくて良い小雪は、のんびりと自分の席に着いて机の上に鞄を置き、教科書を入れていく。
しかし、その「のんびり」が災いした。
「・・・有森さん、ちょっ、ちょっと良いかな?」
鞄に詰める作業に集中していて、人が教室内に入ってきたことに注意が及ばなかった。
だから声を掛けられたとき考えがめぐらなくて、ぽーっとした間の抜けた表情で顔をあげてその人の顔を見てしまったことに一瞬後悔したが、その後悔もすぐに消え去った。
近づいてきたその人の胸についているリボンが赤かったことから先輩であるということはすぐに分かった。が、それがなければ気づかなかっただろうというほどに、彼女は身長も低く、体系も細かった。赤渕のめがねから覗く瞳はひどく定まらず、あちこちをきょろきょろと見回している。体は何かに怯えるように小刻みに震えていた・・・そんな彼女は明らかに挙動不審だった。
最初の言葉以外何も発さず、ただ黙ったまま教室の扉の近くに立つその人のことが心配になった小雪は彼女に呼びかける。
「先輩、私に何か用があるんじゃないんですか?」
小雪がそう尋ねると、彼女は小雪の方をちらりと見て、また目を背けてうつむいた。
何か言いづらい内容なのだろうか・・・彼女は躊躇しているのかなかなか切り出してくれない。
せかしてもしょうがない気がして、小雪は彼女のことを黙って見つめ、何か彼女が言い出すのを待った。
それから少しの間をおいた後だった。
ようやく心の整理がついたのかもしれなかった。
「裏庭まで・・・来て欲しいの。・・・桐緒さんたちが待ってる。」
彼女は小さく消え入りそうな声でそう言った。
「ようやく動き出したみたいね。」
澪はぽつりと呟いた。
ここは小雪たちの教室と向かいの教室。
昼間の嫌がらせから、そろそろ動き出す頃ではないかと思っていたがその読みは当たっていた。おびき寄せるために、敢えて澪は彼女を待たずに教室を出た。その行動は功をそうしたようである。彼女はどうやらうまく引っかかってくれたようだ。向こうだってずっと小雪が一人になることを狙っていたはずだ。
ここから見る限り、彼女が首謀者というわけではなさそうだ。あれは3年の恩田先輩。気の優しく地味な性格のせいで同級生のぱしりにされていることが有名だ。今回も大方そんなところだろう。だから首謀者は別に居る。
しかし・・・と澪はふと思う。
文句があるなら直接言いにくれば良いのに、わざわざ代理の人間をよこして呼び出すなんてどういう性格をしているのだろうか。本当にろくなもんじゃない。
本当に女という生き物は面倒くさいと自分も女であること棚に上げて思っていると、小雪と恩田が教室を出て行くところが目に入った。
自分も移動しようと考えた矢先、
「澪!!」
という声がある意味絶妙なタイミングで後ろから聞こえてきて、澪ははぁっとため息をついた。
そして後ろを振り返る。
「・・・あんたって本当空気読めないわよね。」
振り向いたその先にはやはり聡介が居て。
相変わらずノー天気な笑顔全快で立っていた。
しかし、予想に反して彼は一人ではなかった。
彼と対照的に無愛想な表情を浮かべたその人は、所在なさげに彼の隣にいた。気乗りしないのだろう。澪を見たからといって依然表情を変えることは無い。
彼に抱いていた普段のイメージとだいぶ違う。澪は直接顔を合わせたことは無いが「彼」の事を前から知っていた。
「やっほ〜、噂の発信源、つれてきちゃった。」
実はこの間、聡介に小雪と綱紀の噂の元を探してもらうように頼んでおいたのである。彼はその人懐っこい性格からなかなか交友関係が広い。同学年はもちろん後輩とも親しいので、手当たり次第に人から話を聞いた結果発信源にたどり着いたのだろう。このところ現行の締め切りと小雪へ嫌がらせする人物を調べることに奔走していたため、手が回らなかったのである。
そのため「仕方なく」聡介に発信源を探してもらうことにしたのだった。彼に頼みごとをすると「ご褒美」を請求されるため実際気乗りしないが、背に腹は変えられない。
澪は噂の発信源と小雪に嫌がらせをする人物は異なると思っていたが、やはりその考えは当たっていた。その人物はある意味意外で、ある意味納得がいった。
「何でこんなことになるかもしれないって分かってて、噂なんかばら撒いたの?」
彼に澪は尋ねる。
「・・・分かっているくせに。」
そう呟いた彼は、ここで初めて表情を表した。
寂しそうな、泣きそうな笑み。
それは、江口貴という人間の弱い心の部分その物を表しているように思えた。