拾陸
「う……」
それが何であるかを考えていると下から呻く声がした。
見てみると、浮かび上がっていた詠唱陣はいつの間にか消え失せ、さきほどまで苦しげな表情をしていたリオトが血の気は引いたままだが眉間のシワをいくらか緩くして目を開けていた。
「リオト! 体は大丈夫か?」
「はい……。治まったみたいです……」
まだ辛そうに頭を押さえてはいるが、体を起こせるなら一先ずは大丈夫だろう。
安堵の息をついたカイナの表情からも焦りが消えた。
「カイナ!」
顔をあげれば、異変に気づき船内から出てきたアシュレイたちがこちらへ駆けてきていた。
とそこへ、忘れかけていた大きな打撃音と強い揺れが再び船を襲う。
「昼間の言葉はなんだったんだこの阿呆!!」
「数ある航路の中でこのルートが一番安全なはずだったんだっつの!!」
「どこがだ!!」
リオトを胸に抱き込んで揺れから庇い、足を取られたのか倒れ込むようにしてすぐそばで膝をついたアシュレイに怒鳴ると、彼もまた怒鳴り返してきた。
危険な海にも救いはある。
それは魔物があまり姿を見せない海域があるということだった。船を持つ商人や漁師たちはそれを把握し、魔物と遭遇する危険を避けて海へ出る。
それはアシュレイたち海賊も同じこと。海を渡るならばまず初めに魔物の目撃情報が少ない海域を把握し、大体の安全な航路を決めるのが鉄則だ。
昼間に話した連続船失踪事件のこともあるし、今回だって距離や日数よりも安全を第一に考え決めたルートだったはずなのに、これはいったいどういうことか。
「おいお二人さんよォ! 仲がいいのは結構だがとりあえずは奴さんが先だ!!」
舷に立ったゲオルグが柵に掴まりながら叫ぶ。
駆け寄った先に見えたのは、水面に浮かぶ大きな影。それはこの船に匹敵するほど巨大だ。
「でかっ!?」
「どうする、船長殿」
リオトが思わず叫んだ隣で、カイナは目だけをアシュレイに向ける。
「潜られてちゃどんな魔物かわかんねぇけど、あれほどでけェとくりゃあ船の上じゃ手に負えねぇ。とりあえずほどほどに攻撃して逃げるっきゃねぇな……。面舵イッパイ!! 迎撃準備急げ!!」
「持ち場につけヤロー共!! ビビって小便漏らすんじゃねぇぞ! 砲台用意! 合図を待て!」
アシュレイとゲオルグの指示が飛び、子分たちは指示を復唱しながらバタバタと甲板を駆け回る。
「アニキ!! 舵が動かねぇ!!」
「それどころか、流されてやがる!!」
「なにぃ!!?」
勢いよく体ごと首をそちらに向ければ翻る紅のオーバーコート。目を見開きながら捉えた先では筋肉隆々の屈強な子分たちが苦しそうに歯を食いしばり、三人がかりで操舵輪にしがみついていた。
「その筋肉は飾りじゃねぇだろ!! 気合い入れろォ!!」
『ウィッス!!』
気を引き絞り、体に力を入れなおす子分たちの返事が空気さえも震わせる。
舷に立ち続けるカイナの耳に、再びあの不思議な音が一際大きく届いたときだった。
水面からザバンと大きな影が飛び出したのだ。
飛び散る水しぶきをキラキラと輝かせながらも、月明かりは一緒にその影の正体も暴いてくれた。
「クジ……ラ……?」
天を突くように水面から飛び上がった大きな大きな魚のようなそれに、カイナは目を見開く。
間もなく巨大魚はその巨体を水面へと叩きつけて再び海中へ潜り、反動によって高く打ち上がった波がやがて船を襲った。
たちまち甲板は混乱の声に溢れる。
咄嗟にリオトの腕を掴んでしゃがみこみ、舷の壁で波を避けるとなんとか水しぶきをかぶる程度で済んだ。
「なぜ人に干渉しないはずのクジラが船を……!」
「───《たす、けて》……?」
隣から聞こえた声は間違いなくリオトのものだ。
しかしその言葉はまるで目の前に提示された言葉を読み上げただけのようなはっきりしないものだった。
「どうした?」
「師匠が《クジラ》と呼んだあの大きな魚。あれが……助けて、と……」
「クジラが?」
さっきから時折聞こえる古びた扉が軋むような特徴的な音。あれはクジラの鳴き声だ。
クジラが人間に助けを求めるとはいったいどういうことなのか。そしてなぜクジラの言葉が人間であるリオトに伝わったのか。
リオト自身も信じられないというような表情だったが、こんなときに仕方のないデタラメを言うような子ではないと師は知っている。
だとしても、いったいなにから助けろというのだ。というか、
「ならおとなしく話を聞かせてもらいたいのだがな……!」
これでは助ける前にこちらが殺されそうだ。
「相手が海の護り神とくらぁ俺たちが手を出すのは御法度だ! 船の向きを変えるのに専念しな!」
ゲオルグが叫ぶと砲撃準備をしていた子分たちは手を止め、操船の手伝いに移る。
しかしどうやっても船はその場から逃れるどころか進んですらいない。
「くそ! いったいどうなってやがんだ!!?」
アシュレイが柵に掴まりながら怒鳴る。
そして再び、一際大きな打撃音と揺れが起きて、
「う……、───そだろ!?」
足元が、体が、船が傾き、周囲からどっと動揺と叫びが上がる。
リオトは慌てて手近な船縁の柵に右手を伸ばし縋りつく。だが隣では同じく柵を掴もうとしたカイナの手が音もなく宙を掴んでいた。
「くっ!」
「師匠!」
しまったと顔をしかめる彼の手をすかさず取ろうとしたが、寸でのところで届かなかった。
「カイナさん───!!!」
下へ落ちていく彼の名を叫んだ。
同時に止まることなく傾き続ける船と自身の体。
飛び交うアシュレイやゲオルグ、子分たちの叫び声。
ほどなくして、体に冷たさと衝撃。
沈みゆく体と、彼らと、逆さになった彼らの船。
視界の隅で揺れる大きな黒い影。
暗転───。




