漆
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本来方向音痴であるはずのカイナがこうしてすんなりとハインハイトの書斎にたどり着けたのは幸運だった。
二、三時間彷徨い、使用人たちや双子たちに引き止められて結局たどり着けなかったという結末も覚悟をしていたのだが、この屋敷の構造をまったく知らないことが逆に功を奏したのだろう。
ハインハイトがなにやら私用で一人出かけたとの話を小耳に挟み、なにかしらの手がかりを求めて彼の書斎に忍び込むことを考えたカイナは、わずか十分でここに足を踏み入れることができたのだった。
思ったより広いその部屋はやはり誰もおらず、真っ暗だった。詠術で出した小さな火の玉を明かり替わりに、自他の気配に気をつけながら部屋を歩き回る。
四方の壁全てに本棚が並び、さらには床のあちらこちらにも本が山積みにされて置いてある。部屋奥右側には大きなデスクがあり、その上にも果然何冊かの書物と、何枚かの紙と、羽根ペンと黒のインク、そして点いていないが古風なテーブルランプのようなものが置かれていた。
本棚をざっと流し見て目に入る背表紙たちはカイナが知っている語と言葉であったりなかったりと、文字の形や言葉が疎らで、様々な文化、時代の本が揃っていることがわかる。そんな数えることも嫌になるほど膨大な数の本がすべての棚に隙間なく収められていて、まるで小さな図書館だ。
読書も趣味のうちに入る彼にとって、この部屋はとても興味深い。叶うならここでコーヒー片手に全ての本に目を通したいところだが、猶予はない。
この部屋の主が戻る前に手がかりを探さなければ。
向かうはデスク。上に散らかっているのはなにかの文献らしき本と、見覚えのない地形の地図だった。地形や道筋、街の形などがこと細かく書いてあるので、どこかの地域をさらに拡大した地図であると予想できる。
カイナたちが持っている地図と照らし合わせたいところだが、今手元に地図はない。
展示品のように広げられたままの文献と地図はかなり年季が入っていて、黄ばみと文字のかすれが目立つ。
先に地図を手に取り、明かりに近づけて読んでみる。
「……トレ、ス……トラー、領……」
残されているインクの位置や明かりに照らせばわずかに見える文字の輪郭から推察するに、かすれた文字はおそらく、元はそう刻まれていたのだろう。
海らしき青色のなかに突き出たその大地はどうやらトレストラー領という領土であるらしい。
トレストラー。それはハインハイトのファミリーネームと同一のもの。
そしてその区画のやや中央に領都と書かれた街が書いてある。
さらにはその海らしき青色のなかにもその海の名らしき単語が書き示されていた。
「ノー……デル、海洋……?」
指でなぞりながら読み上げたそれは、今自分たちがいるはずの海域。
一度地図を置き、次に広げられたままになっている文献を手にとる。綴られている語は古語だったが、幸い持ち合わせの知識でなんとか読み解くことができた。
原文と多少の差違はあるかもしれないが、内容は、このトレストラー領周辺の地域に伝わる、どこにでもあるおとぎ話のような言い伝えについてだった。
中でも目を引いたのは、
「生贄……」
カイナが精一杯読み解いた文面を要約すると、
───……この地域には次のような逸話が残されている。
昔々、あるところに小さな村があった。
誰もが日々鍬を振り上げて畑を耕し、慎ましやかに生きる平和な村で、その村には、それはそれは美しく元気な双子の娘がいた。
あるとき、双子は父でもある村長に村の近くにある祠にお供え物を持って行ってほしいとお使いを頼まれ、双子は祠に向かう。
その祠には海神の魂が宿ると伝えられる美しい宝石が祀られていた。
あまりの美しさと輝きに魅入られた双子は、その宝石を盗んでしまう。
海神は怒り狂い、津波で村を襲った。
死人は出たが、なんとか村は生き残った。しかし宝石を盗んだことが村長や村人たちに知られ、村に災いをもたらしたと非難された双子は必死の謝罪の弁も聞き入れてもらえず、捕えられ、海に沈められてしまった。……───
