参
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「ダー、───リンっ!」
そんな身に覚えのない呼称とともに、矢庭に体の上に何かが降ってきた。
「うわっ……!?」
どうやらそれは柔らかく軽いものではあったが、それでもすっかり不意を突かれてベッドのスプリングと一緒に驚いた声を出した。
「もー! ダーリンたらお寝坊さんだよ! 朝ごはんとっくに出来てるんだから! 早く食べようよ!」
首に細い腕らしきものが絡みつき、甘いセリフで恥ずかしげもなく呼びかけてくるのは些か幼い声だった。
「あ、ああ……。すまない、エリル……」
ダーリンと呼ばれる筋合いは無いはずなのだが、とりあえず笑みを返して体を起こした。
「おはよ♡ ダーリン!」
ベッドから降りずに首に腕を回したまま猫のように甘えてくるのは十四、五歳ほどの少女。
ゆるくウェーブした水色の髪と、それを少し濃くしたような青い瞳を持ち、肌触りの良い柔らかな布地でできた白と青のオフショルダーワンピースを着ている。
とそこで、誰かが息を切らせて駆けてくる。
「はあっ! ……はあっ! ダメだよエル! お客さまなんだから失礼なことしちゃ……!」
扉に寄りかかって苦しそうに胸を押さえながら、少女はカイナを叩き起した少女、エリルを窘める。
少女はエリルと同じ背格好をしていて、しかし明るい赤色をした髪や瞳、さらには身に纏うワンピースもデザインは同様だが白に赤があしらわれているなど、対照的な容姿から看取出来る通り、彼女たちは双子だ。
「おはよう、セリル。君も起こしに来てくれたのか、すまないな」
「あ、いえ! それよりもお休み中のところをエルが失礼しました」
礼儀正しく頭を下げるセリルに、エリルがぷくぅと頬を膨らませて反論する。
「ちょっとセル! それどういう意味よ!」
「わざわざのしかかったりしなくたって普通に揺すって起こせばいいでしょ! 疲れてる旅人さんに迷惑じゃない!」
大股で歩み寄ってきたセリルはいまだベッドの上に座っているカイナの腕に抱きついたままのエリルと口ゲンカを始めてしまった。
かしましくも微笑ましい双子ゲンカにくすりと笑って、カイナは木の枠で囲われた窓の外に目をやった。
朝と言っても、眠る前よりは少し明るくなったかと感じるぐらいで、相変わらず外は血の気が引くほどに青一色だ。
───リオトの瞳の色、と考えれば、そう悪い気もしないが……。
いつもそばにあって、心を落ち着かせてくれる、優しい色。
「二人とも、少し落ち着け。私のせいで旦那様と奥様を待たせているのだろう?」
「エルはいつもそうなんだから……!」「セルだってこの前……!」と、思いのほか長引いているケンカにいよいよ割って入ると、二人は同時に我に返った。
「そうでした! 急いで支度をお願いします!」
「ほらダーリン! 早く早く!」
「今行く」
二人に急かされながらベッドから立ち上がり、右手がなにかを握っていることにようやく気がついた。それはやはりリオトの髪紐で、昨晩は手に握ったまま寝入ってしまったらしい。
苦笑しつつ、手早く顔を洗い、髪紐を左手首にブレスレットのように巻き付けて服を整え、部屋を出た。
二人に手を引かれながら長い廊下を歩き、ときおりすれ違う使用人たちと軽い挨拶をかわしながら行き着いたのは食堂。
部屋の隅には男女合わせて五人ほどの使用人が控え、中央に縦に置かれた長い食事台の奥に男性が一人、その左隣に女性が一人座っている。
彼らの前と、男性の右側──女性の向かいの席──、そして男性の向かいの下座にあたる席にはそれぞれ白いランチョンマットが敷かれ、いくつかの皿が並んでいた。
「おはよう、カイナ君。昨夜はよく眠れたかね?」
テーブル奥の上座にあたる席に座る赤毛の男性、そしてエリルとセリルの父、ハインハイト・トレストラーがテーブルに肘をついて両手を組み、問いかけてくる。
「おはようございます、旦那様、奥様。お待たせしてしまい大変申し訳ありません。昨夜はおかげさまで」
「そう。それはなによりでした。エリルとセリルも席につきなさい。朝食にしましょう」
