拾肆
三十分は過ぎただろうか。
まだ残っている疲労が睡魔を呼び、意識を取られかけていたところで、腕の中のリオトが身じろいだ。
「ん…、う…」
意識は戻ったが、今の自分の状況がわかっていないのか、身じろぎながら周囲を確かめるように右手でぺたぺたと腕や体を触ってくる。
「っ…、っふは…!」
少しくすぐったくて、カイナの口から笑い声が漏れた。
瞬間、頭上から聞こえた覚えのある声にリオトは寝ぼけて半開きだった目を剥いてびくりと肩を揺らし、おそるおそる顔を上げる。
「おはよう、リオト。気分はどうだ?」
元気づけるつもりで、自分を見て安堵し、笑ってほしくて、カイナはにこりと笑いかけてやる。
しかし、正気に戻ったリオトには逆効果だった。目を見開いてぎょっとした顔になり、顔を耳まで赤くしたかと思えば、間もなく血色が青くなった。
まるでカメレオンの擬態のように、血色の切り替えを器用に二、三度繰り返したのち、絶叫。
「わあああああぁぁっ―――!!!?」
リオトはカイナの腕の中から飛び退き、真ん中の通路辺りまで後ずさる。
「かかかかかカイナさっ…!? ここはどこというかオレは何をというかいったい何が起こりましたかっ…?!!」
睡眠をとったおかげで綺麗さっぱり忘れてしまったのか、新たに普通の夢を見て上書きされたのか、はたまたこの状況に気が動転してど忘れしたのか、ともかく記憶が飛んでいるらしい。矢継ぎ早に言葉を放ち、両手を振りながらとっさに師を名前で呼んでしまうほどにわたわたと慌て始める。
ついさきほどまでは涙しながら体を震わせ、見えないなにかにすっかり怯え切っていたというのに、今やその様子は見る影もなく。初で元気な、いつもの愛すべき愛弟子の姿に安堵すると共にその様子の変わりようにカイナはたまらず吹き出した。
「ふっ…! …っははははは!!」
これだからこの愛弟子は見ていて飽きない。
上品に右手を口元に添え、けれど肩を揺らしながら左手で腹を抱えて突如笑い出した師に、リオトは硬直する。
子どもたちと同じ部屋で眠りについたはずが、目が覚めたらどこか別の部屋の師の腕の中で、と言うと意味深だがもちろんいかがわしいことなど何もなかったとわかっている。わかりきっている。ではなにがあったのかまでは見当もつかない。
そうこうしていると自分の慌てふためく様子を見た師が突然笑い転げ始めた。
状況についていけず意味が分からない。
ついでに彼の笑いのツボも分からない。
二分は経ったんじゃないだろうか。たっぷりと笑い転げて目じりに涙を浮かべながら、カイナはようやくこちらを向いた。
「その様子なら、もう心配はないな」
涙をぬぐいながら微笑みかける師に、やはりただ事ではないなにかが起こったのではないかと感じ、リオトの表情が曇っていく。
「師匠、オレ…、何もしませんでしたか…? 子供たちは…」
彼の体に傷跡などは見受けられないが、彼に比べれば自分の体は小さい。戦闘においては手練れでもあるカイナなら、なにかで錯乱し暴れる子供を取り押さえるぐらいは簡単なはずだ。
カイナは長椅子から立ち上がり、勘ぐり俯くリオトの頭を撫でた。
「案ずるな。私やアリエス、それに子どもたちにも何もしていない。ただ、疲れていただけだろう」
自分の手や爪を見ても血もついていないし、彼がそう言うのならなにもしていないのだろう。ほっと安堵し肩の力を抜いた直後、それに、と彼の言葉が続く。
「泣きながら何度も私の名を呼び、求める姿はかわいかったぞ」
再びぎょっとした顔で彼を見上げれば、憎らしいウインクが降ってきた。
冗談だとわかっていても込みあげるほんの少しの羞恥と瞬く間に湧き上がる殺意。
頭の上にある大きな手の、ちょっと下の手首あたりを右手で掴み、力を入れてぎりぎりと握る。
「じゃあソレの第二ラウンドで」
「いいだろう。楽しませてくれ」
ぶっ殺すと睨みつけてやれば、やってみせろと至極楽しそうな笑顔が返ってくる。
月明かりに見守られながら見つめあう二人。しかしその周囲は月も真っ青なほどに殺気であふれかえっていた。
そして、リオトが左手を握りこんで構える。
「――――きゃあああぁっ!!!!」
飛び出したのは二人の声でも拳でもなく、第三者の、アリエスの悲鳴だ。
二人は睨みあうのをやめ、この教会の出入り口の扉を一斉に見やる。しかし扉はきっちりとしまったまま。とすれば悲鳴は孤児院の方からだ。
「アリエス!?」
「いくぞ!」
カイナが一足先に駆け出す。
ソックスはポケットに押し込んで裸足のままブーツに足を突っ込んで履き、リオトも彼のあとに続き教会を飛び出した。




