第十三章 激情
荷造りするものは何も無かった。
元々物を持たない主義・・・わずらわしいことが大嫌いだから。
でも・・・最初から殆ど物が置かれてなかったはずの机を改めて見ると、何処か物寂しく感じられた。
昼間なので電気もつけておらず、いつも締め切られている薄オレンジ色の古びたカーテンの隙間から覗く太陽の光だけが、唯一この部屋の明かり代わりとなって、ぼんやりと部屋を照らしている。
陰気で暗く、静かな部屋・・・まるで自分自身を現しているかのようだと、綱紀はふと思った。
「本当に・・・あの噂のようなことをしたのかね。」
部屋の空気はこもっていた・・・日差しが暖かく差し込む場所だというのに彼は窓を開けていなかったからだ。
その上、まだ寒さが到来したばかりだというのに暖房まで入れてしまっている。
まさに最悪の組み合わせだ。
正直息が詰まる。
このもあっとしたすっきりしない空間にも、この男の言動や態度にも。
男は確かにあの少女との関係を自分に尋ねていた・・・言葉上は。
でも、表情は明らかに自分を疑いと苛立ちの混ざった眼差しで見つめていた。
疑っているなら、嫌悪を抱いているならはっきりとそう言えば良い。
なのに、男は自分の保身のために良い人の仮面をかぶる。
自分は部下の不祥事に寛大だとでも思われたいのだろうか。
そう考えると酷く滑稽だった。
だから自分も仮面をかぶり返してみる。
人のよさそうな顔をして、いかにも善人ですという、鉄壁の仮面を。
「・・・そんなこと、僕がするはずないじゃないですか。生徒に手を出したところでメリットがあるわけではないし、大体、僕は教師ですよ。教師の駆け出しとして、そのくらいの分別は持っているつもりです。」
困ったような表情を作りつつ、そしてあくまで笑顔は崩さず綱紀は言う。
この状況で逆上したり、または明らかにそのような行動を取ってしまったというように落ち込んでいたら、それこそかんぐられるのが関の山。
自分は全く関係のない第三者、何故そんな噂を立てられたか分からない、というくらいの態度を取らなければならない。
教師という職業を、この程度のことで失うつもりはなかった。
大体、この職業に就かなければ、またあの少女に会うことはなかったのに、苦しみをぶつけることもなかったのに・・・そう思えば複雑な気持ちに襲われたが、それでも、教師という職業を綱紀は好いていた。
綱紀の言葉を真摯に受け止めているのか、先ほどの表情とは少し違い、校長は真剣な顔つきでうんうんと頷きながら相槌を打っていた。
その様子を見て、綱紀はしめた、と思う。
「ただ・・・そのような噂を立てられるということは、僕に少し原因があったからかもしれません。その辺りはすごく反省しております。どのような処遇も受ける覚悟です。」
綱紀はこう言って深く頭を下げた。
「頭を上げなさい!・・・君が噂のようなことをしたとは私だって思っていない。君の人柄は僕も知っているし、君の大学の教授だって君のことをすばらしいと太鼓判を押していたくらいだしね。」
焦って校長は声をあげる。
頭を少し上げて、ちらっと綱紀は校長の表情を盗み見た。
慌てている校長、そのため綱紀が自分の情けない姿を見ていることに気づかない。
かかった・・・なんとたやすい。
綱紀は内心にやりと微笑みつつ、今度こそゆっくりと頭をしっかりと上げる。
もちろん、反省しているような暗い表情を貼り付けることを忘れない。
「君は悪くないことはよく分かった。だが、何も処罰を与えないわけには対面的にいかないのだよ。・・・分かるね。」
「それは分かっております。どんな処罰も受ける覚悟ですので。」
この言葉に偽りは無かった。
もしばれたときにはなんらかの処分を受けることはある程度予想済み。
ただ、どれほどの重さになるかは自分の話術の力量次第だとは思っていたが。
「そうか・・・すまないね。君の処分は謹慎1週間だ。教育実習期間は1週間分延びることになるからそのつもりでね。」
「分かりました。」
校長は綱紀がおとなしく処分を受け入れてくれたことに満足したのか、微笑を浮かべながら言
う。
「軽い気持ちで骨休みだと思って、ゆっくり休んできなさい。今回のことで分かったと思うが、噂というものほど恐ろしいものは無い。実際に無かった事も噂になれば、皆本当だと思い込み、それ相応の判断を下すからね。それは時に自分の身を滅ぼすことに繋がることになる。そのことを忘れないでおくれ。」
