第十一章 彼女がくれたもの
澪は、絶対人が来ない場所を選部必要があったので、一番最初に小雪から真実を聞くこととなった、あの多目的教室で風と話すことに決めた。
「それで・・・どうしたんだ、澪ちゃん。」
着いてからすぐ、風は澪に尋ねた。
「風先輩も・・・噂、聞いてますよね。どう思われました?」
澪は率直に風に聞き返した。
回りくどいやり方は澪は好きではない。
はっきりしない回答も、もちろん嫌いだった。
風は澪のほうを見た・・・今度は真顔で。
そして、言葉をおもむろにつむぎ始める。
「俺は・・・嘘だと思ったよ。誰が広めたのかは知らないけど・・・小雪は、そんな事はしない。下手な噂を流す奴は許せない。」
本心でそう思っているのだろう・・・澪を見る風の瞳は揺ぎ無かった。
澪は、彼に本当のことを言うのはためらわた・・・風はショックを受けてしまうかもしれない。
だから・・・事実を少し変えて澪は説明することに決めた。
「・・・小雪と先生がキスしたというのは本当です。」
「えっ・・・本当だったのか!?あいつが・・・キス・・・しかも先生と。」
やはり驚いたようである・・・風は信じられないのか終始目をしばたかせている。
無理も無い・・・と澪は密かに思う。
小雪に対してはきついことを言う風であったが、彼女のことを大切に思っているからだという
ことは傍で見ていた澪には分かっていた。
それに・・・きっと風は小雪の好きだった人の事を知っている。
そして、今も忘れられないことを・・・。
「それを誰かが目撃したんです。そして・・・故意に人にその噂を流した。悪意があったのか、面白半分か分かりませんが、あの先生にファンが多いことは確かなので・・・噂が流れたことにより、結果的に小雪が面倒なことになるかもしれないんです。」
澪は風に言った。
彼女の話を聞いた後、風ははぁっと深いため息をついた。
「あいつは・・・本当にどれだけ人に心配かけたら気が済むんだか。まぁ、あいつがそんなことするなんて・・・なんか理由があってのことなんだろうな。あいつが・・・あいつがそいつのこと好きじゃないって事くらいは俺には分かるから。」
風は言う。
「やっぱり・・・先輩も小雪の本当の気持ち、分かってたんですね。小雪が・・・いまだに(彼)の事を思ってること。」
澪が核心を突く質問をすると、風は苦笑した。
「・・・そうだ。小雪から・・・聞いたのか?」
彼女が頷くと、風は納得したという表情をした。
「あいつは・・・忘れてない、駿のこと。それどころかきっと今でもあいつのこと、好きなんだと思う。俺にはなんとなく分かる。あいつ見てれば・・・分かる。」
「そうですか・・・詳しい経緯は、私からは言いません。小雪がいつか先輩に自分から言うはずだから。それで、私から先輩にお願いがあるんです
けど・・・。」
「俺になるべく小雪の傍にいるようにってことだろ?」
風は、澪の言葉を最後まで聞かずに彼女に尋ねてきた。
その質問に、今度は彼女が苦笑する番だった。
「そうです。・・・私もなるべく傍に居るつもりですけど、私今回の噂を広めた人を確かめる
つもりなんで・・・私が傍に居られない間、小雪のことよろしく頼みます。何も起こらなけれ
ばそれで良いんです・・・良いんですけど、ただあの子のことが心配で。」
澪は言った。
「そうか・・・小雪はいい友達を持ったな。分かった、なるべく傍に居ることにする。俺は従兄弟だ。傍に居ても変な噂は立てられないだろうし。」
笑って風は言う。
澪はその答えに安堵の息を漏らす。
風のことだから了承してくれるとは思っていたが、彼の持ち前の察しのよさのおかげでうまく話をまとめることが出来たので、安心したのだった。
「あいつは、何か危なっかしくて心配だからな・・・俺達がしっかりしてやらないとな。」
