拾捌
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船もろとも海の藻くずになったにしては、意外にも迎えた目覚めは穏やかなものだった。
わずかに頭をもたげるとズキリと痛みが走る。筋でも違えたかと思ったが、それは一度きりのことだった。
のっそりと体を起こし、座り込む。痛みの余韻が残る首をさすりながら、リオトは周囲を見渡す。
映る景色はなぜかほの暗いエメラルドグリーンの世界で、ゴツゴツとした大小様々な岩ばかりが目立つ。
足元は白い砂が埋め尽くし、上を見上げれば、なにか、光のようなものが煌めきながらゆらゆらと揺れていた。
「ここは……。さっきのは、夢……?」
ぼんやりと、朧気になにかを見ていた気がするのだが、天国とも地獄ともつかぬその景色は、リオトの問いに答えない。
それどころか、不気味なほどに辺りは静寂に満ちていた。
ゆっくりと記憶をさかのぼっていくと、フラッシュバックのように次々と先ほどまでの光景が脳裏を流れていく。
「そうだ……! 師匠! どこにいますか!? 師匠!!」
立ち上がり声を張り上げるも虚しく、それに返す声はない。どれだけ首を回しても、一緒に沈んだはずのカイナやアシュレイたち、そして彼らの船の残骸も見当たらず、なんの気配も感じられなかった。
まさか自分は死んでしまったのではとも考えるが、それにしてはなにか妙だ。
「いったい、なにが起きたんだ……?」
クジラの夜襲、船の転覆、気がついたら知らない場所で一人きり。
さっぱり状況が把握できないが、立ち尽くしていても仕方が無い。解いていた髪を結い上げ、その場から動くことを決めたリオトは緊急事態に備えて黒魂魄を具現化させる。
「封欺解───うっ!」
足元に紫色の光を放つ詠唱陣が浮かび、詠唱を始めると、ドクンという痛みにも似た強い脈動がリオトの言葉を止めさせた。
くずおれ膝をついたリオトは右手で左胸辺りを押さえる。
これは、先ほど甲板で起きた異変と似ている。
「ぐ、うぅ……っ!?」
練ろうとした体内の詠力が、引き込もうとした闇属性の詠力が、リオトの意思を無視して混じり合い、体内で暴れ回る。
体中が、心臓が、内側から貪り喰い尽くされるような痛みがする。
「こ、の……!」
持てる力を持って右の拳を膝元の白い砂が埋め尽くす地面に叩きつける。
すると、浮かんだままだった詠唱陣が目くらましのような強い光を放ち、轟音を立てて地に不規則な割れ目が走ると、満足したように静かに消え失せた。
考えられる原因は詠術の行使ぐらいだった。だからイチかバチか、無理矢理体内の詠力を吐き出したのだ。そうしなければ気が狂いそうな程に凄まじい痛みだった。
亀のようにゆっくりとしか引かない痛みに苛立ちつつ、力尽きたリオトはその場に倒れ込む。
ドクドクと喧しい鼓動がこめかみを叩く。乱れた呼吸が肩で息をさせる。意識は辛うじて保っていたが、すぐに動くことはできそうにない。
どういうことだ。黒魂魄を手元に出す行為は詠術という形を借りてこそいるものの、大量の詠力を必要とするような術じゃない。
ひとつまみの塩のように、自身の詠力と闇属性の詠力が微量あればそれで事足りるはずだ。だからさっきだって、それほど大量の詠力は練らなかったし、引き込んだ闇属性の詠力もほんのわずかな量のはずだった。
自分で抱えきれなくなるほどの力に勝手に膨れ上がることなんてないはずだ。
なのに、どうして?
