捌
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ほとんど力の入らない手でタオルを掴み、緩慢な動作で濡れた髪を拭く。しかしすぐにだるくなってタオルは頭に被せたまま腕を下ろし、着替えに腕を通した。
シャワーを浴びる前、ここ数日間着通していた服は邪魔にならないところへ置いておけばフレディーが明日にでも乗組員たちが出した洗濯物と一緒に洗っておいてくれるだろう。
とぼとぼと、不安定な足取りでシャワー室を出て後ろ手に扉を閉めもたれかかる。
なんとか夜明けまでに、やっとの思いで帰ってこれたとカイナはため息とともに肩の力を抜く。
置いてきた愛弟子が本当は寂しがっていることにも気づいていた。
だからすぐに戻るつもりがあろうことか代金の代わりに体を要求され、仕方が無いので手早く済ませてすぐに戻るつもりが、先方がなかなかにしぶとくて長引いた上に久しぶりだったものだから随分と疲れて眠り込んでいた。
気づけば外は夜も更けていて、慌てて飛び出して戻り、汗とその他諸々で体全体がとても不快だったのでとりあえずシャワーを浴びた。おかげでサッパリしたが、まだ身体に気だるさと疲れが残っているのがわかる。
「おおカイナ。遅かったな」
顔を上げれば、紅が良く似合う昔なじみが右手を上げてこちらへ歩み寄ってくる。
「…今戻った。…どうやら相当気の強い愛猫がいると見るが?」
カイナの厭味にうっせえと吐き捨てるアシュレイ。その左頬はひどく赤く腫れており、手形のような痣がくっきりと残っている。
まだ痛むのかときおりすりすりとさすりながらも、負けじと言い返す。
「そーゆーてめえこそ、搾り取られたって顔してんぞ。この俺様を差し置いていつもいつもお前ばっかモテやがって…!」
愛弟子と同じく見方によっては男女のどちらとも取れる中性的な顔立ちの眉間に皺が寄る。
先代船長、もとい彼の父と同じように昔から女性に節操が無く、昔は毎日毎日言葉巧みに様々な女性を引っ掛けては、このように様々な形で報復を受けるという生活だった彼は、カイナが女性に絡まれるたびにこの言葉を叩きつけて突っかかってくる。
頬を思い切りはたかれただけならまだいい方だ。
昔は何をしでかしたのか身ぐるみを剥がされて帰ってきたり、全身血みどろで帰ってきたこともあった。
どこへ行ってもそこそこ女性が言い寄ってきていたのは否定しないが、しかしそういったことに大した興味を抱かないカイナにとって特に色恋にがめつい女性に絡まれることは面倒事に巻き込まれることと同義だった。
「かわいい愛弟子が寂しそうにしてたぜ?」
「うっ」
船に戻ってまっすぐにシャワー室へ向かっていると自室へ戻るところだったらしいフレディーに会い、かわいい弟子放って夜中までどこ行ってたのよこのばかちん!と怒られたこともあって、一番気にしていた地雷を真っ先に踏まれ、思わず声が出た。
すると、アシュレイはあきれ顔で言う。
「相変わらずガキが好きだなお前は…。男にしろ女にしろ、未成熟のどこにそそられるんだか…」
やれやれと肩をすくめて首を振った。
この男はあいも変わらず女性に翻弄されるのが好きらしい。まあ、手玉にとって騙して捨てるというよりはそれをいつも女性にされる側であるだけまだ可愛げがあるのかもしれない。
「一緒にするな」
今日はもうこの痴漢に付き合う気力は残っていない。
すれ違い際にため息とともに呟くと、不意にアシュレイが口を開いた。
「そういや、《おやっさん》は元気か」
少し小柄な彼を一歩追い越して足が止まる。誰のことを言っているのかはわかっていた。
「…五年前に、亡くなった」
背を向け合っていても、アシュレイが息をのんだのがわかった。
彼が言う《おやっさん》とは、カイナの師のことだ。もともとアシュレイの父とは昵懇の仲で、思考および性格が似通っていたこともあり、小さな頃からアシュレイは師に懐いていた。
ショックはそう軽いものではないだろう。伝えようにも、お互いに所在不明で連絡手段も無かったのですぐすぐには報せられなかったのだ。
「…そっか」
「報せ、遅くなってすまなかったな」
「んーや。まあしゃあねえじゃん?だったら今頃、上で親父と二人でおもしろおかしく飲んでるだろ」
「そうだな」
師はそれほど酒が得意ではなかったが、アシュレイの父に負けるのが悔しくていつもぐでんぐでんに酔い潰れるまで呑んで、いつもその後始末や世話を焼かされていたものだ。
「なるほど。それで欲求不満になって人さらいか」
からかうような、アシュレイのいつもの軽口。
ぶん、とカイナの裏拳が背後からアシュレイの後頭部を狙う。
「あぶねっ!」
殺気を感じ取り、跳ねるように飛び退るも髪先に彼の手の甲がかすり、痛くも無い後頭部を庇うように押さえる。
「次はないぞ」
低く告げた声とは裏腹に、カイナはやはりとぼとぼと部屋へ歩いて行った。