「あっ、それ分かります。人の事を疑わずにすぐ信じちゃうし、根っからのお人よしだし・・・。」
「後、天然入ってるしな。」
「そうそう・・・。」
澪と風はそこまで言うと顔を見合わせた。
そしてなんだかおかしくなって二人して笑った。
お互い小雪のことを大切に思っていることを実感したからだった。
「でも・・・澪ちゃんは友達思いだよな。俺を呼び出して小雪のことを頼むなんてさ。」
未だ笑いを持続させつつ、風は感心したように言う。
風の言葉に、澪はそうだろうか・・・と首を捻る。
友達として当然のことだと、澪は思っていたからだった。
でも・・・はたして小雪や弥生と会う前の自分がそんなことを人のためにしたかと人に問われたら、澪は迷うことなく否定するだろう。
昔の自分なら確かに現在の自分を想像することは出来ない・・・変えてくれたのは間違いなく小雪達だった。
澪は風と話しながら昔のことを思い出す。
小雪は不思議な子だ・・・と澪は出会った頃思っていた。
他人とは表面的な付き合いしかしたくない。
深入りされるのもするのも嫌い。
だから他人・・・友達でも一定の距離をひっそりと置いていた。
友達が笑えば笑う、誰かの悪口を言っていればそれに乗る。
とにかく人に合わせて、輪の均衡を保っていた。
そして、心の中ではそんな他人をあざ笑っていた。
いや・・・本当に滑稽だったのは自分だったのかも知れない。
しかしこの性格はきっともう治らない・・・家庭状況が作り出したものに相違ないと思うから。まぁ治そうとも思わないが。
母親は正しくそんな人物だった。
彼女は言う・・・大人になると人の悪い箇所ばかり見つける。
良い所を見つけようと奮闘しても、結局は徒労に終わる・・・そんな事はもううんざりなのだと、彼女はずっと前に自分に言ったことがあった。
最初の頃聞いたときは彼女の人間性を疑った。
母が人の事をそんな風に思っているなんて、彼女の口から聞くまで全く気づかなかった。
だって、澪は彼女が他人に悪い顔をしている所を見たことが無かった。
むしろ、彼女は他人に対して優しく、良心的で、人のために尽くすタイプだった。
だからこそ友達が多く、母に会うためにひと月に何人か我が家に尋ねてくるし、たまに旅行にだって出かけていた。
でも、母はその友人達ですら信じていないと言う。
困ったときだけ人を利用して良い顔をする。
しかし、それ以外のときは横暴な態度を取り、人を蔑み、幸せを妬み、不幸を喜ぶ・・・そんな人間ばかりだと。
だから、人を完全に信じては駄目なのだ・・・いつも優位な立場で相手を見下すくらいで無いといけない、彼女は寂しそうな顔で語った。
まだ小学生中学年だった澪は最初否定した。
世の中そんな人ばかりじゃない、良い人もきっと居る、と。
その時はそう信じきっていた・・・否、単に自分がそう信じたかったからかもしれない。
そんな自分の必死な否定に、母は笑った。
別に嘲る笑顔ではなかった・・・優しく包み込むような、そんな笑顔だった。
そしてこう言った。
「そんな人もきっといるって信じてみることも恐れちゃいけないのかもしれない。私には、無理だったけど・・・貴方なら見つけられるかもしれないわね。」
その後、しばらくして父と母は離婚した。
原因は父の浮気だった。
出張すると言っては浮気相手の下に通っていたらしい。
浮気相手は、妊娠5ヶ月・・・父の子ども身ごもっていた。
母は、父を信じようとしたのかもしれない・・・でも、もう限界だったのだろう。
信じたくても、信じられない・・・現実がそこにあるから。
だから、目をそらすことも出来ず、ただ現実を受け止めざるをえなかったのだろう。
どこまでも聡い人だから・・・自分の心にも人の心にも敏感な人だから。
そのことがあったからかもしれない。
気がつくと澪は他人の動きを常に観察するようになっていた。
