壱
それはある日、昼下がりも過ぎた午後三時頃。
街の出入口とは反対側にある港で、たくさんの船が出入りする大きな港街の一角に佇む酒場。
一番混雑する昼時を過ぎて落ち着きを取り戻した今の店の中は、空席がちらほらあるなかで一組客が帰ったかと思えばそれほど経たないうちにまた次の客が来る程度の客足を維持しつつ、木製ジョッキに汲まれた黄金色の麦酒を片手に他愛もない話を繰り広げる男達の声が少しやかましい程度の賑わいだった。
酒場のカウンターでは店主の中年男性がグラスを磨き、娘か従業員か、質素な服にエプロンを重ねた姿の若い女性が出来上がった料理を配膳している。
そんな酒場の、中心よりもやや端にずれた位置にあるテーブルに、カイナは長い足を組んで座っていた。静かに香りを味わい、口に運んでいるのはなんの変哲もないコーヒーである。
酒場なのだから酒を飲んでもいいところだが、あいにくと昼間から飲むことはしない主義で、寝る間際に少し飲めればそれでいいと思うほどの興味しかない。
そしてその向かいではリオトが、さきほど頼んだチョコレートタルトをフォークで頬張っていた。
なんでも上物のカカオを使用して作られた濃厚なチョコレートが使われているそうで、一人分で銀貨四枚となかなか値が張るものの、日頃がんばっている弟子へのご褒美ということで注文してあげた。
するとまあ、予想以上にリオトは喜んでくれて、一口ずつ口に運ぶ度に笑顔になりながら幸せそうな顔でチョコタルトをつつく。
「うまいか?」
「はい!」
かわいい愛弟子の笑顔を眺めながら、引き続きコーヒーを堪能する。
「師匠も食べてください!」
「ん?」
返事も聞かずに、リオトは自身の口をつけていない箇所から一口分のチョコタルトをフォークで切り分けると、手間が無いようにそれをフォークに刺して左手で皿を持ち上げ、右手でタルトの刺さったフォークを差し出した。
こんなにおいしくて高価なものを自分一人で味わうのは気が引ける、とでも思ったのだろう。「遠慮しないでください!おいしいですよ!」とリオトは目を輝かせながらフォークを差し出す。
「では、いただこう」
と、言いながら彼はフォークを受け取り、そのままフォークに刺さった一口分のタルトを口に運んだ。
「ふむ、少し甘いな……」
苦いコーヒーには甘い菓子が合う。と、思ったのだが、すっかり苦味に慣れていた口に突然甘味を運んだせいで、想像していたよりも少し甘く感じた。
しかし、銀貨四枚だけあってタルト生地はサクサクしていて、冷やし固められたチョコレートは濃厚だ。上品なカカオの風味が鼻を抜けていく。
本来ならあまり凝った菓子など置いていない酒場で作られたデザートにしてはかなり美味だ。
「美味かった。ありがとう」
「お口に合ってなによりです!」
フォークを返すと、リオトはまたタルトをつつき始める。
本音を言えば一つしかないフォークにお互い口を付けたので間接キスになったことに気づいて赤くなって挙動不審になる姿が見たかったのだが、なぜかそのことに気付かぬままリオトは上機嫌にタルトを堪能する。
それほど気に入ったのだろう。ちょっと奮発した甲斐もあるというものだし、嬉しいのだが、こちらの目論みが外れたとなると、少しつまらない。イタズラが失敗したときの子供の気持ちはこんな感じなのだろうか。
───作戦失敗、だな。
ならば次はどうやってからかってやろうか。コーヒーを啜りながら、カイナは次の計画を立てる。
暇な時間を潰すには、やはり素直でかわいい愛弟子をからかうのが一番だ。
さて、彼らがここで何をしているのかという点について説明するには、少し時計の針を戻さなければならなくなる。
といっても話は簡単で、昼前にこの街についたはいいが、恥ずかしながら懐が心許無くて。宿代は別にとってあるから問題無いが、そろそろ買い足さなくてはならない消耗品や食材のことを考えれば懐に寒さを感じるのは放っておけない問題だった。
なので、とりあえず人が集まりやすい酒場に足を運び、店主に協力を仰ぎ、困りごとがあれば彼らが力になってくれるらしいと客に吹き込んでもらった。
なりふり構っていられなくなったときの選択肢、不定期開業の《なんでも屋》である。
ついでに安めのメニューを頼んで酒場の売上に貢献しつつ、昼食を摂りながら依頼がくるのを待っていたのだが、困っている人がいないと喜べばいいのか、平和な時代を悪のように嘆けばいいのか、一向に人っこ一人近づいてくる様子はない。