「はい。」
綱紀ははっきりと返事をした。
そして、しばらく雑談をした後、綱紀は校長室を後にした。
そして現在に至るわけである。
校長の話はもっともだと思った。
その危険性だって知っていた。あのような行為をしたことがばれた時、自分への見方が変わり
不利な状況に陥るかもしれないということも知っていた。
事実、彼女に回りくどい嫌がらせの方法だって存在した。
でも、実際自分の手で彼女の絶対的苦痛を味合わせられる方法をあえて選んだ。
何故か?答えは知っている。
彼女に直接苦痛を自ら与えたかった・・・悔しくて、悲しくて、どうしようもない現実から逃げたくて、その気持ちをすべてぶつけるにはその程度のことでは足りなかった。
もっとひどい目に合わせてやりたかった。
本当はそのつもりだった。
でも彼女の顔を見て、つい躊躇してしまった。
彼女の瞳は思ったよりも澄んでいた。
にごり無く、純粋で・・・曇りない真っ直ぐな瞳をしていた。
しかし、表情は困惑の色を露にしていて、怯えたように自分を見つめていた。
この女は義弟を殺した女。
自分から大切な存在を奪った女。
それなのに、その女を至近距離に置き、復讐のチャンスに見舞われたというのに、完全な復讐を果たすことが出来なかった・・・結局中途半端な口付けという形でしか、彼女を痛めつけることが出来なかった。
まあ、彼女の友人を利用し、心理的な痛みを加えることは出来たようだが。
思惑通り彼女は弥生という少女との仲をこじらせ、今も不仲な状態は続いているようだ。
女の友情ははかない・・・特に男が絡むと。
そんな状況を何度も見てきた自分には、その関係性を利用することはいともたやすく思いついたことだった。
しかし、だ。
傷つける強さが足りない。
もっともっと彼女を傷つけて、義弟を殺した罪の重さをその心にも体にも刻み付けてやりたかった。
でも出来なかった・・・あんな澄んだ瞳で見つめられて、自分のやっていることが間違っているのではないかと一瞬戸惑ってしまったのだ。
憎しみや悲しみに溺れ前に進めない自分は、彼女に恨みごとを言う資格も、汚い感情をぶつける資格もないのではないかと。
しかもその後の小雪が自分に言ってきた言葉。
―私は駿に救ってもらって、今という時があることだけは後悔していません。大切に生きて行きたいと思っています。
間違っていないと、思った。
自分がどんなに気に病んだとしても駿が戻ってくるわけでもない。
それに、駿は自らの意思で小雪を助けることを選んだ・・・自分の身を犠牲にしても、彼女を守りたいと駿は確かに願ったのだ。
だから、彼女が生きているということは、駿の確かな願いだということになる。
ならば、彼女をこのまま静かに見守ることの方が、駿のためになるのだろうか・・・?
しかし頭ではそう理解していても、心はそう簡単に整理することが出来るわけではない。
頭がくらくらする・・・少し疲れてしまったようだ。
元来人に気を使うなどしない性格だ・・・それなのに慣れないことをしてしまったので、疲労が溜まっているらしい。
我ながら情けない・・・と呆れたようにふふっと笑うと、いつも持ち歩いている小さな黒い皮の鞄を机の上から取り、部屋を去ろうとドアノブを回して扉を開けた。
そこには息を切らした見慣れた少女が、真っ直ぐに自分の方を見据えて立っていた。
実際に改めて青年を見たとき、一瞬たじろかなかったかと問われれば嘘になる。
やはり、彼の事をまだ怖くないとはっきりと思えないから。
でもいつものように少し寂しげな彼の表情を見ると、そんな心も払拭されるような気がした。
「ごめんなさい!!」
たまらず、小雪は言葉を発していた。
謝らずにはいられなかった。
自分のせいでそんな風な表情を浮かべていると思うと、いたたまれない気持ちになったから・・・。
「・・・なんで、君が謝るの?」
綱紀は、小雪の言動が不思議だったのか首を軽く捻りながら尋ねた。
「・・・えっ?」
「僕が君にしたことによって咎められているんだから、それは君のせいじゃない。僕が全部選択したことだから。」
事も無げに綱紀は言う。
「・・・でも、ごめんなさい。貴方のことを追い込んだのは、きっと私のせいだから・・・。」
「だから?」
綱紀の冷たい物言いに、思わず小雪はたじろく。
しかし、怯えていることを悟られたくは無く・・・小雪は表情を変えず言葉を続ける綱紀をただ見つめていた。