そうして分かったこと・・・他人は母の言ったとおりの生き物だということ。
例を挙げればきりが無い・・・些細なことから分かる、他人の本心、その醜さ。
きっと相手にも自分はそう思われているはずだ。
それを頭のどこかで知りつつも、彼らはなおも友達ごっこを続ける。
・・・1人になるのが、怖いから。
その事実に気づいたとき、澪は他人を信じることをやめた。
他人に期待を持つことに無意味さを実感する日々。
1人になることに怖さは無かった。
しかし、友達というのは利用価値がある。
例えばグループ活動、昼休み・・・1人では過ごすには都合が悪いときは「友人」という存在が必要だ。
それがたとえ仮の存在だとしても。
そんな考え方を持続したまま、中学生活を過ごし、澪は高校に入学した。
そして入学式後すぐに隣の席になったのが、有森小雪であった。
隣であるし、まだ知り合いも居なかった澪は、小雪のことを体よく付き合える人間としか思っていなかった。
彼女は都合の良いことに優しく人が良い人間で、少し人の事を信じすぎるのではないか?と言うほどのお人好しだった。
他人だって馬鹿じゃない・・・小雪がお人よしであることを見抜いてる人はたくさんいる。
だからこそ彼女を利用するという人々が多かった。
例えば掃除当番を適当な理由をつけてサボり小雪だけにやらせたり、学級委員になるのが面倒だったのだろう、小雪に無理やりすがって彼女を学級委員にさせるなど、利用とはそのような日常の些細なことだが、それでも彼らは小雪を都合の良い人間として扱っていた。
別に彼らに悪気があったわけではない。
ただ、頼めばやってくれる人間を都合が良いと分かっているだけ。
大体、自分だって小雪のことを独りになるのは面倒くさいという理由利用している・・・しか
し、罪の意識は無い。
彼女をいじめているわけではない、嫌いなわけでもない・・・ただ彼女の存在は自分に良い利益をもたらす位置にある。
だから、少しそれを活用させてもらっているだけ。
当の本人である小雪は、苦笑しつつもいつも最後には、
「しょうがないなぁ」
と言って引き受けてしまう。
きっと彼女はなんともそのことに気づいていない。
人の裏に隠れる汚い感情なんて。
それはある意味幸せで、そして馬鹿なのだ。
澪はいつもそんな小雪を見て、心の中で笑っていた。
半年近く小雪と友達ごっこを続けていた澪だったが、いつの間にか自分の心に変化が生まれていることにあるとき気づいた。
相変わらず小雪はお人よしをやっていた。
しかし、最初の頃と違って、小雪の周りにはいつも人がいた。
彼女を利用しやすいと思って近づいた人間達は、彼女のあまりの人の良さに陥落してしまったように思えた。
もっとも、いつの間にか小雪を見て嘲笑していた澪さえも、あまりに人の事について苦労する彼女にいたわりの心すら持つようになってしまっていたのだから不思議なものである。
それほどに彼女は他人のために気を配り、身を挺する・・・常に自分の事は後回しだ。
澪だったらそのような生活は耐えられない。
他人のためにそこまでやってやる義理が無い・・・だいたいそれほどの価値がある人間がいるとも思えない。
それなのにどうして自分がそこまで他人に尽くしてやらなければならないのか。
小雪の心を計りかねて、澪はあるとき我慢できず彼女に直接尋ねてしまったことがあった。
「どうして人のためにそこまでするの?」
と。
「えっ、私そんなに人のために何かしてるかな?」
澪の質問に、小雪は不思議そうに小首をかしげた。
「そうだよ。だっていつも人に頼まれても断らないじゃない。自分が損するとか、普通は思うものじゃないの?」
小雪はその言葉を聞いてう〜んとしばらくうなった後、
「損、とかは考えないよ。だって、その人は私がやったら助かるんでしょ?なら、私はそれで良いもん。」
と、けろりとした表情で言った。
