伍
顔は見ずに、リオトは静かに口を開いた。
間に合わなかったあのときの後悔と、一瞬でも彼が死んでしまったのかもしれないという考えとともに湧き上がり、心を支配した怒りと暗く重い絶望は今でも忘れはしない。
爪が手のひらに食いこむぐらいに、リオトは拳を握って続ける。
「普通だったら死んでるような、尋常じゃないぐらいに血が出てた。でもカイナさんは生きてた。そして、その体から流れた血は、赤かった。ちゃんと赤かったし、温かったんだよ……」
次の日の朝だって、貧血で顔色が優れなかったのに、心配をかけまいと笑っていた。
一緒に寝るときは、彼の胸に顔を埋めれば、トクトクと鳴る心音だって聞こえる。空腹になれば腹を鳴らして、食事にしようかと気恥ずかしそうに苦笑する。
その度に、ああ、彼だって同じ人間なんだと思わせられる。
「だからオレはカイナさんのことを異常な人だと怖がったりしないし、離れたりなんてしない。いつかあの人がオレを《もういらない》と言うまでは、傍にいるさ」
振り返りながら言うと、アシュレイは驚いたように目を見開いていた。
本当はずっと、ずっと傍に居たいけれど。あんなに優しいあの人が、そんなことを言うとは思えないけれど。もしも彼が望むというのなら、この名を彼に返し姿を消そう。
彼の傍にいられないなら、もはやこの名を持つ意味もありはしないのだから───。
そう心の中で呟いてわずかに俯いたリオトに、アシュレイは気まずそうに頭をかいて、ため息をついた。
「……んだよ。俺様の取り越し苦労じゃんか」
ふてくされたように呟くと、彼は腰に手を添えて、そして安堵したように笑みを浮かべた。
もしもこの場でリオトがなにも知らないくせにカイナを否定したなら、この件が片付き次第彼の弟子をやめて、金輪際近づかないでくれと言うつもりだったが、その必要も無いらしい。
どうやら彼は、ずいぶんと聡い弟子を見つけたようだ。アレが傍に置いておくほど気に入っているのだから、それもそのはずかもしれないが。
「そんだけの覚悟があるならなんも心配いらねぇな。アイツのこと、頼んだぜ?」
今度はリオトがキョトンとした表情を浮かべる。
カイナとアシュレイがどんな付き合いなのかは知る由もないが、それでも彼の身を本気で案じるということは、中身の無いような薄っぺらい付き合いではないのだろう。
ふっと笑って、リオトは頷く。
「ああ。師匠はオレが守るよ」
「ちっこいくせに言うじゃねぇの!!」
「うわわっ!?」
歯を見せてニッと人懐こい笑顔を見せたアシュレイは右手をリオトの頭に乗せてめちゃくちゃに撫で回す。
やめろと抵抗するリオトの頭を、うりうりと撫でくり回すアシュレイ。
そう長い間ではなかったが、解放されたときには頭はまるで爆発に巻き込まれたようにめちゃくちゃになっていた。
一度髪を解き、やれやれと結い直していると、数百メートル先の暗い青緑色の中になにかの輪郭を目に捉えた。それはちょうど正面、リオトたちが歩く道のりの途中にあって、動き出す気配はない。
目を凝らしながら少しずつそれに近づいていき、やがてそれはとても大きな、そしてなにやら茶色の体表をしていることを知る。
「あれは、……船?」
「あああああぁぁっ!?」
と突然、隣のアシュレイの声が耳を劈いた。
そしてうるさいぞアホタレイと文句をつける暇もなく、彼は一目散に駆けていく。
急にどうしたのかと足を止めて傍観していると、アシュレイが船らしき輪郭の前で止まったのを見て、髪を結い直したリオトとイリアスは後を追う。
「! これは…」
ワナワナと震えているとアシュレイの後ろで、リオトは目を丸くした。
「お、俺の、《ブレイヴァーレ号》じゃねぇか……!!」
白い砂の上で静かに眠る大きな大きなそれはやはり船で間違いない。リオトには船の違いがわからないが、船長が自分の船を間違えることはおそらくないだろう。
風化した白く大きな岩にもたれかかるようにななめに倒れているため、見上げればかろうじて甲板に目が届く。
問題はその甲板の様子だった。
詳細には見えないが、そこには人らしきものがいくつもあった。そしてそれらはそれぞれが腕を上げたままや足を上げたままなど不自然な姿勢や体勢をとったまま、身じろぎ一つせず、まるで石にされたようにただその場に静かに佇み続けている。
