第十六章 素直な心
カチカチというタイプ音が、決して広いとはいえない部屋の中に響き渡っている。
何度か思案しながら、手を動かして文章を羅列する。
消しゴムを使わず、気に食わない部分を消去できる機能を持つパソコンは本当に便利なものだと思う。
しばらくその作業を続けていた澪だったが、さすがに疲れたため椅子を少し引き、思いっきり伸びをする。
ここは新聞部の部室だ。
小雪のことも気になるし、本当は犯人についてずっと調べていたかったが、新聞部をおろそかにするわけにも行かず・・・こうして自分の記事を書いていたのである。
提出期限は明日まで・・・しかしほとんど書いていなかった澪は、一人部員が帰った後も記事を書いていたのだった。
ようやくその作業も終わった・・・窓に目を向けて外を見ると、もう真っ暗だった。
時計を見ると8時過ぎ・・・いまいち時間の感覚のなかった澪だったが、この時間帯なら暗くもなるかと納得する。
その時、部室の扉がトントンと軽くノックされる。
誰だろう・・・警備員だろうか。
澪は首を傾げつつ、「はい。」と返事をした。
「よっ、お疲れ!」
がらりと扉を開けたのは澪が良く知る人物で。
「何だ・・・あんたか。」
澪は気のなさそうな声を出した。
「何だとか言うなよ、借りにも恋人だろ〜。」
苦笑しながら澪に近づいてきたのは、言葉通り彼女の彼氏である聡介だった。
前にも書いたが、彼の風体は確実にギャル男のそれである。
「あら、あんたといつ私恋人だったことがあったかしら。」
澪はなおも冷たい反応を崩さない。
「ひっで〜・・・まだこの前のこと怒ってんの?」
「別に・・・もう怒ってないわよ。誰かさんがデートに3時間遅刻してきたことなんて。」
「怒ってんじゃん・・・。」
情けなく眉を下げて聡介は言う。
今回の彼らの喧嘩の原因は、デートの約束をしていたにもかかわらず聡介が寝坊して澪が3時間も待っていたという単純なものであった。
このような小さな喧嘩は彼らにはしょっちゅうで、「喧嘩するほど仲が良い」って奴だとよく小雪たちに澪は馬鹿にされている。
「本当に怒ってないから・・・今度は気をつけてよね。」
あまりにも落ち込んだ聡介が気の毒に思えて、仕方なく澪が薄く微笑んでそう言うと、彼の顔がぱあっと明るくなった。
「許してくれんの!?」
「まあね。」
「よっしゃ!!やっぱ澪は優しいよな。だから好き!」
聡介は嬉しそうに笑うと、すっと澪に顔を近づけた。
「!?」
ぎょっとして澪が聡介の顔を見る。
聡介が澪の頬にキスしたのだった。
あまりの早業に対応しきれず、目を見開いたまま固まる澪。
得意げににやりと笑みを浮かべている聡介。
「なっ、何を・・・・!」
「キスしたくなったからしたの。だってしばらくお預け状態だったし。俺めっちゃ我慢してんだからな。」
いけしゃあしゃあと悪びれずに言う聡介。
澪は怒りにより体をぷるぷると震わせる。
すくりと立ち上がって聡介の前に立ってにこりと微笑んだ。
そして、勢いよく右手を彼の頬に当てた。
「・・・痛って〜!!」
聡介は一瞬何が起こったのか分からないような顔をしたが、そのうちに痛みが襲ってきたのか
自分のほおに手を当てて顔をしかめた。
「何でいきなりキスなのよ!あんたさっきまで喧嘩してたの忘れたの!?」
大きな声で澪は叫ぶ。
「だって・・・キスしたかったんだから仕方ないだろ。口じゃなくて頬だったし・・・。」
ふてくされたように聡介が言う。
こいつは子供か・・・澪は密かに内心ため息をつく。
一応これでも彼は澪よりも1つ年上である。
それなのに時折子どものような一面を彼から見つけることがあり・・・これから大学生になる
(予定)の彼が無性に心配になることが彼女にはあった。
「そういう問題じゃない!じゃああんたはしたくなったら誰にだってキスするっての!?」
「そんな事言ってないだろう?俺は澪以外にキスするのは嫌なの。それに・・・。」
「それに?・・・言ってみなさいよ。」
「最近・・・澪が元気なかったから、元気付けようと思って、さ。」
「・・・。」
一瞬澪の思考が停止した。
思わぬ言葉が彼の口から発せられたからだ。
しばらく殆ど彼と会っていなかった・・・それなのに自分の状況を言い当ててしまった彼への驚きは、彼女の頭を真っ白にするのには十分な効力を持っていた。
「・・・何でそんな事が分かるの?あんたストーカーでもしてたわけ?」
「ストーかなんてするわけねえだろ?澪のことを見かけたときに、何か元気ないなって思った
だけ。」
「そんなの見ただけじゃ分からないでしょ?」
「分かる。」
あまりにはっきりと言った聡介を、思わず澪はハッとさせられる。
彼は先ほどのにやけたものではなく、真剣な表情を浮かべていた。
「好きな子の事なら、分かる。」
その真っ直ぐな瞳を受け止めることが出来ずに、思わず澪は目をそらす。
「・・・あっそ。」
それだけしか言うことが出来ない自分は何て可愛らしくないのだろうと思う。
素直になれない自分をどうしてこの男は好きだと思ってくれるのだろう。
澪には不思議だった。
「あっそって・・・連れないなぁ〜。まぁ、澪らしいけどな。」
そう言って聡介は笑う。
つくづく幸せな人間だと澪は聡介を見ながら思うことがある。
でも彼のプラス思考は周りを明るい気持ちにさせてくれる。
実際澪もその一人で・・・そんなところを好きになった。
裏表の無い底抜けの優しさを、彼は持っていたから。
彼に、自分は「彼女」として何をしてあげられているだろう。
「好き」なんて言葉や態度もあまり示さないし、デートを自分から誘ったことなんてない。
それは照れくささと素直になれない性格からなのだが・・・時に申し訳なく感じることがある。
今回も、彼が悪いとはいえ、自分から謝ることなく彼が謝ってくれた。
ある意味、自分よりも聡介のほうが「大人」なのかもしれない。
自分はいつも、気がつくと彼の優しさに甘えてしまっている。
変えなくては、とは思っている。
だけどなかなか気持ちがついて行かない。
だから、たまには・・・
「・・・心配してくれてありがとう。嬉しかった。」
澪はぼそりと呟いて、うつむいた。
きっと今顔は真っ赤だろう・・・そんな顔を見られるのは恥ずかしい。
「・・・。」
聡介からなかなか返答が返ってこないことに不安になり、おずおずと澪が顔を上げると、そこ
にはぽかんとした表情の聡介がいて。
おそらく礼を言われるとは思っていなかったのだろう・・・彼は放心状態であったが、澪と目が合うと本当に嬉しそうににこりと笑った。
そして、
「どういたしまして。」
と言ったのだった。