答えのわからない問いがぐるぐると頭を駆け巡る。
すると、すぐ近くで砂が音を立てた。
体を起こす元気はまだなかったのでリオトは頭を気だるげにもたげ、顔だけをそちらに向ける。
そこにいたのは、なぜかいつの間にか側に座り込んでいる一人の少女。白く傷一つ無い体にオフショルダーの長いワンピースを着ており、右腕と首元、それから左の裾の大きなスリットからのぞく左足には碧色のリボンが巻きついている。
「君、人間か……?」
なにやら疲労しているようで、両手をついて頭を垂れ、肩で息をしていた。色素の薄い碧の髪は乱れ、あどけない小顔は汗ばんでいる。
その姿はどう見ても可憐で繊細な雰囲気を纏う淑女そのものだが、それでも思わず問いかけてしまったのは今いる場所が人間が住むような普通の場所にはとても思えなかったからだ。
辛そうに閉じられていたまぶたが開き、翡翠の瞳がリオトを映す。そして、なにかを訴えるように見つめる。
「ん?」
彼女は言葉を発さなかった。
まるで目と目で直接意思をやり取りしようというように、ただ、リオトの目を真っ直ぐに見つめる。
だが残念ながら少女の瞳からなにも察することができなかったリオトは首をかしげた。
「どうし───」
言葉を遮ったのは魔物の獰猛な咆哮だった。
右側、四十メートルほど先。ワニのような姿の大きな魔物が少女を獲物と認識し、その大きな口を開け鋭い歯を見せびらかしながら意外にも速い速度で真っ直ぐに駆けてくる。
気づいた少女は恐怖に肩を揺らし、表情は悲痛に歪められるとほぼ同時にリオトが動いた。
伏せていた砂地に弾き飛ばされたかのように飛び上がると、服の中から仕込みナイフを二本取り出し投擲。投げられた短刃は撃ち放たれた矢のように速く、まっすぐに魔物の大きな上顎に直撃した。
リオトの攻撃はまだ終わらない。足を止めて今度は痛みに号哭をあげる魔物に、さらに刃渡り十五センチほどの短刀を手に追撃。
目の前に飛び降りると同時に短刀を一振りし斬撃をみまい、苦しむ魔物の下顎を思い切り蹴り飛ばす。魔物は勢いに負けて仰向けに転がり、無防備に腹をさらけ出した。すかさず短刀を逆手に持ち替え、その腹に突き立ててやる。
鋒が肉に突き刺さる生々しい感触が手から腕へ伝い、微弱な痙攣を起こす魔物はほどなくして亡骸と化した。
動かなくなったことを確認し、力んでいた肩の力を抜いてから短刀を引き抜けば、亡骸は黒い靄と化し、風に流され消えていった。それを横目に短刀を鞘に収め、しまう。
どういうわけか詠術が使えず、黒魂魄が出せない今、やはり師の教えどおり服の中や袖にいくつか武器を仕込んでおいてよかった。
これぐらいの魔物ならばナイフや体術、短刀などで十分に迎撃できそうだ。
振り返ってみれば、少女はまだ少し怯えたような、おっかなびっくりな様子で座り込んだままでいた。
そうだ。とりあえず自己紹介を。
「オレはリオト。君は? なんで魔物に追われてたの?」
問いながら、さりげなく右手を差し出してみると、少女はおずおずと右手を出した。その手を握り、立ち上がりを手伝ってやる。
不安そうに胸の上で手を握る彼女は、意を決したように口を開き、ずいと詰め寄る。
しかし、その口から言葉が出てくることはなく、少女はすぐに思いつめたような表情で俯いた。
「君、もしかして喋れないの?」
ゆっくりと顔を上げ、重々しく頷いた。
ようやく人に会うことができ、情報の一つでも掴めるかと少し期待したのだが、それはかなわないようだ。
だが《喋ることが出来ない》とは、それはそれでなにやら穏やかな話ではない気がする。彼女にもなにか事情がありそうだ。
存在や雰囲気にどこか違和感を感じるが、少なくとも敵ではないだろう。
───と、思うのだが……。
「オレの言葉はわかるか?」
問うと、頷いてくれた。言葉が通じるならまだなんとかなるだろうか。正直こちらも現状把握に手一杯だが、戦えもしないようなか弱い女の子を一人きりで放っておくわけにはいかない。
「じゃあ、一緒に行こう。オレの師匠と合流できればなにか打開策が見つかるはずだ。よろしくな、……名前わかんないや……」
なにか呼び名が無くては味気ないし不便だ。
んー、と唸りながら腕を組む。
「……イリアス。イリアスはどうだ?」
イリアスとは、可憐な、という意味の古語だ。
気に入ってくれたらしく、彼女はふわりと笑った。
「じゃあ改めてよろしくな、イリアス」
右手を差し出して握手を求めると、イリアスは照れくさそうに頬を染めながらも応じてくれた。