───……このため、この地域一帯では産まれた嬰児が双子であった場合、人々はそれらが招く厄災を恐れて嬰児が生まれたその日から十五の年月を数えた日に、双子を棺に入れて海に沈め、海神への生贄としたのである。……───
古来より双子とは様々な理由から不吉な存在とされ、忌み嫌われてきた。これはその一端、一例といったところだろう。さらに何ページかパラパラとめくって流し読んだあと、ページを戻して机の上に置き直した。
そこでデスクの上側、羽根ペンとインクのわきにある一冊の筆記帳に気がつく。
手に取って適当に開いてみるとやはり古語が書いてあり、手書きであることを考えるに日記ではないかと思われる。
一度部屋の外に気を向け、誰もいないことを再確認したカイナはその日記に目を通す。
この日記の筆者、つまりハインハイトの性格の表れなのだろう。無地のページに綴られた文字は人が書いたと思えないほどに機械的にキッチリと整列しており、文字の大きさにも文列にも一ミリも乱れはない。
表紙はそれほど傷んでおらず、まだ新しいことから、その日記はまだ使われ始めたばかりのようだった。
最初のページを開いてみると、そこにはこう綴られている。
───これは神の悪戯だろうか。
この身はとうに朽ちた筈だった。
だが気づけば、私はあの頃と変わらない姿で、この屋敷の居間に立っていた。
それだけではない。私はおろかこの屋敷も、そして、我が愛しの妻子たちすら、あの頃と何一つ変わらない出で立ちでそこにいた。
私たちが立っている世界が、海の底であるということを除いては。───
文章から推察すると要するに、死んだはずが気づけば息を吹き返し、自身を含めた全てが昔と変わらない状態で存在していた、ということになる。
上げていた視線を日記に落とし、次の日記の文章を目で追う。
───ミリディアナたちの記憶では、あの頃の悲劇の全てを忘れてしまっているようだ。
昔の思い出もまじえながら、まるで今日までずっと、ここでこうして暮らしてきたような口ぶりだった。
仕組みはわからないがここはきっと、この海底に眠る何かと、私の思いが掛け合わさり、作り出された場所なのだろう。
私の後悔が、怒りが、憎悪が、願いが、この虚想郷を作り出したのだ。───
虚想郷。
彼の想いが創り出した、嘘と虚ろで塗り固められた世界。
パラパラとめくると、最近書かれたと思われる新しいページを見つけた。
───今回はいつもの沈没船だけではなかった。
普通の、生きた人間が落ちてきていたのだ。
ちょうど《あの場所》に侵入者が入ったことを知り様子を見に行くところだったが、私にあるのは《思い描く力》のみで、排除はできない。
旅の者だと名乗るその青年に、露払いを手伝ってもらうことにした。───
───ああ、もう少しだ。もう少しであの丘も復元できる。
あのとき取り逃したクジラが近くにいることもわかっている。あともう少しで、約束を果たすことが出来るのだ。
必ず見に行こう。
家族みんなで。───
日記はそこで途切れていて、それ以降のページにはなにも書かれていなかった。
彼の行動目的の全貌はまだ見えないが、輪郭はぼんやりと掴めてきた。
やはり彼はなにかを企てていて、その鍵となるのはクジラの存在。
取り逃した、ということは、あのクジラは追われていた?
船がクジラに襲われたあのとき、リオトは《クジラが助けを求めている》と言っていた。なら、クジラはハインハイトから逃げていたところに偶然通りかかった船を見つけて頼ってきた?
もしかすると、近頃の連続船舶失踪事件ともなにか関係が?
立証のしようが無い仮説がぐるぐると頭を巡る。
だがなぜだろうか。この文面から、推察できる計画から、彼自体から、どす黒い悪意は感じられない。心から彼を悪者だとは言えなかった。
自身の胸の中の妙な感覚に、なぜだと自問するカイナは眉をしかめて右手を顎に添える。
様々な思考が駆け巡る頭を整理し、まとめようとする意識は背後の扉が開いたことに気づけない。
扉がガチャリと静かに閉まった音で、カイナはようやく我に返った。
日記を閉じながら勢いよく振り返ると、そこには、