しかしまあ、いつもは物騒で殺伐とした日々を送っていることだし、たまにはこんなのんびりした時間を過ごすのもいいだろうと良い方向に考えながら、暇なのでちらりと店内を見回してみる。
と、見覚えのある服を着た者たちがこちらを盗み見ているのに気がついた。数は三人。全員が赤いバンダナを頭に巻き、腰にはカトラスが下がり、飾り紐や帯にフリントロック式のピストルが挟まっている。
ちらりちらりと二人の様子を確認するように何度か視線をよこし、なにやらこそこそと話し合ったあと、彼らが一斉に席を立つ。
カツアゲでもする気なのかと考えながら、気づいていないふりをしてカップに口をつける。しかし、男たちの気配はまっすぐに出入り口の扉の方へ向かう。気配を窺い続けるが、何事も無く静かに去って行った。
無益な争いが起こらないのならそれにこしたことは無いが、さて、どこで見た服装だったかを思案しながら再びカップを口元へ引き寄せたそのとき、斜め後ろから怒号が飛んだ。
「てめえ今なんつったぁ!!?」
「聞こえなかったっつーなら何回でも言ってやるよ!!」
静かで平和なひと時に一息ついていた矢先、視線だけを滑らせると。
やれやれ。酒に呑まれて気分が大きくなったらしい。ついさっきまでは顔を赤らめた上機嫌な様子で話し込んでいたというのに、気づけば言い争いが始まっていた。
「リオト、席を移ろう。おいで」
巻き込まれる前に逃れようとカラになったカップを乗せたソーサーを手に席を立つ。
「はーい」
理由は言わずとも悟ったのだろう。こちらはすっかり上機嫌なまま、元気な返事が返ってきた。
タルトを食べ進める手を止め、リオトが席を立とうとしたそのとき、一瞬の出来事だった。
「ぐぉおっ!!」
悲鳴というか、むさくるしい声に重ねて強い打撃音が真下からあがる。
それから二拍ほど間を置いて、ガシャンというなにかが割れる甲高い音。
リオトの目の前にあったはずのチョコタルトが、瞬きのごとく刹那の間にテーブルもろとも忽然と姿を消した。
予想だにしない出来事と、目に捉えきれず目の前でなにが起こったのかを把握しきれていない二人はピタリと動きを止めた。
そこにあるのは椅子と椅子のそばに立っているカイナ。そして一メートル半ほどの距離をあけた場所に椅子に腰掛けたまま固まっているリオト。テーブルが姿を消してしまったために広い空間ができ、そこに椅子を置いて座っている状態でぴくりとも動かないリオトはさしずめ置き場所を間違えられた大きな置き物である。
見てみると左側には倒れたテーブルと抱き合って転がっている見知らぬ男の姿があった。後転でもしたのか目を回している。その近くには見るも無惨に砕けた平皿と物の見事に派手にひっくり返ったチョコタルトの残骸。
反対側、右側では赤らんだ顔のまま残り二人で言い争いが起こっている。片方は白髪混じりのねずみ色の髪に、口の周りにヒゲをたくわえている。もう片方は褐色の肌にスキンヘッドの男だった。
また視界の隅では、リオトが操り人形のようなゆらりとした動作で椅子から立ち上がっていた。そして一歩、また一歩とゆっくり左側でテーブルと一緒に沈んでいるクロムイエローの髪の男のもとへ歩み寄る。
彼の隣に立ち止まったリオトは、その襟首を無造作に引き上げ、言い争いをしている残り二人の方へ男を放り投げた。
「ぎゃっ!?」
「どわっ!?」
言い争いに夢中になっていた彼らは予測していないかった襲撃に見事に不意をつかれ、投げ飛ばされた男共々床に転ぶ。
「タルト……、オレの……、チョコレート……」
うわ言のように繰り返し呟きながら、まるでゾンビのように体をやや猫背にして両腕を前へ垂らし、またゆっくりと男達の方へ歩いていく。
至福のひとときをぶち壊しただけでなく、夢中で食べていたチョコタルトまでもを台無しにされ、キレたのだろう。目の前を通り過ぎていくリオトに、カイナはため息をつく。
確かに至福のひとときを邪魔する、昼間から酒盛りをして、酔っ払って店で殴り合いを始めるようなはた迷惑な連中にはお灸を据えるべきだと同意するが、アレの保護者として、師として、カイナが今とりあえず願うことはただ一つ。
「殺すなよ」
釘をさすが、リオトは足を止めないし返事も返さない。あの様子では止めても聞かないだろう。
度を過ぎるようなら止めるとして、今は気が晴れるまで仕返しをさせてやろう。




