肆
*
静まり返った遺跡の大広間。
そこには、昨日の戦闘の爪跡とでも言うべき巨岩、あるいは岩石、石、小石の数々が未だ無造作に散らばったままだった。
その岩と岩の隙間をパタパタと駆け回るなにか。
「無い……。無い……! ───無い!!!」
ガバッと勢いよく起き上がったのは人の体。
幼さの残る中性的な顔も、黒い髪も衣も、体中を土や砂埃で汚して、リオトは大広間を這い回っていた。
「リオトー、もう諦めろよー……」
離れた場所で岩石に腰かけ、立てた膝に腕をつき、その腕に顔を乗せて呆れた様子でアシュレイが声をかける。
「いやだ!! 絶対見つける!!」
「見つからねーじゃん……」
幽霊のように長い黒髪を振り乱し、必死の形相で辺りを見回す。
昨日ここで敬愛する恩師と一悶着起こし、どうにか撤退したあと、リオトは髪紐を失くしたことに気づいたのだった。
探しに戻ると走り去ろうとしたところを、まだあいつがいたらどうするんだ。明日まで待て。とアシュレイとイリアスが無理矢理引き止めた。
そして休息と睡眠を摂って熱りが冷めた今朝、三人は広間に戻り髪紐を探していた。この世界では時間の流れがいまいちよく掴めないが、二時間弱は経過しているように思う。
最初はアシュレイとイリアスも手を貸し、この大広間の中はもう大方探し尽くしたのだが、それでも見つかるまで探すんだとリオトが聞かないのである。
「髪紐一つでなに意固地になってんだよ。それよりこれからどうすっかだろーが……」
ギリ、とリオトが奥歯を噛んだ。
「ああそうだよ!! たかが髪紐一つだよ!! でもオレはアレが見つからないのは嫌なんだ!!!!」
怒号が広間の中に反響し、空気を揺らす。
睨みつけたアシュレイの顔はうるさいなとでも言いたげに顰められていた。その隣ではこちらを案じるように見つめるイリアスの姿。
つい声を荒らげてしまったと我に返り、顔を伏せた。
「あれは……、師匠がくれた、大切な……」
あの人の弟子になって、まともな服を着せてもらって、乱れていた髪を綺麗に整えてもらって。
艶を取り戻したこの髪を、あの人は綺麗だと褒めてくれた。
黒は魔を連想させる。だからこの髪を見て悪魔だと罵った者さえいたのに、彼は自分とは正反対の色をしたこの黒髪を見て、切るにはあまりにも惜しい。結い上げてはどうだろうかと言ってくれたのだ。
その時にもらったあの髪紐は、確かにたまたま見かけた露天で買っただけで、彼も安物ですまないな、と苦笑していたが、それでもリオトにとってはすごく嬉しかった。宝物だと思って大事にしていた。
なのに、それを失くしてしまうなんて、なんてことをしてしまったのか……。
なにかに耐えるように一文字に引き結んだ口元が見えて、アシュレイは頭を掻いてため息をついた。
「……ともかく、ここはもう探し尽くした。どっか別なトコに落ちてっかもしれねぇ。イリアスが俺らをここに誘導した理由がわかったら他んトコ探そうぜ」
「……ああ。ムキになってごめん」
「俺もまぁ、貶すみてぇな言い方して悪かったよ」
髪紐が見つかるまでは、とりあえず髪は紐を結ぶようにしてじかに片結びで結い上げ、リオトはイリアスに目を向ける。
「イリアスも付き合わせてごめんな」
気にしていないと言うふうに、微笑とともにイリアスはゆっくりと頭を振った。彼女に預けた黒魂魄を受け取り腰に下げていると、不意に頭上を影が過ぎ、リオトは上を見上げた。
「なあ、アシュレイ……。ここってやっぱ、海の中だよな……」
「信じられねぇけどな……」
頭上から差す変幻自在にゆらゆらと揺れる光を受けてリオトたちに覆い被さる荒い網目状の水影。一面青色の世界を数匹から数十、多くて数百の群れを成して回遊する魚達。
それらの景色全てが幻術かなにかでないのなら、この場所は間違いなく海底の園とでもいうべき場所。
信じられないが、今のところこの世界から目を覚ます気配はない。
ならば目が覚めるまで、今はこの世界でできることをしよう。
「イリアス、君がオレ達をここに連れてきた理由、教えてもらえるかな?」
こくんと頷いたイリアスはある一点を指さした。それは広間の奥の、昨日も見た巨大な半月型の湖。
「これを見せたかったのか」
「昨日は詳しく調べるどころじゃなかったしな……」
昨日の騒動を思い出し、げんなりした顔でため息をつくアシュレイの隣で、リオトは再び縁の手前で膝をつき、水底を覗き込んだ。
するとやはり、水底に黒い塊があるのを捉えた。
「ひょっとして、アレ?」
見たところ、この湖の周囲には特に変わったものや気になるものは見当たらない。
指をさして示すと、イリアスは頷いてみせた。
「でも、これ相当深いぞ……?」
見えているあの塊がなにかはわからないが、それは見たところこの湖の奥底にあるようだった。
アシュレイは訝しみながらしゃがみこみ、手を湖に突っ込む。すると案の定、波々と満ちている水がその手を飲み込んで水面を揺らした。
「……どうするかな……」
一度腰を上げたリオトは腕を組み、思案する。この水を引かせることの出来る仕掛けでもあれば話は早いのだが。
とそのとき、すぐ隣を風が駆け抜け、なにかが水面を強く叩き、水がバシャンと大きく跳ねた。
