漆
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フレディーに頼まれて調理場の手伝いを終え、夕食にありつこうとしたとき、リオトは恩師が留守であったことを思い出した。
むさくるしい男たちしかいないこの船には、ごく普通だが幸せな家庭の包み込まれるような心地よい温もりが溢れている。
数時間前に知り合ったばかりであるにも関わらず不思議と気疲れはしなくて、フレディーがまるで自身の子の成長を自慢げに人に語るように、乗組員たちに今日の夕飯はリオトが手伝ったくれたのだと言うと、彼らは口々に礼や感想を述べて、それから気さくに声をかけてくれた。
普段、カイナ以外の誰かと、ましてや多人数で食事をすることなどないため、賑やかな食事はとても新鮮で楽しかった。
しかし、どこか虚無感にも似たなにかが胸を埋め尽くしていて、その原因が師が不在であることによると自覚できていた。
それでもなんとか笑みを浮かべて食事をたいらげ、手伝っていた片付けが八割方済んだところで《もう大丈夫だからシャワー浴びて部屋でゆっくりしてなさいな》というフレディーからの好意に甘え、シャワーを浴びたリオトはタオルで頭を拭いながらあてがわれた部屋へ向かった。
あてがわれたといってもこの船の中に三つあるうちの一部屋で、それも昔カイナともう一人、とある人物がたった数回使っただけの部屋だが、そこはもうカイナの部屋として区切られ、扱われているらしい。
あとの二つのうち片方は船長の個室で、もう片方はなぜかフレディーが自室と使っていて、他に寝る場所は乗組員たちのいびきが飛び交う甲板の下ぐらいしかない。
彼の弟子なら同室がいいだろうと部屋を共同で使うことを言い渡されたのだ。
ゆっくりと扉を開ける。
中は真っ暗で、人の、ましてやカイナの気配もしなかった。当然ではあるのだが、まだ帰ってはいないかとリオトは肩を落とした。
明かりをつけて、部屋の奥にあるベッドに腰かける。
大人二人が優に寝ころぶことが出来るほど大きなベッドはそこらの宿のベッドよりもふかふかだった。
普段触れることのない感触に少し驚き、手でベッドを弄るが、すぐに飽きて手を止めた。
そして、服の釦を二つ外し、インナーをまくって平均よりもだいぶ薄い自身の胸を、正しくはその少し左側を見る。
おそらくは心臓があるであろうその箇所の肌に、見たことのない詠唱陣に似た小さな陣がイレズミのように刻まれている。
これがあることに気づいたのはさきほどシャワーを浴びた時なのだが、体にイレズミを入れた覚えはない。なにもしていない。
しかし、それは確かにそこにあって、掻き消すようにこすって落とそうと試みたが、肌が赤くなるばかりで陣が消える様子は見られなかった。
原因は一切不明だが、強いて言えば、この間孤児院に一日居候した夜に妙なフードの男に襲われ、気絶する間際に彼が何やら右手をこちらの胸にかざす姿と、詠術による光が見えたような気がした。
考えられる理由としては、今のところそれしかない。
服を直し、リオトは背中から勢いよくベッドに倒れ込む。
ばふ、と音がして、まだ湿っている黒髪がベッドの上に散らばった。天井を見つめて、陣があるあたりの服を右手で強く握りしめる。
ここは師に相談すべきだろうか。だが今のところ実害は受けていないし、身体に大した影響も感じられない。
なにより、彼に余計な心配をかけたくない。
…いや、少しは心配されていたいが、やはり恩師にいらぬ心労をかけるのは心苦しい。言った方がいいと分かっている。でも言いたくない。
服から手を離して、そのまま右腕で目を覆った。
方向音痴──重度ではないにしろ──でありながら、カイナが一人で出かけることはこれまでにも何度かあった。
だから今回も決して不思議だとは思わなかった。でも、二人旅なのだから当然かもしれないが、旅の消耗品の買い物や気が向いて街や村を散策する時もいつも一緒にいるぶん、こうしてたまに留守番を言いつけられ一人になると、突然急に突き放されたような気がして、寂しくなる。
そんなわけがないとわかっているはずなのに、このまま彼が自分を置き去りにしてどこかへ消えてしまうのではないかとさえ勘ぐってしまう。
このまま、独りぼっちだった《昔》に戻ってしまうのではないかと、怖くてたまらない。
独りであることを気にしたことなど無かったのに、今はそれがすごく怖くて、すごく不安で、すごく、寂しい。
ふと、右手首に巻き付けたソレに気づく。
カイナと出会ったとき、既にリオトの髪は括れる程度には長かった。土や砂埃にまみれていたが、綺麗に洗い続けて日に日に艶を取り戻した黒髪を気に入ったらしい彼は切るには惜しいから結い上げてはどうかと提案し、黒髪によく映える白い髪紐をリオトに贈った。
誠意のこもった贈り物を初めてもらったリオトはたいそう喜び、以来大切にしていて、髪を結う必要が無いときはブレスレットのように右手首に巻いて結びつけている。
仰向けから横向きに体勢を変え、髪紐を巻き付けた右腕ごと左手で胸に抱き込む。
「カイナさん…」
大丈夫。きっともうすぐ帰ってくる。ただいまと微笑んで、遅くなってすまなかった。ちゃんといい子にしていたか?と頭を撫でてくれる。そしたら、そこまで子どもじゃないですと言い返してやるのだ。
必死に、そう自分に言い聞かせる。
こうして不安にかられたり、悩んで気弱になっているとき、普段はカイナの外衣を抱きしめて耐えている───正直本人に抱き付けば一番落ち着くのだが、恥ずかしすぎてそんなマネをする勇気は無い───が、あいにくと今日は外衣を来たまま出て行ったので今ここには無い。
仕方なくリオトは右手首に巻き付けた髪紐に猫のように顔をすり寄せ、目を閉じた。