また、その佇んでいる立ち姿は阿鼻叫喚のなかなにかから逃げ惑っているようにも見えた。
「あれは、ゲオルグたち……?」
それらの出で立ちは髪も服もすべてが銅像のような青銅色をしていたが、目に入る面々には見覚えがある。
隣でアシュレイが頷いた。
「ああ。間違いねぇ。しかし、なんだってあんなナリでこんなとこに……」
近くに目を引くようなものはなにもなく、船は広く平坦な荒野にぽつりと立ち尽くす小石のようだった。
船の足元に立っているため、普段は港から見上げるよりも甲板はさらに高い位置にあり、もたれかかっている岩をよじ登っても上がれそうにない。
クジラに襲われたあと、船から手を離したリオトやカイナ、アシュレイは流されたが、転覆した船はまっすぐここに落ちたのだろうか……。
「……! アシュレイあれ!」
「あのすいません痛いんですけど!?」
驚きのあまり、バシバシとアシュレイの肩を叩くリオトは、右手でなにかを指し示していた。振り向いたアシュレイは彼女の指先を目で追い、その先にある青に目を凝らす。
数秒を要して、そのなかにぼんやりとだが大きな影を見つけた。
ほんの数キロメートルの距離を歩いて近づいてみると、それは同じく大きく立派な船だった。岩に乗り上げたように少し傾いて停止しているその船にも、不思議なことに特に目立った傷や破損部分は見当たらない。
そして、その周りにも大きな船や漁に使われる小さな小舟など、大小も種類も様々な船の数々がポツリポツリと点在していた。
近場の船を何隻か見て回ったところ、状況、状態はすべて似たようなものだった。
「これはいったい……?」
「こりゃひょっとしたら、例のアレかもな」
「アレ?」
昼間にカイナと話した、ここ最近頻発している連続船舶失踪事件。
海に夢中になっていたリオトはやはり聞いていなかったらしい。
「最近ここらの海域で客船、商船、漁船問わず船が海に出たっきり行方知れずになるっつー事件が起こってる。ひょっとしたら、この船たちはソレと関係があんのかもしれねぇ」
「じゃあ、オレ達も……」
「俺らは幸い動けるけど、早くしねぇといずれは俺らも二の舞かもな」
この船たちがその連続船舶失踪事件の被害者だとしたら、どうしてそんなことになってしまったのか。
こうなる直前に、彼らの身に何が起きたというのだろう。
もしや、自分たちと同じように海上であの大きなクジラとやらに遭遇したのだろうか……。
疑問が深まるばかりだが、ともあれ。
「悪いけど、今はなにもしてやれないよ。こんなとこじゃ船も進めないだろうし……」
「分かってる。なにが起きてんのか未だによく分かってねーけど、俺達がこんなフシギ空間のなかで生きてられてんだ。きっとあいつらも死んだわけじゃねぇだろ。ここから出る方法が見つかるまではあいつらのことは後回しだ」
「うん。でも絶対助けるよ」
「ったりめーだ」
恐怖に歪んだような表情の数々に今すぐなんとかしてやりたいと胸が痛むが、必ず助けに戻ることを約束し、今はその場を離れた。
*
イリアスはリオトとアシュレイを連れブレイヴァーレ号からさらに五キロほど歩いた。
気づけばいつの間にか周りはさきほどよりも薄暗くなっていて、リオトは一度後ろに目をやり、アシュレイがいることを確認した。
こうしてただ無言で歩いていると、なにも無い平坦な荒野に似た世界を、もうずっと長い間この三人で歩き続けてきたような感覚になる。
そして、今は傍に無い、自分の名を呼ぶあの声が、頭を撫でてくれるあの大きな手が、少し、ほんの少しだけ恋しくて、少しだけ寂しかった。
なんだかきゅっと胸が締めつけられて、苦しい。
昨日の彼は、背格好も顔も服装もよく真似できただけの偽物だったのだろうか。だとしたら、本物の、方向音痴なあの人は、今頃一人きりでさまよっていないだろうか。
俯きこの場にいない恩師へ思いを馳せていると、前を歩くイリアスの足が止まった。
案内したい場所へ着いたのか。
「イリアス?」
顔を上げ声をかけると、こちらにゆっくりと振り向いたイリアスは二人が良く見えるよう体を横へよけた。
隣に立ったアシュレイと共に、リオトは前方を見る。