「だから?・・・何しにきたの、君は。そんなこと言わなくても分かる事だろう?そんなことを言いに来たの、君は?何度謝られたって、君の気持ちは済むかもしれないが、僕の心は何一つ救われない。むしろ君が僕の目の前に現れることに嫌悪感を抱く。あれだけ言ったよね?もう来るなって。なのに何度も何度も来て・・・ずうずうしいんだよ、君は!!何、今度は?僕が君にしたことを咎められて処分を受けることを知ってきたのかい?それで嫌味の1つでも言いたくなった!?」
いつになく感情的に綱紀は言う。
綱紀の様子がいつもと違う・・・あのキスの一件のときとも、普段の嫌味を言う彼とも違う・・・感情を爆発させて、心に積もったことをそのまま吐き出している・・・そのような感じを小雪は受けた。
正直、怖い・・・いつこの前のようなことをされるか分からないと心の隅で身構えている自分に気づく。
しかし、小雪は逃げなかった。
いや、逃げられなかった。
綱紀が・・・なんだか悲しそうな、泣き出しそうな、そんな表情を浮かべていたから。
「別に嫌味を言いに来たわけじゃ・・・ないです。ただ、先生が処分を受けると聞いて、居ても経ってもいられなくなって、気がついたらここに来ていて・・・。」
小雪は心が折れないように懸命に言葉を紡ぐ。
綱紀は小雪の言葉に驚いたように目を丸くするが、再び元の険しい表情に戻った。
「哀れんでいるわけ?自分がひどい目に合わされたのに?・・・たいそうな偽善者だね、君は。」
皮肉めいた口調で綱紀は小雪をなおも責める。
哀れみなんかじゃなかった。
綱紀が言うように馬鹿にしたいわけでも、同情しているわけでもなかった・・・。
この気持ちを、言葉でどう表したら良い?
小雪は思案して、不意に言葉を放つ。
「・・・心配・・・だったんだと思います。」
「は?」
思いがけない小雪の発言に、綱紀は拍子抜けした声をあげる。
そして、くくっと意地の悪い笑みを浮かべた。
「どうして君が心配するの?何の得も無いじゃない?むしろ、僕が居ない方が清々するんじゃないの?」
「たしかに、先生がしたことは、私には辛かったです。でも、それは先生が駿のことを「大
切」だと思っていたからのことで・・・それを攻める権利は私には無いです。だから、そのことで先生が咎められるなんて聞いて・・・先生が辞めさせられたらどうしようって、そう思って・・・そればっかりで・・・。」
そう・・・そのことしか頭に無かった。
・・・気づけば音楽室の前に小雪は立っていた。
この子は心底馬鹿なのじゃないだろうか・・・綱紀は小雪の言葉を聞きながら呆れるよりもまず関心すら覚えてしまった。
あれだけ、ひどい目に合わされたのに・・・それなのに、自分の事を心配だと言う。
一体どれほどお人よしなのか。
綱紀だって分かっている・・・この少女が悪い人間じゃないってことくらいは。
心底悪い人間なら、駿のことをずっと覚えていたりしない。
気に病んで苦しんだりしない。
綱紀のことを責めるでもなく、ただ事実を受け止めて、酷いことをした綱紀に笑顔を見せてくれたり、ましてや心配してくれたりしない。
それらは、すべて彼女の優しさだ・・・知っている、分かっている。
でも・・・。
「偽善者ぶるのもいい加減にしたら?君のそういうところが・・・僕は嫌いなんだ。」
口をついて出たのは彼女への悪態だった。
彼女に優しい言葉を掛けてやることは、僕には出来ない。
僕は、弟のことが大切で、大切で仕方の無い存在だと昔も今も変わらず思っているから。
だから・・・彼女のことを素直に許してやることが、出来ない。
小雪が傷ついた表情を浮かべて押し黙る。
面と向って嫌いと言われて、笑い飛ばせる人間なんていない。
そのことを知りつつも、綱紀はなおも言葉を続ける。
「何で、君が生き残ったんだ?どうして、生き残ったのが君だったの?駿じゃなくて・・・どうして・・・君が・・・。」
そこまで言ったとき、視界がぼやけてきたことに綱紀は気づく。
気のせいか体もふらついている。
自分が立っているかどうかも怪しくなってくる。
小雪の声が遠くから聞こえてくるような気がする。
「先生!先生!!しっかりしてください!!」
そんな大きな声を出さなくても聞こえているよ・・・そう嫌味を言いたくても口が思うように回らない。
意識が途切れる前に見たのは、今にも泣きそうになっている少女の顔だった。