目を細めて上品に笑んだのはセリルと同じ水色の髪と瞳を持った落ち着いた物腰の女性。双子たちの母、そしてハインハイトの妻のミリディアナだ。
「「はーい!」」
エリルとセリルはわざとか偶然か返事を重ねると、カイナから離れ、とたとたとミリディアナの向かいの席に駆けていき、そばに控えていた使用人が引いた椅子に腰を下ろした。
カイナもハインハイトの向かいの席に歩み寄ると、壁際に控えていた使用人の一人が足音も立てずに近くへ来て、背もたれの長いダイニングチェアを手前へ引いてくれた。
どうぞと促されるまま、カイナは軽く会釈をして席につく。
それを見届けるや否や、ハインハイトはテーブルに付いていた腕を大仰に広げてみせた。
「では、食事にしよう。カイナ君も遠慮せずに食べてくれたまえ」
「はい。ありがとうございます」
清潔感漂う白いランチョンマットに並んだ大小様々な白い皿。盛られているのはこんがり焼けた丸いクロワッサンに、ベーコンと目玉焼き。湯気が陽炎のように揺れ、クルトンやパセリで飾られたスープと、色とりどりの野菜が盛り付けられた副菜と、オーソドックスなメニューだった。
右側にはフォークとナイフ、スープスプーンがナプキンの上に並び、左側にはカップに注がれたコーヒーとグラスに注がれた水が置いてある。
見たところ、なにかおかしなものが入っている気配はなさそうだが。
スープを一口啜り、サクサクのクロワッサンを齧る。確かリオトはチョコのほかにクロワッサンも好きだったはず。食べたと話せばきっとずるいです!!と拗ねるだろう。
周りに気づかれないよう小さく笑って食べ進めながら、テーブルの中央に置かれた背の低い花瓶越しにカイナはハインハイトたちの様子を盗み見る。
テーブルの長さはおよそ五メートルほど。カイナから左側の奥方の女性までは約三人分の、右側の双子が座る席までは約二人分の席が空いていて、あまりよく聞こえないが、なにか話をしながら食事をする双子を行儀が悪い、はしたないと窘めながらも、楽しそうに、目を細めて穏やかに微笑みながら傾聴するハインハイトの振る舞いはまさに我が子を愛する父親そのものだ。
しかしカイナは、彼を完全には信じてはいなかった。
いや。敵意は感じないが、隠し事があると疑っている。という表現が正しいのかもしれない。
船もろとも海に沈んだあのあと、見知らぬ場所で目を覚まして最初に出会ったのが赤毛の彼、ハインハイト・トレストラーだった。
この世界が現実とは切り離された亜空間であることは景色や様子から察しがついていたが、一応《道に迷い仲間とはぐれた旅人》だと話して、さらに幸か不幸か、《体が回復し、仲間が見つかるまでの間この屋敷に厄介になる》ということになったのだった。
そうして話がまとまったあと、少し手を貸してほしいとカイナはあの遺跡のような場所へ連れていかれた。
ハインハイトは言う。不可侵である遺跡を害する存在が遺跡の中に侵入した。君に、その排除を頼みたい。と。
なぜ自分に、と問えば彼は「今の私に、なにかを排除する力は無くてね」と苦笑した。
その言葉の真意を掴み兼ねながら遺跡へと赴いてみれば、そこにいたのは愛すべき愛弟子たち。排除する対象がアレであるならばこれはまずい。
しかし、自分たちがこの世界に迷い込んだ原因の一端が、ないし関連性があの男にもあると見た師は一芝居打つことを決める。といっても、あちらの言葉に一切の返答を返さないことで無関係を装いつつ、仕留め損なったフリをして退却させるというものだ。
結果、多少心苦しいくありながらも、少し熱が入ってしまいつい楽しく戯れてしまったが、なんとか作戦は成功を収めた。
仲間だとを告げ合流してもよかったが、固まってしまっていざという時に身動きが取れなくては困る。二手に分かれて調査する方が効率もいいだろう。
芝居を見破られることも視野に入れていたが、追及されなかったのでさておき、こちらは予定通りハインハイトの意図を探ろう。
今まで飲んできたどのコーヒーとも違う香ばしい香りと湯気を立てるブラックコーヒーに口をつけるカイナはハインハイトの視線に気づかない。