白く細かな砂だけが敷きつめられただけの荒野に突然姿を現したのは、いわば祭壇のようなそれだった。
大人で約三十人ほどが乗れそうなとても大きく、けれど低く平たい石が三つ、ピラミッド型に重ねられ、その中心に黒い箱のようなものが二つ置かれている。
祭壇の周囲は円を描いて一定間隔で上へと突出した岩が囲んでいて、正面にはやや小規模で少々厳しく重厚な門が構えている。
真上から差している薄日のような光が祭壇に神秘的な雰囲気を後付けする。
近づいてみると、門には所々に珊瑚やフジツボが生えていることや、彫り込まれている装飾の痛み具合からそれが古いものであることを悟らせた。
警戒しながら近づき、門をくぐる。重ねられている石の高さは一つが一メートルほどで、それが三段重ねられているので、三メートル。しかし元々人が登ることを想定されているようで、中心に一段一段が標準的な高さになっている階段が上まで設けられていた。
リオトを先頭に三人はゆっくりと階段を登り、最上段に置かれている箱が大きく細長いものであり、そしてその二つの箱はなぜかやや大きめの鉄鎖で繋ぎあわせてあることがわかる。
それも気になるが、その箱の下、石段に描かれている詠術とはまた違った紋章のような大きな陣も気になるところだった。見たところ、この陣は人為的に描かれたものではないように見受けられる。
「なんだこの箱……?」
「とりあえずまだ触るなよ」
腕を組み、しげしげと見るアシュレイに釘を刺し、リオトも並んで置かれている箱を観察する。
どちらも極端に巨大ではないが、鞄などに比べれば明らかに大きく、そこそこ深い。ちょうどやや小柄な女性や子供一人であればゆうに収めることが出来るであろうそれの蓋には金の装飾で十字が刻まれており、箱の左側には丈夫そうな南京錠。
なんだか、まるで……。
「棺桶みたいだな……」
「うわ言ったなお前言ったなあえて言わなかったのに口に出しやがったな!!?」
冷静に呟いたリオトに、アシュレイは自身の体を抱きしめてぶるりと身を震わせた。同じことを考えていたが、不気味に思えて言葉にしなかったらしい。
ちゃちな怪談話に顔を青くする子供のような彼に、リオトは呆れの一瞥を投げた。
「だってこんなデカイ箱、棺桶かガキのおもちゃ箱のほかになんの用途が……」
言いながら、上から差す光を見上げたリオトの言葉が止まる。
一面に広がる薄暗い群青のなか、リオトたちの真上にだけ、筋を立てながら揺れ、光り輝く水色の半月があった。まるで本物の月のようなあの形には見覚えがある。
「イリアス、まさかここ、さっきいた広間の真下……?」
こくんと頷くイリアス。水気はだいぶ引いたようだが、いまだ碧色の髪は湿ったままだ。
「は? じゃあここ水の中じゃねぇの?」
「そっか。元々この世界自体がもうすでに海の中っぽいのにわざわざ呼吸の心配をする方が間違いだったんだ」
目を点にするアシュレイに、リオトはぽんと手を叩いて納得する。
魚が泳いでいる時点で気づくべきだったのだが、大した行動制限や障害は無く、あまりにも自然に行動できているものだからいまいち自分たちが水中にいるということを素直に認識できないでいた。
イリアスはあの水が表面上のものでしかなく、中に入っても呼吸は可能であることを知っていたからリオトたちを直接あの広間からここへ連れて行こうとしたのだ。
ここに来るまでに地下へ大きく降った感じがしなかったのが少し気にかかるが、どうやらとんだ回り道をさせてしまっていたらしい。
「そういうカラクリか……」
「ごめんなイリアス。手間をかけた」
ふるふると首を振ったイリアスは、それよりもこれを見ろ、と言うように白い手で目の前の黒い二つの箱を指し示す。
「…………なぁクロ。これ開けろって言ってんだと思う……?」
「……とりあえず外側を調べてみようじゃねぇか」
「顔青いじゃんかよお前平気じゃなかったんか」
「棺桶は平気だけど棺桶から出てくる系の魔物って斬りつけてもあんま効かないから苦手なんだよ…」
「幽霊とかゾンビとかな」
「それな」
口をひきつらせる二人は、おそるおそるそれぞれ箱に近づく。怖いので手は触れず、まずは表面をくまなく観察する。




