玖
今度は食器棚に歩み寄り、皿をとろうと手を伸ばしたまま、アリエスは動きを止めて肩ごしに振り返る。
「え…?」
ただの世間話のつもりで投げた問いの返答は思いもよらぬもので、若草色の瞳が丸くなり、上げていた右手が徐々に下がっていく。
カイナは変わらず生地を型抜きしていたが、ペースが落ちている。
確かにぶっきらぼうというか、不器用そうな印象は受けたが、しかし決して人殺しはおろか、子供を殺めるような悪い人には見えなかった。
ふと、視界の隅を黒いものがよぎったような気がして反射的にそちらを見る。直後に視認し認知したソレにアリエスは血の気が引いていくのを感じた。
「前に少し話を聞いただけなんだが、私と出会うよりも昔―――」
「きゃああああっ―――!!!!」
甲高い悲鳴が突如としてカイナの言葉を遮った。それは紛れもなくアリエスの悲鳴だ。
瞬間、弾かれたように伏せていた顔を上げ、彼女へ目を向ける。
「アリエス? どうし―――うわっ!!?」
急にアリエスが駆け寄ってきたかと思えば、その勢いのまま彼女はカイナの胸に飛び込んだ。
振り返った時には彼女は既に目の前まで迫っていた。突然のことで踏ん張りが間に合わなかったうえ、今カイナの手はクッキーの型抜きをして汚れているせいでどこかに手をつくこともできず、なす術もないまま一緒に後ろへ倒れ込んでしまった。
途中から足に力を入れたのだが遅く、アリエスの駆け寄ってきた勢いの方が勝ったらしい。
カイナは座り込むようにして倒れ込み、腰と頭をそれぞれ床と壁に強打した。
「…っ……。アリエス、ぶじ―――」
強打した頭と腰をさすることもできずにただ痛みに顔を顰めながらアリエスに声をかけていると、顔に柔らかいものが押し付けられ強制的に口をふさがれた。
「いやああぁ…っ!!」
いきなりどうしたというのか、おびえたような声の中には涙も混じっている。
半ば錯乱すらしているわりには強い力で頭を抱き込まれてしまっていて動かすことが出来ず、くわえて未だ手は汚れたままなのでまともに落ち着かせることもできない。
「お、落ち着け…、アリエス…!」
「ふえっ…、やあぁ…」
なんとか声だけでもかけてみるが、泣きじゃくり続けているところを見ると、大した効果はみられない。
手を使わずに立つことはできる。しかしアリエスは座っているカイナの腰に馬乗りになっていて、いわば腰の幅にちょうど合う重しをはめこまれているようなもの。この状態で手を使わずに立つことはさすがのカイナでも無理だった。
「アリエス…!」
どうすることもできずに困り果てていたその時、
*
「―――師匠~? アリエス~?」
薪割りを終えたことを報告しに居間兼ダイニングへと戻ってみれば、人っ子一人いやしなかった。
カイナたちを探して孤児院の中をさまようリオトの隣をメルルがひょこひょことついて歩く。彼女に聞いてみればこの時間はいつも昼寝をしているとのこと。
だがアリエスはこの時間を利用しておやつを作っているらしい。おそらくカイナも一緒にいるだろう。
キッチンはどこだと問いかければ、こてんとかわいらしく首を傾げられた。ど忘れしたのか、もしくは危険だから近づかせないようにしていたのか。
ともかく、二人はキッチンを探して歩きまわっていた。
「リ、リオト! いるのか!?」
気配や声で気づいたか、自分の名を呼んだのはまぎれもない恩師の声。リオトは足を止めてどこからか飛んできた声に目を丸めた。
「今の聞こえたか?」
隣にいるメルルにも念のため同意を求めると、こくんと頷いてくれた。どうやら幻聴ではないようで安堵する。
カイナの声がしたと思われるすぐ目の前の扉の前に立ち、リオトはドアノブに手を添えた。
個の扉の向こうから人の気配が二つと、なにやら甘い匂いが漂ってきている。ということはここが調理場か。
考えながらドアノブを捻った。
「師匠…? そこにいますか…?」
ゆっくりと扉を押し開き、おそるおそる中をのぞき込んだ。
ギギギ…と古い扉と金具が軋む音が響く。
右端から壁際に大きな冷蔵庫、次いでシンクが見えてきた。先ほどまで水を流していたのか、蛇口からは水がぽたぽたと滴っている。
「ひいぃ…、いやあ…」
「あ、アリエス、…いいかげんに―――むぐっ…」
一気に広がる菓子のような匂いの中聞こえる泣きじゃくるアリエスの声と、困惑したようなカイナの声。現在見えているこの調理場の右側にいないとなると、二人は扉の影、部屋の左側にいるらしい。
扉を開け放って部屋の左側を見ると、そこにはなにがあったのか、
「リオト……! いきなりですまないが助けてくれ…!」
壁際に座り込んだまま必死に助けを求めてくるカイナと、
「えぐっ…、ひっ…ふええ…」
彼の腰に馬乗りになり、かつ彼の頭を抱き込んで泣きじゃくるアリエスの姿。
なかなかに豊満らしい彼女の性徴が思い切り顔面に押し付けられ息がしにくいらしく、カイナは苦しそうな声を出している。
対しアリエスは怯えているのか、体を小刻みに震わせ、ただただ子供のように泣きながらカイナにしがみついている。
なんというか…、実に…。
―――アダルティな現場に遭遇してしまった…。
二人にその気が無くとも、傍から見れば、というかどこからどう見てもそういう状況にしか見えない。
「何してんスか二人して……」
思わず赤くなりそうな顔を悟られぬよう隠しながら、とりあえずアリエスを引っ剥がそうと二人に歩み寄る。
「せんせーとしろいおにいちゃん、いた?」
幼い声が背後から聞こえた瞬間。
リオトは機敏に、俊敏に、すぐさま部屋を出て、すごい勢いで扉を閉めた。
「あぶねー…」
あんな現場を幼児に見せるわけにはいかない。
後ろ手に閉めた扉にもたれかかり、安堵の息をつくと、メルルはつぶらな瞳を丸くしてきょとんとした表情でリオトを見上げる。
首をかしげているので、かろうじてなにも見ていないだろう。
「メルル、よく聞け。二人はここにいた。今からオレは部屋に入るけど、お前はオレがいいと言うまで絶対に入ってきちゃダメだ」
「どうして?」
と不思議がるのは当然だろう。
特に上手い言い訳も思いつかないのでゴリ押しでいくことにする。
「とにかく、絶対に入るな。ちゃんと守ったら、なにかご褒美やるから、いいな?」
ご褒美の言葉が効いたらしい。メルルは途端に目を輝かせて嬉しそうに笑った。
「うん!」
「ん、えらいえらい」
頭を一撫でして、調理場の扉をくぐる。
鍵が無いのは心もとないが、念のため扉を閉め、今度こそアリエスを引っ剥がしにかかる。
「アリエス、落ち着け。大丈夫だから…」
アリエスを宥めつつ後ろから半ば羽交い締めにし、引きずるようにして後ろへ引っ張る。
やっと解放されたカイナはホッと一息ついた。
「……で、本当に急にどうしたんだ?」
カイナが問いかけると、今度は膝立ちになっているリオトに泣きついているアリエスが震える右手の指先である方向を指し示す。
それはこの部屋の、三人がいる方とは反対側の方向。




