拾肆
*
ところでお前さん、何者だ──?
「オレは、」
船に乗せてもらった代金代わりに船内で行う仕事を手伝い動き回っているうちに日は沈み、にぎやかな夕食を終えたあと、一人甲板に出て夜空を仰ぎながら、あのときのゲオルグの問いに返す言葉を、今度こそ口にしようとして、止まる。
どうにもしっくりくる言葉が浮かんでこなくて、開きっぱなしの口からは吐息だけが出ていく。仕方が無いので口を閉じて、ため息をついた。
脚を抱えていた手を解き、体の後ろについてもたれ掛かると腰掛けていた木箱が軋んだ。
遮るものがない海上で見上げる星空は、陸にいるときとはまた違った感動がある。潮を含んだ夜風も新鮮だ。
「リオト」
前触れもなく、優しく名を呼ぶ声があった。
振り返ってみると、夜空の下ではあったが闇夜に慣れた目がこちらに穏やかな眼差しを向ける恩師の姿を捉えた。
「師匠? 確かディーヴを弄りに行ったんじゃ……」
彼と夕食のあとに別れてからそこそこ時間が経っているが、少なくとも半刻は経過しているはずだ。
師は一度愛機を弄り始めると軽く三時間は楽しそうな笑い声を響かせ続けるのが常だった。
それが一時間ほどで自分の世界から離脱してくるとは、大変珍しい。
「とりあえず簡単に検査をしていたんだが、異常は無さそうだったのでな。今はどこをいじる必要も無いし、汚れの拭き上げはリオトがしてくれているし、早めに切り上げてきた。どこにもいないから探したぞ」
話しながら、カイナは隣の木箱に静かに腰を下ろす。
「やはり昼間の手合わせのあとから様子がおかしいようだが?」
もしなにかあったとすれば、一番怪しいのは手合わせが終わるまで隣に立っていたゲオルグぐらいか。
会話まではさすがに聞こえなかったが、二人がなにかを話していたのは知っている。
「大丈夫です。ありがとうございます」
リオトは体勢を変え、右足を腰掛けている木箱の縁にかけて右膝を抱えた。
「師匠は、どう思いますか? オレの記憶が抜け落ちていること……」
月明かりを頼りに弟子の顔を盗み見れば、やや俯かせた顔は困惑したように眉尻を下がらせている。
出会ったばかりだがゲオルグとは気が合い話をしていたのかと思っていたが、予想よりもだいぶ深い話をしていたようだ。
いや、ゲオルグが遠慮なくそこに踏み入ったとも言えるが。
反対に、きちんと配慮していたカイナが知りうる限りでは、数年前にこれと出会い弟子となった時にはすでに記憶は抜け落ちていたと聞いている。
手がかりはなにもなく、持ち物は身一つといつも首に巻いているどうやら誰かの手編みらしいマフラーだけ。
現在習得している戦闘術はすべてカイナが叩き込んだもので、それまでは魔物とも人ともまともに戦うことなどできず、危機に陥ったときは予期せぬ幸運や知恵を振り絞ってやり過ごしてきたらしい。
「考えられる可能性は大きく分けて三つ。精神的なショックなどによってリオト自身が無くした記憶を思い出すことを拒んでいるなどの内因的な理由か、誰かに殴られ打ちどころが悪かったなどによる外因的な理由か、あるいは詠術などにより直接記憶を封じられているのか。現実的な要因はこのあたりだな」
記憶喪失といえば、無くした記憶と同じ状況をもう一度体験することが常套手段だが、当時の状況を知る人間がいないため不可能だ。
あとは当時の知り合いに会うとか、持っていたものに触れてみるなどの手段が挙げられるが、これも手がかりは無い。
残された道はあと一つ。だが、今はそれを口にする気は無い。
「私は、記憶を無くしたところで人の本質は変わらないと思う。過去のリオトと今のリオトに、大した違いなんてきっと無いだろう。だから無理に過去の自分に戻ろうとする必要は無いと思うんだ。時には過去を振り返ることも大事だが、囚われすぎれば今度は前に進めない」
長い黒髪に指を通し、梳かしながら頭を撫でてやると、リオトはゆっくりとこちらに顔を向ける。
己が存在に迷い揺らぐその蒼に、師は目を細めて微笑みかけた。
「焦らなくていい。思い詰めなくていい。私たちの旅路は急ぐものではない。どうしたいか、どうするべきか、もう少し考えてみるといい。だがどうか忘れないでくれ。今のお前はこの私、《カイナ・ベスティロットの弟子のリオト》だ」
キョトンと、リオトの目が丸くなる。
それからほんの数秒を要して、カイナの言葉を飲み込んだリオトは気恥ずかしそうに、だが嬉しそうにはにかんだ。
そうだ。深く考える必要がどこにあったと言うんだ。今さら《お前は誰だ》と聞かれたところで、答えなんてすぐそこに、もう手の中にあったも同然だったのに。
───まだまだ未熟だけど、オレは、《この人の弟子》じゃないか。
「はい! カイナ師匠!」
「ん。よろしい」
毎日満足に髪も洗えずに土の上に寝転がって寝るような粗雑な暮らしを強いられる旅をしているわりには、リオトの髪質は柔らかく綺麗な方で、撫でる側としてもとても触り心地がいい。
そのせいもあってか、何のご利益があるというわけでもないのだがつい頭を撫でてしまう。
「師匠、あの、聞いてもいいですか?」
「ん?」
改まった問いかけに、カイナの手が止まる。
「師匠もまた、以前は師事した方の元で鍛錬に励んだと聞きました。師匠の、カイナさんの師匠はどんな人だったんですか?」
彼はあまり、自ら自分のことを話さない。そのため師について弟子が知っている情報はすべて《浅く簡潔なもの》だ。
今は故人らしいが、以前は彼にも武術の師がいたこと、その人物とともに短期間だが旅をしたこと、愛機はその人物から受け継いだものだということ、聞いたことがあるのはその辺りとたまに話題にあがる趣味思考の傾向や食べ物や物品の好みぐらいだ。
「そうか。詳しく話したことは無かったか……」
夜空を仰いだカイナの顔が月明かりに照らされる。少し困ったように笑った気がしたので、リオトは慌てて口を開く。
「い、嫌なら無理になんていいませんよ!? ただ《世界の果て》を目指すなんて奇抜なことを言い出す人だと聞いたので純粋にどんな人だったのかな~って思っただけで……!」
ぶんぶんと両手を振るリオトの頭を再び撫でてやり、落ち着かせてやる。
「すまない、気を使わせてしまったな。嫌なわけではないんだ。ただ、話していなかったことを今再認識しただけだ。たいして面白みも無い話になるとは思うが、眠る前の子守唄がてら聞いてくれるか?」
「はい。聞きたいし、知りたいです」
即答した愛弟子に微笑んで、カイナは紡ぐ言葉を探す。
「ずっと昔、もう何年も前のことだ。とある場所で生き倒れていたときに、私は彼に拾われた」