「相手が小雪のことを利用してたとしても?」
これは直接過ぎるかとも思ったが、どうしても澪は知りたかった。
自分には到底出来ないことを、何故彼女は出来るのかがとても気になっていたから。
「利用かぁ・・・利用されているって分かったとしても、私はきっとその子の頼みごとを聞くと思うよ。・・・だって、その中には本当に困っている人だっている。困っているとき助けてもらえなければ、その子はきっと悲しい思いをする。もし自分がその立場だったら嫌だもん。だから、出来ることをしてあげたいなって思ってる。」
小雪はそう言って笑った。
大した考え方の違いがあるわけじゃない。
何も考えていないただの道化のようにほいほい人の言うことを聞いていたわけでは小雪は無かったのだから。
しかし、とらえ方が違う。
澪の考え方は自分中心のもので、小雪の考えは他人が中心のもの・・・ただそれだけ。
結局、他人を信じず利用した結果、自分も自分自身が嫌悪する存在になっていたわけである・・・笑える話だ、馬鹿馬鹿しすぎて。
「・・・私にはそういうのは無理。小雪は、すごいね。」
馬鹿にしているわけではない・・・本心からそう思った。
自分には出来ないことを彼女はすんなりとやってのけているのだから。
「何言ってるの?澪だって私のために色々してくれるでしょ?それと同じだよ。私が悩んでいるときだって話を聞いてくれるし、嬉しいことがあったときにはいっしょに喜んでくれるもん。」
小雪は笑いながら言う。
「でも、それだけじゃない。」
思わず、鼻で笑ってしまった。
そう、それだけ。
そんなことにどうして色々していることになるのか・・・自分はずっと、小雪を利用しているというのに。
「それだけだとしても、私はすごく嬉しいよ。澪が傍にいてくれるだけで、友達でいてくれるだけで、幸せなことなんだもん。誰かが自分の事を気にかけてくれることってとても大事でなかなか無いことなんだから。」
ねっ、そうでしょ?と小雪は澪に問いかける。
そうなのだろうか?自分は知らない間に小雪の支えになっていたのだろうか?
彼女を利用していた、私がしていたその行為は、いつの間にか彼女の傍にいることを当たり前にとし、彼女に幸せを感じさせていたなんて、なんと皮肉な話だろう。
じゃあ、自分は?・・・小雪がいたことにより、心は満たされていたのか?
分からない・・・でも、少なくとも寂しくなかったことだけは確かだった。
自分が朝教室に入ると、一番最初に挨拶するのは彼女、帰宅する際に最後に挨拶するのは最後。
当たり前すぎて、気づいてはいなかった・・・彼女と常に行動している自分に。
彼女という存在がなければ、自分の学校生活は存在しなかったのではないかと思えるくらいに、あまりにも自分と彼女との共有時間は長かった。
・・・そしてその共有時間を苦痛と一度も感じたことのない自分にも。
結局、自分は小雪に依存に近い考えを抱いていたというわけである・・・情けないことこの上ない。
でも・・・悪くは、ない。
「友達」とはそういうものなのだろうか?・・・親とも違う、他人とも何処か違う、そんな存在。
彼女なら、友達になれる気がした。
母も自分も信じていなかった、不安定な存在になりうると。
初めて人のことを信じてみたい、と思えたのだ。
たとえ、この考えが希望的観念だとしても、目の前にいる彼女の笑顔は偽りでないということを・・・。
「どうかした?ぼんやりしてたみたいだけど・・・。」
過去のことを思い出していた澪だったが、風の言葉により現実に引き戻された。
そして、
「そんなんじゃないです。・・・あの子は私の大切な友達ですから。」
と言った。
そう、大切な友達。
私が初めて信じることが出来た大切な、大切な友達。
だから、あの子を守るために、私はなんだってする。
きっと、あんたも一緒でしょ?・・・弥生。