その音と、右肩や腕に降りかかった冷たさがリオトを我に返らせる。
「っておいイリアス!?」
水面から胸と頭を出しているのは紛れもなくイリアスだった。リオトは目を向き、思わず声を荒らげる。
「イリアス、あと三時間でいいからそのままでよろしく!!」
「ちょっと黙ってろ!?」
呟き、鼻血を垂らしながら親指を立てた彼の目は高所から見下ろすような形になったことで見やすくなっているイリアスの胸元に釘づけになっていた。
水面からちょうど胸部から上が出ているため、水が縁取ることによって豊満でたわわなそれの大きさが、そして水気を吸い肌に張り付いた衣服が形の良さを強調しており、男なら誰しもが目を奪われる性の強烈な主張にアシュレイの鼻の下は完全に伸びきっている。
「ほらイリアス! 風邪ひくからさっさと上がれ───ってオレまで引き込もうとしないで!?」
アシュレイの下心丸出しの視線を気にもとめず、寒いはずなのに身を震わせる素振りも見せず、引き上げようと伸ばしたリオトの腕を掴んだ彼女はそうすることが当然であるかのように逆に水の中へ引き込もうとする。
「イリアスは平気なのかもしれないけどオレ達はそこまで息が続かないって!!」
抵抗するリオトの様子に一先ずは水中に引き込むことをやめたイリアスだったが、理由までは理解出来ていないらしく不思議そうに首を傾げる。
「つったってイリアスは俺達を連れて行きたがってんだ。どっから行ったってその先がどうせ水の底なら、ここから行くしかねぇだろ」
ごしごしと腕で鼻血を拭いながらアシュレイが言う。
「軽く見積もって百はあるぞ。オレや師匠でも十メートル弱がせいぜいだ。てか、そう言うお前は息続くのかよ」
「五、六メートルが限界だな!」
「ぶった斬るぞてめえ……!」
ニッと白い歯を見せて得意げに親指を立てるアシュレイにリオトの額の青筋が音を立てる。話が堂々巡りをするばかりで進まない。
イリアスはおそらくこの世界についてなにか知っている。
それを元に、口が聞けない代わりに思い当たる場所へ案内して必死に答えへと繋がる欠片を教えてくれているのだろう。
それを鑑みればついて行くべきだが、しかし武人だろうが警護騎士だろうが人間には一応限界というものがある。
考えあぐねていると、唐突にイリアスが湖から上がり、髪や服から水を滴らせながら再びリオトの手を取って歩き出した。
「え? え?! ちょっ! イリアス?!」
ずんずんと歩いて行くイリアスに半ば引きずられていくリオトのあとをアシュレイが追う。
遺跡らしき廃墟をあとにし、イリアスに連れられ歩いていると、そこかしこに風化した大小様々な岩の群れが点在し、ゴツゴツとした岩肌には珊瑚やイソギンチャクなどの水産無脊椎動物が根を張り、鮮やかな緑色を呈している海藻が潮の流れによって風にそよぐ草木のようにゆらゆらと揺れているのが目に入る。
それは、疑う余地もなく海の中そのものの風景だった。時が止まったかのような静かな空間のなか、ザクザクと雪の上を歩くような足音が三人分。
体を拭くものがなかったのでアシュレイが肩にかけて羽織っていただけのオーバーコートを剥ぎ取り、びしょ濡れのイリアスに着せてやった。
病の類か、おとぎ話のような呪いの類か、言葉を話せないイリアスの意図は読めないので今は彼女の気の進むままに任せよう。
「なあ」
不意に、後ろを歩いているアシュレイが声を投げてきた。
ゴールの見えないピクニックに飽きたと言うなら思い切りトゲのついた返事を返してやるところなのだが、生憎と、その声に幼稚なそれは混ざっていなかった。
だから、普通の、しかし少しばかり真面目な声色で応えた。
「なんだ」
「お前、アイツのこと知ってんの?」
誰のことを言っている、なんて聞き返す必要は無い。
何の話だと白々しくとぼける必要は無い。
随分と抽象的な問いだが、その真意は自ずと悟ることが出来ていた。
《カイナの身体について、お前はどこまで知っているのか》と聞いているのだ。
「細かいことは知らない。ただ、身体が人一倍頑丈なのは確かみたいだ」
嘘をついたつもりは無い。
それを最初に目の当たりにしたとき、彼と出会って間もなくの時期に頭を鈍器で殴られて大量の血を流し、体中を剣で切り裂かれてもなお大剣を振り回す彼の姿を見たときはそれこそこいつは化け物なのかと目を疑った。
ときに剣で腹を刺されても、ときに銃弾をその身に浴びようとも、常人であれば最悪死に至るような重傷を負っても、カイナが膝を折ることはなく、詳しい話も聞かぬままそれを見慣れてしまった今では単純に《彼は人一倍身体が丈夫なのだ》という認識に落ち着いているのだから人間の慣れるという習性は我ながら実に恐ろしい。
「なにも、思わねぇのか」
リオトは足を止めた。
それに倣うように、アシュレイも立ち止まる。
話を聞いていたかはわからないが、リオトが歩みを止めたことにより、手を引いていたイリアスもつられるように立ち止まって、しかし不思議そうにリオトを振り返り、首をかしげた。
「少し前にも、オレが合流するのが遅かったせいで、師匠が深手を負ったことがあった」




