捌
「あ、驚かせてごめんなさい。セリルです」
暗闇の中から幼い声が告げる。
旅をしていることもそうだが、職業柄目がいいカイナでも暗闇の中では小さな人影が見えた気がした、ぐらいしか認識できない。
明かり代わりの火の玉をそれに近づけてみると、やがてその正体が露わとなった。
毛先にかけて緩くウェーブした赤い髪。少し申し訳なさそうに眉尻を下げてこちらを窺う双眸はその色をもう少し濃くしたような赤色をしている。
力を入れれば易々と折れてしまいそうな小さく細い体躯は今は体をすっぽりと覆うケープに包まれている。
近づいた火の玉の眩しさに目を細め、顔の前に手をかざして目にかかる明かりを遮る彼女から、特におかしな気配は感じない。
ハインハイトではなかったことと、彼女が偽物ではなさそうであることに安堵し、カイナは肩の力を抜いた。
「いや……。それよりもセリル、なんというかその……、できれば私がここにいたことは口外しないでほしいのだが……」
形はどうはあれ、罪の無い子供を巻き込むのはカイナののぞむところではない。閉じた日記をデスクに置き、歯切れ悪く頼む。
するとセリルは真剣な面持ちで頷いた。
「そうしろと仰るなら、絶対に誰にも言わないとお約束します。でもその代わり、というわけではないのですが、私からもお願いしたいことがあります」
あどけなさの残る顔立ちに大人びた凛々しさがまじる。
ハッキリとした物言いから、いたずらっ子のように弱みを握ってこちらをからかっているわけではないことが伝わる。
「聞こう」
腕を組み、聞き手に回るカイナはそれっきり口を閉ざしてセリルの言葉を待つ。
一方、セリルは胸の上で手を重ね合わせて握り、意を決したようにカイナの目をまっすぐに見つめ返し、口を開いた。
「カイナさん、お願いします。どうかあの人を───」
「セルー? ダぁリーン? どこー?」
言葉を遮られ、咄嗟に口を閉じたセリルは驚きのあまり飛び跳ねるようにして後ろを振り返る。扉の向こう、部屋の外から飛んできたのはエリルの声。
驚いた拍子に声が出なかったのは奇跡だ。
「セールー?」
かすかに周りの扉が次々に開閉される音がした。
エリルがこちらを探しているらしい。
「ご、ごめんなさい! エルには……!」
途端に慌てふためくセリルは前にいるカイナと後ろにある扉を交互に見やる。エリルには話を聞かれたくない、ということだろうか。
そうこうしている間にエリルの声が足音とともに近くなる。気配はもうすぐそこまで迫っていた。
こうなっては仕方ない。
「失礼する」
「え───きゃっ!?」
───
ガチャリと扉が開いた。暗闇の中に廊下の明かりが差し込む。
「ダぁリーン? セルー?」
扉の陰から身を乗り出しエリルは部屋の中を覗きこんだが、そもそもこの部屋は父の書斎であって普段から近づかないようにときつく言いつけられている。
父が不在の今、誰かがこの部屋にいることは有り得ないのだが、好奇心も合わさってつい覗いてしまった。
「……っ……、」
「静かに。すまないが耐えてくれ……」
腕の中にいるセリルが身じろぎ、今の体勢に気づき驚いたのかわずかに声を出したので、カイナは囁くように小さな声で彼女を制した。
扉が開く寸でのところで、咄嗟に明かりの火の玉を消し、セリルを抱き込んでデスクの陰に隠れたカイナは息を殺してエリルの様子をうかがう。
もしこの状況を見られたらさすがに言い逃れは難しいだろう。あらぬ誤解も免れない。冷や汗を流しながらエリルが去るのを待つ。
方や、セリルは突如辺りが真っ暗になったかと思えば、気づけば大の男に抱きかかえられていて、しまいには耳元で囁かれる男らしく低い声に半ばパニックになる。
肩を抱く手が大きく温かい。密着している体つきは適度に締まっていてたくましい。香水だろうか、彼からかすかに漂うわずかに甘い香りが鼻腔をかすめる。その全てに顔も体も熱くなって、鼓動が速くなって、心臓が潰れてしまいそうだ。
距離を取ろうと彼の胸を押し退けるが、びくともしない。それどころか、離さないと言うように肩を抱く力がますます強くなる。
色恋に関心を持ち始める時期にありながら、異性と関わる機会があまりなかったセリルには少々刺激の強い酷な状況である。その男が顔の整った近年稀に見る類の好青年とくれば、なおさら。
そんなセリルもまた、主に自分の心臓のために、一刻も早くエリルがこの部屋から退出することを願った。
何度も薄暗闇の中に目を凝らし、どれほど視線を巡らせても、物音を立てるものは何一つ無い。明かりになるものも持っていないためにその暗闇を恐れたエリルは室内へ足を踏み入れようとはしなかった。
そして、やはり誰もいないと認識したエリルは拗ねたように眉間にシワを寄せて、ぷくぅと頬を膨らませた。
「むぅ~!」
髪を揺らし、ケープを翻し、回れ右をしながら、八つ当たりがてら勢いよく扉を閉めたエリルは書斎から離れていく。
二人ともどこいったのー!!?という怒号が響く。
気配が遠ざかっていき、やがて気配も足音も完全に途絶えた頃、カイナは詰めていた息を吐き出した。
「行ったか……」
彼が体から力を抜いたことに気づくや否や、セリルは急いでカイナから距離をとり、ばくばくと高鳴る胸を押さえた。
「すまなかったな、セリル」
「い、いえ……、こちらこそ……」
自身の意図を汲み取って助けてくれたことに礼を述べたいのだが、今は最低限の返事をすることで手一杯だった。
そのうちに彼が再び明かり代わりに火の玉を作り出し、足元と手元が明るくなる。
腰を上げたカイナに倣いなんとか立ち上がったセリルだったが、顔と体の熱が引いていない今はまだ彼の顔をまともに見れそうにはなくて、範囲の狭い明かりから更に距離をあけ、わざとお互いの顔を見えにくくした。
「改めて、話を聞かせてもらえるか?」
そろそろエリルに顔を見せなければ様々な意味で不審がられてしまう。
手短に頼むと付け加えると、セリルは気を引き締め直して真剣な面持ちに戻る。神の救いを信じる修道女のように胸の前で重ね合わせて握っていた手をぎゅっと力ませた。
「お願いします。どうか、どうか父を止めてください───!!」




